TWITTERでの感想をまとめた話です。よかったら読んでください。
1、ロランとソシエとキエルとディアナ
ソシエは確かにアニメ以外の∀だとほぼ全作ロランとくっつくのだよな。これって逆説的に富野のキャラ造型が成功したということだ。「これは魅力的すぎてけしからん!他人とくっ付けさせよう!」と言ってる富野w以外の作家たちを魅了したソシエお嬢様マジぱねっす。
キエルお嬢さんは三人のヒロインのなかでももっともロランと関係薄い人だが、そもそもキエルがいなければ、ロランはディアナの近くに行くのも恐れている。ディアナから無理やりキエル成分を見出したからこそのことだ。まあどういうことを言いたいかというとロラン…いや富野は変態だということだ。
ロランがキエルお嬢さんを憧れるのは、ディアナに似ているからだ。ロランにとってキエルも身分が上の人だが、ディアナと比べれば遥かに格下。だからロランは無意識にキエルを憧れるようになったし、逆にディアナがキエルに変装した時も、無意識にディアナからキエルを見出してしまう。変態だロラン。
だから結果的にロランはディアナに対して一番複雑な感情を持つようになった。もともとの80%の尊敬とキエルとして接するうちに出来た20%の憧れくらいの具合? 一方、ソシエはやはり愛しいお嬢さんでしかないな。まあ、もちろんソシエを愛するようになった可能性は充分あったと思うけど。
ここからも「平気でうそをつく人たち」の影響を見出せる。ホント、トミノ監督はどういう勉強の仕方をしているのだろう。
しかし、憧れであれ尊敬であれ、ロランにとっては満足かもしれないし、男としては分からなくてもないけど、やはりディアナに対する感情は健全とはいえないな。やはりソシエとくっつくほうが健全だよなとも思う。
2、Vガンダムの戦う子供
Vは子供のゲリラ戦と言った人もいるが、そういう意味では、ウッソを見て驚くザンスカールの人たちという話は、ある種のカルチャーショック的話だよな。アメリカ軍が中東に行って「え!?こんな子供にやらせるの!?」みたいな。
先進国から見れば子供兵は野蛮極まりないのだが、当事者を含めてそうでもしなければ生きられない。で、富野が凄いのは「大人は子供を極力に死なせない。でも戦火が厳しくなったら、大人も子供をいちいち構っていられない」というところもちゃんと描いたと思う。
3、もう一人の絵コンテ千本切り
さすらいの太陽で「富野も参加!?」と驚いた人が多いらしいが、そもそも富野は(現時点判明したものだけでも)100作以上のアニメ作品を参加した人だからな。
でも一番じゃないんだよな。奥田氏のほうが確か110作以上(120作くらい?)。
あとクレジットの絵コンテ数も奥田氏のほうが上。でも「関わったコンテ」(修正など含む)だったら、やはり監督のほうが上。
世界名作劇場シリーズだけで、富野は100話近くの絵コンテを切った…。恐ろしいや。
4、中国語版wikipediaを憎悪する
中国版ウィキペディアの富野由悠季項目は95%以上の内容は私が書き上げたもので、アニメ関連項目のなかでももっとも詳しいかつ信憑性があるものという自負はあるが、もうそれ以上更新するつもりはない。繁体字と簡体字の転換のルールで訳分からんままで何度も警告を食らったから。
集合的知恵? 死ねよ。これまで書き上げたものを全部削除しようとしたが、さすがにそれはいかがなものだったので、内容をF91までのままで今日まで放置してきた。自分がソースを引用しないという理由で、80000バイトの文字を削除できないかな。できればそうしたいのだが。
日本語のウィキペディアのほうがいいよ。内容さえ正しければ、文字転換なんて気にしなくても大丈夫。というか世界中のウィキペディアは中国語だけが訳分からん繁体・簡体転換というシステムがある。あれのおかげで中国語版ウィキペディアは一番レベル低いものとなっている。
中国語版ウィキペディアは台湾・中国・香港ごとに用語も社会事情も何から何まで違うのに、無理やり「文字の転換だけで」全てをいっしょくたにするため、内容がめちゃくちゃで、まともに読むことができない項目が非常に多い。台湾のことを知りたいけど中国のことしか書いてないとか、逆もまた然り。
中国語版ウィキペディアを憎悪する。これ以上書かないよ。自分が書いたもののおかげで監督に対する認識を正す役割が発揮したら、そりゃもちろん嬉しいけど、それ以上クソシステムのせいで、書き手の意欲が削られまくる。
富野項目に限っては、日本語版のそれより詳しい自負があるだけに、思い出すたびに悔しさを覚える。
こういうことから見ても、「日本語は日本人だけのもの」であることのありがたさは、日本人はもっと認識するほうがいい。
5、辻真先氏が選んだテレビアニメ50年50本
辻真先さんの「テレビアニメ50年50本」のチョイスは面白いな。それにしても富野監督は『機動戦士ガンダム』『伝説巨神イデオン』『∀ガンダム』『OVERMANキングゲイナー』の4本か。大健闘だな。 http://www.asahi.com/showbiz/column/animagedon/TKY201212300197.html
6、タツノコプロと富野
誰も鳥海尽三氏と富野の関係を検証したことがないし、関係者に話を尋ねようとしないのは極めて残念なことといわざるをえない。
富野に限らず、タツノコのアニメ業界における影響力や系譜をきちんと検証することがほとんどない。
7、出師表
えー何この卑しい意見?/現代の史家の間では「出師表は本当に諸葛亮が忠臣といえるのか疑わしい。『自分は先帝・劉備がわざわざ三顧の礼を尽くした特別な存在である』と強調しすぎており不自然である。自らの政権を安定させるために自己正当化を図っているのではないか?」と、懐疑的な意見も一部に。
別に歴史に対して懐疑の精神を持たないわけではない。しかしこの文章を読んでなお孔明の忠を疑う人は、歴史の精神うんぬん以前、解読力と想像力がないといわざるを得ない。
古人が「出師の表を読みて涙を堕さざれば、その人、必ず不忠」と言ってるが、それは必ずしも判読を放棄しているわけではない。たとえば蘇軾は「簡而盡,直而不肆」と評したが、それがつまり「文字が簡素ながら全てを語りつくした。言葉が率直ながらも慎みもある」という意味だ。
つまり、現代の史家とやらの主張はとっくに却下されたというわけだ。古来何千万人の人々、何百万人の文人、何十万人の史家、何万人の大家が読んで異議がないこの文章を、現代の史家ごときの恣意的主張が否定できると思い?
だからこそ特異で後世に称えられる存在になりえるのではないかと。でないといくら腕があるとはいえ、たかが蜀ごときの小国の丞相なんかは、歴史のなかで覚えられるわけがありません。諸葛亮が特異なのは、その能力と忠誠に対する再評価の異例の早さだと思います。
8、桶谷顕氏の思い
桶谷顕さんは確かどこかで「富野さんと話しているととても幸せになるのです」「直された脚本が帰って読んだら、ぼくの書いたものはどこに行ったんだろうくらい直された。でもとても嬉しいです」みたいな話をしてた記憶があります。mixiかな?
9、イデオンに作家性はない?
発動編冒頭のキッチンの演技は何度見ても凄い。女をこれ以上なく表現している。もうこのシーンだけで腹いっぱい。
シェリルが途中でギジェの魂と合流するのは、ジェリルに救いを与えるほか、ラストの魂飛翔の唐突感を無くすために入れたもの。このような作劇は、富野しかできないのだ。それにしてもラストのギジェとシェリルの魂が重なって飛んでいるのに、ものすごく感動だ。
イデオン発動編は間違いなく富野の頂点の一つ。しかしもしこの作品に作家性が存在していないと私が言ったら、きっと怒る人はいっぱい出てくるでしょう。
身を削って作品を作ることを作家性の発露と定義すれば、発動編はまさに作家性の無い作品だ。しかし作家性が含まれていないのに、これほど凄まじい映画となっていることは、もう文字とおり「神がかり」としか言いようがない。イデオン発動編は、間違いなく富野作品の極限だ。
イデオン発動編みたいに、作者が冷静なほど自分のイメージを外に投射してそのまま傑作となった例は、富野作品においては、『王の心』の第1巻~第2巻途中だけだった。
10、Gレコ連載早く来て!
最近ちょっと富野さんを嫌いになっている。小説を書いてくれないんで。50本の絵コンテと50本の脚本を一人でやったらそりゃ時間ないでしょうが、せめて何かをやってくださいよ。
Gレコの連載は12期ぐらいに分けて連載しないかな。資料の小出し程度でいいから。
ただでさえ良い放送枠を用意してくれない上に、ちゃんと宣伝と下ごしらえをしないと、いくら富野新作アニメだって売れないよ! それを分かってくれよバンダイビジュアルさん! サンライズさんよ!
11、ライフ・オフ・パイは傑作
『ライフオフパイ』(トラと漂流した227日)鑑賞。一言いうと傑作だ。日本の皆さんもぜひ見に行くべきだ。日本では2013年1月25日ロードショーだ。
『ライフオフパイ』は楽しい映画じゃないが、退屈もしない。美しくて魅せる映画だ。アン・リー監督の感性はすべてこの映画に詰め込んでいる。3Dエフェクトで画面を構成する映画だが、はっきりいってアバターなんか比じゃない。
CGはともすれば映画にとって諸刃の刃だ。ファンタスティックな画面を構築できるが、一歩間違うとアバターみたいに「CGが主役」というような映画を産む。しかし、『ライフオフパイ』では、CGは完全に映画のための僕で、あのスケールの壮大さ、感性の美しさは完全にCGを凌駕している。
富野監督も宮崎監督も『ライフオフパイ』を見に行くべきだ。お二人方が持っていない「何か」を持っている映画なのだ。
『アバター』のキャメロン監督が『ライフオフパイ』に対するコメントは以下のとおり。「本作は、3D映画は興収が確実に見込めるスペクタクルなビッグタイトル作品でなければならないという概念を覆した。3D映画を見ているという感覚さえも忘れてさせてくれる。これこそ3D映画のあるべき姿だ」
『ライフオフパイ』は日本のどの映画より現実に根ざしている。それでいて、日本のどのアニメより幻想的で美しい。ファンタジーが現実に力を与えているというのは、まさにこのような作品のことだ。だんだんファンタジーと現実をリンクできなくなる宮崎駿は、この映画を見て勉強しなおすべきだ。
富野は映画界が3DCGという新しい技術に振り回されて、新しい物語を作れないことを常に懸念してるが、『ライフオフパイ』はまさに3DCG技術で生んだ新しい何かなのだ。3Dがなくてはおそらく実現できない映画だが、3Dのための映画でもない。3D映画のあるべき方向性を示した映画だ。
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