富野由悠季監督とその作品をひたすら語るブログ

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『アベニールをさがして』登場一覧

2009/01/31 10:57|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:0
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 つい『アベニールをさがして』3回目を読了。今回読み終わって、一つ確信を持つようになったのは、この作品は『∀ガンダム』と強く繋がっている。アイデアだけじゃなく、コンセプトも多く共通しているから、もし『V』以前と『∀』以後の富野作品の「変化」というか富野本人の「転向」を探したいのなら、この俗称病気三部曲は絶対に欠かせないものです。
 さっそく書きたいけど、先日一連の記事ですでに気力を使いきったから、今日は世界初!(たぶん。人物紹介なら見たことありますけど)『アベニールをさがして』登場機体一覧説明を公開します。まあぶっちゃけまだ考えを整理していませんからの代原みたいなモノ。ここ数日はかならず書きますから、肝心の部分はちょっと伸ばさせていただきます。
 また、以下の内容はかなり偏見ありますから、使用する際はご注意ください。機体以外は加筆するつもりです。


機体
アラフマーン
 インスパイアー・エンジンを搭載する謎のテンダー・ギア。パワー・索敵・バリアなど、すべての性能が他を圧倒しているだけでなく、インティパ効果をもたらして、搭乗者に超越的なものを見せて、もはやただの機械とは言いがたい偉大なるモノ。その名前は「慈悲深いもの」を意味する。ベストン・クーリガと共に宇宙から日本に降下して、「アベニール」の言葉を日本国民に伝える。
 搭乗パイロット:ベストン・クーリガ→笛吹慧→日向オノレ

ムッシャン
 日本がスターバスター・プロジェクトの機体ノチックをパクって元に作ったテンダー・ギア。建前は治安維持するための特機だが、大気圏内での運用では日本が世界初のため、日本を世界中に睨まれる。大気圏内用だが、宇宙の運用にも可能のように設計されている。
 主な搭乗パイロット:笛吹慧、冷泉キョーコ、ソン・ケージ、日向オノレ、フール・ケア

カウンタッチ
 元々ネフポでノチックを改造して作られた一部配属なテンダー・ギアだが、劇中に出てくるのはコンラット部隊がさらに改造したモノ。そのため、ノチックと共通な識別信号を使っている。また、支援メカ『ブース・アップ』とのドッキングも可能。劇中一番出てくる機体。
 主な搭乗パイロット:ゲイス・カレッカ、(コンラッド)地球降下部隊、(コンラッド)フロント3襲撃部隊

ノチック
 スターバスター・プロジェクト護衛部隊ネフポが使用する、すべてのテンダーギアの基礎たる機体。劇中一番古い機体だけあって、コンラッド部隊のカウンタッチにまったく歯が立たないほど弱い。
 主な搭乗パイロット:ガスバール部隊

カウンタッチ改
 コンラッド大佐と一緒に出撃する機体。カウンタッチよりは性能がいい(はず)。
 主な搭乗パイロット:(コンラッド)プロト・フロンティア移動中ショウカク一行襲撃部隊、(コンラッド)ガスコン部隊、(コンラッド)ショウカク制圧部隊、フール・ケア

メッケード
 プロト・アラフマーンにあたる機体。性能はアラフマーンにやや劣るが、パイロットのコンラッドの技量と相まって、笛吹が操縦するアラフマーンと激戦を繰り返した。「スペース・ボール」と呼ばれる電磁波の塊を敵に投げる必殺技を持っている。
 搭乗パイロット:コンラッド・ヘイヤーガン

ムッシャン改
 元々大気圏内用のムッシャンを、さらに宇宙用に改造した機体。いわゆる日本得意な魔改造ってヤツだ。
 主な搭乗パイロット:冷泉キョーコ、ソン・ケージ、岬中尉、笛吹慧

リック・メッケード
 アラフマーンの後継機。同じくインスパイアー・エンジン搭載のアラフマーン・タイプでありながら、性能はアラフマーンより高い。
 搭乗パイロット:ゲイス・カレッカ





キャロル
 スターバスター・プロジェクト所属の作業スペース・シャトル。

ガスバール
 ネフポ直属フロント3護衛部隊母艦。

ショウカク
 日本が極秘で建造したスペース・クルーザー。

ズィクル
 へイヤーガン・コンラッド部隊所属スペース・クルーザー。
 
オシリス
 へイヤーガン・コンラッド部隊所属スペース・クルーザー。


機体開発の系譜

     ┌→ムッシャン→ムッシャン改(日本系)
     │
ノチック┴→ネフポ・カウンタッチ(劇中未登場)(ネフポ系)
                ↓        ┌カウンタッチ改
        コンラット部隊・カウンタッチ┤                (コンラット部隊系)
                          └メッケード→アラフマーン→リック・メッケード
                       



強さ序列
リック・メッケード>アラフマーン>メッケード>>(インスパイアー・エンジンの壁)>>カウンタッチ改>ムッシャン改>カウンタッチ>ムッシャン>ノチック


富野小説搾り出し(仮題)を読む その8

2009/01/29 22:13|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:0
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富野小説搾り出し(仮題)
  『富野小説』即ち『血と精液100%!』


 新年の疲れる帰省から、ただ今戻りました。4日間、何故か何度も親父とお袋の実家の間に往復した。親戚が何十人もいるからしょうがないけど、一々顔合わせしなくちゃ大変だった。いつの間にか出てきた名前も覚えてない姪や甥が一杯いるしな。まあお年玉を与えなくて済むだけでもマシかな。それにしても、ネットができない環境なので、ここ数日まったくパソコンを使わなかった。ネット中毒なIT奴隷なので最初は気にもしましたが、いざ慣れてみると意外に快適だったな。ニュースはテレビで済むし、富野関連情報などは別に逃げたりしないし、ちょっとした転換でした。

 …と、そんなのどうでもいいとして、今日は上原マリ男さんの文章を語る記事の最後です。この一連の記事を追い続けてくださってる方ならご存知でしょうけど、上原さんの文章が一番特徴なのは、長かろうと短かろうと、必ずどこか正鵠を射る指摘を下すことです。富野以外でいえば、押犬監督関連記事では一番それを発揮しています。押井監督の重厚な語りに騙されず(貶す意味ではない)、直接彼の作品の問題を指摘できるのは、押井ウォッチャーのなかにはなかなか出来ないことです。そこからも上原さんの凄さが伺えます。
 何故こうも的を得る指摘が下せるかというと、それはおそらく上原さん自らの鋭い鑑賞眼によるものだと思いますが、それだけでは、これほどの論述を得ることができません。では、一体どこからそれを得たのかと聞かれたら、それは、おそらく、ファン目線から好きな監督から意識的に離れることと、いろんな角度から作品を語れることだと思います。言葉にすると簡単ですが、実際やるには、とても難しいことです。ファンならどうしても信者贔屓が出てくるから、好き好き目線を抜きでいう客観っていうのは、基本的アニメ評論界?では、殆ど存在していません。でも、それをやろうとしてるのは、上原さんです。そして、彼がやろうとしているのは、富野作品を好きだけの段階から出して、その価値を搾り出すということです。そのブログの右側に載ってる「富野作品と富野本人の評価を分離することが目的のブログ」のは、彼の志です。
 好きだけで語るのではなく、価値があると思ってるから語る。好きだけで話しても個人の好みにしかなりませんが、そのなかから価値を見出せたら、ひょっとしたら共有なものになるかもしれません。これが一番大事なことだと思います。
 また、一つの作品を既存な視点から語らなく、きちんと一つ一つの部分から細かくて検証をし、結論を下す。そうしたことによって、新しい視点と語れる可能性を持ち込む。そこが非常に重要だと思います。上原さんのリーンの翼関連記事から見れば分かるとおり、まさに多角度でいろんな観点から『リーンの翼』を攻める、本当の意味の「解析」です。これを最初読んだとき、賛辞抜きで、本当に参りました。同時に、その単に富野節云々より、よっぽと建設的で広い論述に魅せられました。戯曲との親和性も尺も話の構造も舞台の設定も問題点もキャラデザもカメラワークなどを一遍に指摘する『リーンの翼』の分析、いまのところ上原さんのブログしか見れません。もちろんそれが『リーンの翼』のマイナーさにも関係ありますが、一番の原因はやはり大勢な人が富野節に取り付かれて、富野を見た途端、思考停止したからと思っています。問題もありますが、『リーンの翼』はすごい作品だと確信しています。このへんは、おそらく見てた大勢な人も同感でしょう。では、何が『リーン』をすごい作品にしたのか、それが決して富野節じゃなくて、もっといろんな要素のためなんです。それを掘り出してないと、いい所も見れなくなっちゃうし、いつまでも「なんとなく」レベルに留まっちゃ、あまりにもったいないです。
 上原さんのそうしたスタンスを、一番象徴するのが、この記事です。
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作家論

結構つらい。正直なところ富野小説をさっさと搾り出して、残ったものを論じたい。「血と精液」以外が重要だし、富野作品と富野本人の評価を分離したいのは、作家論をやめたいから。

 これは本当にそうだと思ってます。作家としての富野由悠季はよく語られているけど、ほかの部分が逆にあまりにも語られていなさ過ぎてるような気がします。イデオロギーだけで富野を語るなんてつまらないし(いや、実際面白いけど)、限界もある。富野由悠季の作品が見て圧倒されるのは、決して「富野由悠季という人がすごい」ではなく、必ず何か理由があるはず。
 『イデオン』のあのラスト。映像としては「魂が転生する」、結論としては「皆が死んじゃった」という極めて簡単なものでしかないけど、多くの人があの映像とあの結論以上の「何か」を感じているはず。それもきっと理由があります。それと同じく、『ザンボット』も『ダイターン』も『ガンダム』も、『ザブングル』も『ダンバイン』も『エルガイム』も、『Z』も『逆シャア』も『F91』も『V』も、『ブレン』も『∀』も『キンゲ』も『リーン』も、もし感動させてくれるのなら、きっと原因があると、僕は信じています。それを富野がすごいという一言で済ませたくない。いや、富野由悠季という作家だからこそ、シャーマン的な作り方を否定したい。確かにそういう部分もあるのですが、富野はそんなタイプな人じゃない。彼は『映像の原則』という本を出るほどの「演出家」です。
 覚えて欲しいのです。作家性を、作家としての富野由悠季を一番否定するのが、富野由悠季本人。もちろん本人が謙虚のつもりですが、褒められたがり屋の富野が、何故執拗までその面に向かって「富野さんが作家です」という人にそれを言い出してるのというと、それはおそらく、実体に伴わない作家と呼ばれて欲しくないからです。演出技能があってこその作家。作家性は、そういった特定な構築によって引き出されるものなんです。人の心を触れるモノを構築するには、技法がいります。だからこうして、語る必要があります。
 …と、長く書いちゃいましたけど、富野論については、上原さんのこっちの記事を読んでください。こっちが話したいことを全部代弁してくれました。いや、こっちが勝手に啓蒙された記事だからオリジナル的発想の元だというべきか。

富野小説搾り出し(仮題)
ガイアギア ラジオドラマ(ネタバレなし)
谷口監督の意図を読み違えた 失礼!


 また、作家論については囚人022さんが主宰するだからtominoは・・・のグループ内日記『だからtominoは・・・』ライナー・ノート(仮)を読んでください。個人的には考えさせる記事です。

だからtominoは・・・
『だからtominoは・・・』ライナー・ノート(仮)
「作家性」って何なんでしょうかね?



井荻麟とキンゲ
 これがまた大変厄介な記事なんです。世界で非常に珍しく井荻麟と富野由悠季の関係について語る優れた記事なので、是非一度読んでください。そこから入った『キングゲイナー』論はすごく明快です。
 また、補足として、こっちも一緒に読むのをオススメします。未熟な拙文ですが、一応それなり読めるものですから、読んで頂けると嬉しいです。

■ときめくの1句(1)
(一応続編のもありますが、1と比べるとちょっと劣るかも)

 井荻と富野については、これからも語るつもりですから、もしご意見がありましたら、どうか教えてください。


ブレンパワード

Bプレートは帰ってこない宇宙戦艦ヤマトのこと。しかも超反り返ったチンポ形です。

 よく…わかりません。すみません。


新作まだ?

オレにとってはこの1分1秒がもはや悪意ある倦怠

 自分も同感です。まさにこういう感じです。つか今年見れなかったらアニメをやめるぞ!まあ、元々見れるアニメなんてそんなに多くはないですしね。


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■富野小説搾り出し(仮題)を読む その6
■富野小説搾り出し(仮題)を読む その7


富野小説搾り出し(仮題)を読む その7

2009/01/25 14:25|未分類TRACKBACK:0COMMENT:2
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富野小説搾り出し(仮題)
  『富野小説』即ち『血と精液100%!』


 明日は旧暦の新年!ってのはどうでもいいとして、今日も記事を書く。普段は一日にでも富野監督を語らないとモヤモヤするのですが、ここんとこは今日を含めて何と3日になりますので、これ以上かからないと、そろそろ禁断症候が出ますので、とりあえず書きます。
 しかし、今日紹介したいのは、実は富野記事じゃないんです。上原マリ男さんの富野作品以外の記事について、もう■富野小説搾り出し(仮題)を読む その5で一度紹介したのですが、そのほかにも面白いのが一杯あります。そのなか、私が一番気に入るなのは、その一言しか言わなかったにも関わらず、妙に納得できる、かつブラックユーモアが溢れてる記事というものです。そのなかのいくつかを紹介します。



こ~どぎあす

自分がバットマンだと思い込んでるジョーカーの話

 ダークナイト見たことある方なら、バットマンとジョーカーの立ち位置と仕舞いから考えれば、分かる話ですね。


大塚英志

マッチポンプファシズムの使い手

マッチポンプ+ファシズムの人。まさにそうですね。個人では、作家と評論家の両棲をやりたい人だと認識しています。


せ~れ~の守人

「士郎正宗の下請け以外にもやれるんだよ!」っていいわけだけで作られてます。
十二国期よりつまらないなんて神業(=神山の業)だよ!

 素晴らしい!毒辣(日本語では「悪辣」ですが、少々違うなと思います)ですが、事実ですから仕方ないですね。


劇空間をグリップ

ほとんどの演出家が脚本にまかせっきりだと思う。

あとは「先行する作品群の記憶」まかせ。(かうぼ~いびばっぷ とか)あ ビバップは評価してるよ コミックボンボンの最終形態として(無邪気な作りなんで)

 個人の考えでは、非常に重要な話なのではないかと思っています。「脚本」はまだ分かりやすいですが、「先行する作品群の記憶」という提示から富野作品とほかの作品を語ることはまだ全然しなかったから(理屈として分かるが)、できればこれからもこっちの方向から攻めたいと思います。しかし、難しそう…。


非富野ガンダム

エキゾチシズムとカルト分が足らない

 エキゾチシズムとは異国情緒、異国趣味。カルトは…どういう意味でのカルトはちょっと分からないですけど、両方から導き出された結論は一つ、それは人を引っ掛ける要素の選択の違いです。最近の某アニメは西暦を標榜していますが、まったく響かなかった現状からも分かるとおり、確信犯的なやり方は富野監督だってしょっちゅうやってますが、何故こうも違うのだろうかについて、事実としては明確ですが、これからもっと詳しい検討をする必要があると思いますね。


高畑勲と

谷口の共通点

「この程度の登場人物」には「この程度の実存問題」という『目線』↑褒め言葉ですよー(嘘)

 分かるような分からないような話ですが、とても気になる記事です。高畑監督と谷口監督の個別の「この程度~にこの程度の~」は分かりますが、一緒に語ることなんて一度考えたこともないですので、とても新鮮です。


惜井の作風

鏡を見ながらブツブツ呟いて他人とも自分とも向き合わない↑褒めてないよ

 確かに…押井ですな。


きんぎょ 注意報ではない

パヤオが「近代的な近代批判」を越えてアッチに往っちゃったのは良い事なのか悪い事なのかサッパリわからん。

 去年仕事関係で何度も金魚アニメを見たんですが、パヤオ監督の作品作りの方向性を考えると、本当になんともいえない作品ですね。


作り手の矜持

東理論も宇野理論も作品に見出された時点で作り手としては敗北(を感じると思う)。

まぁ『その読み方も無くは無い』ぐらいだったらいいけど。イデオロギー読みは退屈。

 これは強く感じています。実際、ハマッたことは無いだけれど、理屈として、その理論は面白いと思ってる時期もありました。が、その同時に、そんな読み方に限界があると感じてますし、実際それだけで語り尽くされないのが自分がメインターゲットをしている富野作品ですから、ここで上原が仰られたことに同感です。
 そうだ。別の話を思い出した。富野監督が台湾で講演してるときも似たような話が出てくるんじゃないですか。

(前略)そして、村上隆さんがそういうことを仰ってることも承知しておりますが、村上隆という、彼の特別な立場で、の発言であって、それが、その発言に乗って踊らされる、我々はどうこうするかどうかというのはまったく別問題です。ですから、村上隆が言った、言っているからいいのではないかという論を取るか取らないかという問題は、間違いなく受け手である我々大衆が判定すべきことであって、ま...あの顔を見たら、それだけ嫌いになります(笑)。



うんざり

状況から作品を読み込むのはうんざりなんだよ。「もののけ」以降『作品に状況を読み込む視点』が失効しずぎ。

 同感。パヤオの話の支離破滅は近年になるほど酷くなるもんですよな。でも、やはり語る必要がありますので、機会があればまた別の記事で。


千と千尋

「行きて帰りし物語」をなぞってるのに「行き」と「帰り」をバンクで作って方向性をダブらせるなんてパヤオは意地悪すぎだよ!

 これはまったくそうだと思っています。千尋のあの得体の知れない鑑後感も、きっとそこから来るものだと思います。何故このような作りをしたのか、興味深いです。


ボットン便所みたいなツラ

脚本家の作品しか作れない奴が何であんな偉そうなの?

 これは…自分と無関係ではないような気がしますので、引用させていただきました。正直上原さんにとっても失礼なのですから、ここでお詫びを申し上げます。


 つい次回で最終回ですが、明日から親父の実家に帰らなければなりませんので、次回の更新は木曜日の予定です。また、コメントは返事しますので、よろしくお願いします。


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新年=忙しい

2009/01/24 18:06|未分類TRACKBACK:0COMMENT:0
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 最近台湾のいわゆる旧暦の新年が近づきましたので、ネットする時間はあまりなくて、記事もコメントの返事も遅れるかも。すみません。


富野小説搾り出し(仮題)を読む その6

2009/01/22 20:16|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:0
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富野小説搾り出し(仮題)
  『富野小説』即ち『血と精液100%!』


 モーニング・ブルードラゴン12連勝!はどうでもいいこと。上原マリ男さんがこのブログで久々にコメントをくださいました。とても嬉しい。ここん最近の記事は「富野小説搾り出し(仮題)を読む」とタイトル付けたように、もしかしたら幅が狭くてプライベートに入ってる記事になってたと思う方もいるかもしれませんが、このブログを書いてるバカの感想メモ書きとして取ってくれればありがたいです。書きたいものもあるのですが、一応このシリーズを終わってから書くつもりです。



富野美学

私は彼の演出を『ライブ映像高踏派』と呼んでいる。

 これだけじゃさすがに簡潔すぎて良く分かりませんので、補足説明として

『映像の原則』が、ある視点からは全然映像の原則じゃなかったというオチ(笑)を言語化したものです。
そのうち書きます。

と書いておりましたが、やはり分かる人ぞ分かるような説明でした。しかし、あの本はある意味確かにそうですね、理念が一杯入ってて。だからこそ難しい。

 …と、額面的な字義を取ってなんとなく分かるつもりで書いましたが、よく考えたらそもそも僕は「高踏派」はどういうものなのか、まったく知りませんでした。自分の無学に恥ずかしいので、さっそくウィキを見ました(ウィキで「学」を探すのもいかがなものだけど…)。

高踏派詩人はテオフィル・ゴーティエとその「芸術のための芸術」(Art for art's sake)という教えの影響を受けている。ロマン主義の詩の自由な形式と、過度の感傷性および社会的・政治的な積極的行動主義と見られるものへの反動として、高踏派は形式の厳格さと感情の超越を持って、異国趣味で古典的な主題を選び、厳格かつ完璧な作品の完成に努力した。この感情超越の要素はアルトゥル・ショーペンハウアーの哲学の著作に由来するものである。

 なるほど、ショーペンハウアーなら少し読んだことあります。確か主観と客観、意志と表象に関する思考ですね。意識したかどうか分かりませんけど、確か富野の劇作りはかなりそれにフォローしてるような気がします。もちろん僕には説明する能力がまだありませんから説明できませんし、こっちの説明より『映像の原則』を読むほうがよく分かりやすくなりますから、皆も買ってください。今でも大人気発売中ですよ。


メタルマッスルエンジン

『形そのものがエネルギーとなる』ってのは確かに文芸的に読めるよ。でも結局「リキュール」は必要だったんでしょ?稼働時間とかの設定も詰めてないし。準備期間があった割には、、、杜撰だね。細かい詰めの作業を手伝ってやれよ、周りは。 え?設定なんかにこだわってたら面白くなんない?

細かい設定詰めた後にそれを無視すりゃいいだろ。「決めてないから描けない」のと「決めたうえでソレに振り回されない」のは全然違うよ。

 この記事が示したいくつかの問題点については、本当に的を射る指摘だと思います。富野作品は色々残念なところがありますが、これもその一つ。
 思えば、富野作品が面白いのは、よく「作品ごと新しいモノを持ち込む」を原因の一つとして挙げられています。これはまったくそうです。演出の仕方も作品のモチーフもそうですけど、一番大事にするのは、おそらく「ドラマ的な表現になりえるもの」と言えるでしょうか。そして、一旦それらの要素を劇中に持ち込めば、もう「劇世界のなかに厳然と存在してるモノ」として扱う。作品ごと作品世界専有の固有的な映像と言葉を作る、これは富野の劇世界をグリップする力が何故他の監督より優れる原因で、富野がアイデアマンと呼ばれてる所為でもあります。もちろん、それらは完全な創造品だからこそ、文芸的なものとは言えます。
 しかし、問題はその文芸的なものを作った後のことです。上原さんが「リキュール」として表現したように、どうそれをフォローして、ちゃんと劇中に使えるものにするのが、むしろもっと大事なことだと思ってます。富野がアイデアマンと呼ばれてるのは、アイデアを出してくれる代りに、設定はあまり気にしない人でもありますから、周りがその核となるアイデアに、さらなるアイデアやら理屈やらを付き加える必要があります。いくら富野のアイデアと演出が凄かろうと、一人の力であらゆる面を届くのは、決してできるはずもないこと。そのとき、周りにいるスタッフのサポートが必要です。
 メタルマッスルエンジンの「形そのものがエネルギーとなる」もそうですけど、凄いアイデアのわりに、イマイチ響かないのが惜しかったですし、痛かった。ダンバインの「オーラバトラーは強獣の神経系や筋肉から作られる」というアイデアも素晴らしいが、結局本編にはまったく話に反応できず、「昆虫の恰好をしてるロボット」で終わった。スタッフの技量とやる気の問題もあると思いますが、ガンダム系は大体非ガンダム系より届くのもなんとも言えないことです。これについてはまだ考えていますから、いずれはまた別の記事で。

 最後は設定の話ですが、これが完全にそうだと思いますね。確か富野作品のスタッフの口からそれらしい言い訳を聞いたこともあるらしいが、言い訳ですね。つか、設定を作れ!どうせいらない部分は富野が後で放棄するから、最初からきちんとした設定を固めるほうが絶対にいい。


ミイヤ ラウジン
 『キングゲイナー』一番謎の人物、ミイヤ・ラウジンのキャラクターとしての失敗。謎というか、結局置いている位置以外まったく意味がないキャラになってしまったのが痛かった。「パイドパイパーとしてのミイヤ」は本当に見たかったですな。まあ脚本はアレだから仕方ないですけど。ただし、僕の意見でいえば、ミイヤというキャラについてそれほど失敗したかというと、そうでもなかった。あの程度の話ならこういうキャラも許せると思いますが、正直満足していません。というかできません。『キンゲ』が薄いだから、ミイヤの薄っぺらさも許せるということは、決してなかったんですから。

 しかし、ディアナ様と聞いて、思いついたのはこの話です。

――じゃあ、ミイヤの設定も、1クール終わるぐらいまで曖昧だったんですか?

河口 ミイヤについては企画の段階で、富野監督と僕とバンダイビジュアルの湯川(淳)さんとで全然意見が一致しなかったんですよ。僕とか湯川さんから見ると、富野さんの言うことをそのまま取り入れると、『∀』のディアナ様のポジションに入ってしまうように見えたんですよ。もちろん、監督はそんなふうになRないって力説っするんですけど。これもまた平行線で。だから、第1話からメインでミイヤを出すと、またケンカになるんでしばらく出さないでおいたんです。

 で、このミイヤはどうディアナ様に似てるというと、この設定を見ましょう。

ミイヤ・ラウジン(18歳)

 ヤーパンのエクソダスの先導者になってしまったオタク・フェロモンを発するシャーマン。
 一見なよなよと見えるが、時に発令するというパフォーマンスは得意。
 つまり、ミイヤ伝説というのがあって、それにしたがって名前をつけられたに過ぎないのだが、自分が本物のミイヤだと信じちゃった娘だろう。
               (ちなみに、現在のわれわれの世界で最も多い名前がマリア)
 ドーム・ポリスの人々がつまらなそうで、やることがないらしいからと、エクソダスの第一歩を踏み出した人物で、外に行けば面白いだろうと思った、というのが、究極の真理になる。
 表向きは、五賢人の末裔を自覚して、ファイブズ教を信奉して、ヒエラリストや貴族がいる世を嫌って、リターンリズムを実践すれば、人は活性化すると信じた側面はある。
 ヤーパンを自認しているが、それだって、本人の信心でしかない。知恵あるものを探し求める氏名をいただいた理想主義者ではある。俗物的なところがあっていいが、どういう仕草が美しいか、といつも気にしているようなところはある。だから、人につけるポーズというのは、得意いなのだ。

 これはおそらくすでに河口佳高プロデューサーの言ってたディアナ様そのままからまた一段改変したときの設定なんですが、公と私の両面性を共有するリーダー的部分はまだ残っている。正直どこか今までの富野作品の延長線にあるような立ち位置にいそうなちょっとだけ中途半端キャラになってしまうような気もしますが、バランスは取れてると思います。
 どころが、ミイヤというキャラクターはここから一変した。

僕は「ファーストガンダム」(『機動戦士ガンダム』)が凄く好きだったんですよ。だけど、次の『(機動戦士)Zガンダム』は微妙だと思ってたんですよね。それで、サンライズの関係者の方の昔話を聞くと、「ファーストガンダム」では、やはり富野さんと戦っている人がいたらしいです。それは星山(博之)さんであったり、安彦(良和)さんであったるするんだけど、戦っている人がいるせいで、バランスのいい作品になっていたんだと思うんです。だから、富野メモ通りに書いちゃダメだと思ったんですよ。最初にシリーズの内容に関する富野メモをもたったんですけど、それは一旦破棄して、僕に作らせてくださいと言ったんです。それは僕が書いた方がいいものになると思ったからじゃなくて、単にいいなりなはなりませんよって宣言してるだけなんだけど。

 ヒドイです。酷すぎます。謙遜なのは知っていますが、なんだその「単に」に「だけ」の言い方!あれ以上のキャラを作れないのなら、自分の手でキャラを汚すな!あんたと河口の富野作品でのしゃばりはもうウンザリだよ!気に入らないから変るとか、バカ!ディアナ様的なキャラはまだ発展する余地があるのに、なんで邪魔をしたのよ、大河内!アイドル被りの設定はいいが、結局それも生かしてなかったじゃん。
 結局何もかも微妙になっちゃった。僕は嫌だ。


ガイアギア ラジオドラマ(ネタバレなし)
 ガイアギアに関する記事です。大変分かりやすくガイアギアの基本構造を説明してありますので、ガイアギアファンなら皆一回読むべきなのです。それくらいタメになる記事ですから。
 しかし、残念なのは、僕がガイアギアを読んだことありませんから、その内容についてまったく語れませんけど、上原さんが記事のなかで指摘をなされた幾つかのポイントについて自分の意見を話したいと思います。
 
1.『ガイア・ギア』が『逆シャア』と『F91』の間のミッシングリング:最近また富野小説を読み始めるようになった僕にとって、小説は本当に富野のアニメ作品の繋がりを探すための宝庫だと改めて思うようになっていますから、これについて本当に興味ありますね。そういう意味では、すでにある程度の話が分かる『ガイア・ギア』よりも、話どころか本自体見かけたことすらない『シーマ・シーマ』のほうが気になりますね。時系列から察するとF91とVの間にいるし。

2.ガイアギアの権力構造は逆シャアまでの総決算:上原さんはさらにこの作品の成因を「おそらく制作的に、商業的に、作家的に思い通りというわけにはいかなかったガンダムワールドを整理したかったんだと思います。」としています。
 総決算については、まったく同感です(読んだことありませんが)。そういう意味では、ひょっとしたら『アベニールをさがして』もそう言えるかもしれません。設定の使い方も、やり直しの方法論も、じつをいうとかなり近いなんじゃないのと、未読ながら勝手に推測します。さらに、「ガンダムワールドを整理したかった」という点についても、『アベニール』もそんな部分が感じられます。
 じゃあ、『アベニール』と『ガイアギア』はどこに違うのかというと、『ガイア・ギア』はガンダムシリーズの総決算ですが、『アベニール』は総決算をしたうえ、さらにその上に行くという。つまり、否定と肯定が同時に行うこと。方法論としては『∀ガンダム』と極めて近いから、『V』以前と『∀』群のミッシングリングを解く鍵だと言えます。
 そのほか、「語感」に対して指摘も、『アベニール』では発揮しています。サージェイ(=自衛隊の後身。日本軍国主義の象徴として世界中にボロクソ叩かれる)、アベニール(=未来)、アラフマーン(=慈悲深いもの)など、劇中の解釈も相まって、実によく連動しています。そういう意味では、ますます『ガイア・ギア』を読みたくなってきたよ、僕は。『ガーゼィの翼』関する言及もありまして、簡単ながらよく整理していた記事だと思います。

 このほか、サブテキストとして書かれた『自己批判 「重度の富野信者」の愛と裏切りの日々』も、かなり重くて響く言葉なので、自分が迷いそうになったときに、ぜひ一度よんでください。初心回帰になるのに最適な叫びですから。


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富野小説搾り出し(仮題)を読む その5

2009/01/21 13:42|未分類TRACKBACK:0COMMENT:0
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富野小説搾り出し(仮題)
  『富野小説』即ち『血と精液100%!』


 上原マリ男さんの富野作品を語る記事は面白いですし、ためにもなりますが、さすがに毎日富野ばかりだと疲れますので、今日は上原さんの富野以外の記事を見ましょう。というわけで、今日は後半戦に入ります。



めたるぎあ ふぉー と オシーマモル
 メタルギア4と押井守監督の話。爆笑した。つまらない(シリアス)小島作品と押井作品を語ってるのに、よくこんな面白い記事を書けるなんて、さすがです。皆さんも是非読んでください。MGS4の公認する欠点を一言で片付け、そして押井監督のために、愛のムチの振ったという記事です(注:個人の意訳)。
 このブログの性質で、あまり富野以外の話題を話しませんが、押井守監督の作品も見てます。全部ってわけじゃないですけど、大体一通りチェックしてきた。なので実際自分が深い検証や思考をしたことはありませんが、一応評論家かネットの押井論の内容は追っていけるつもりでいます。

微温的な共同性に浸って慣性質量のみを増加させつづけてきたアニメーションの世界(by押井)

 …言いたいこと分かりますが、どう見ても犬監督自分のことしか見えないってのが、おそらく、気のせいじゃないと思います。
 思えば、押井作品がどれも同じものに見える訳も、作品作りはだんだんアッチの世界(どっち?)に行っちゃうのは、その文芸的な設計で現実を語りたいあまり、だんだん現実への着力点を失ってるからじゃありませんか。漠然としか考えていませんけど。
 才能は間違いなくある人ですが、まさに自分の好みで振り回されるタイプな人ですね。かといって表現はなんとかの域に達してるから、余計に始末が悪い、という感想です。
 最後は例によって、乱暴な引用でまとめをします。

『不幸になる権利』  だとぉぉ!!

てめぇ! 何様だ!!(お犬様か)

ブっ殺す! イヌが!  赤イヌにして食っちまうぞ!!

『幸福になる権利を行使した結果、不幸であることも受け入れる』
これしかねーだろ! みんなそんなことぐらい知ってるよ!

 個人的には大好きな一段です。


ヴいなす戦記
 ヴィナス戦記から見る安彦良和。安彦論はこれで尽きる。

安彦本人の自己規定とは正反対のセンスに満ち満ちてる。

・タブーを破ると男が立って、したがって女はそれに惚れる。
 (基本的に良和ストーリーには娼婦しか登場しない)
・タブーを破ると男が立って、したがって男はそれを称える。
 (味方の権力者には素質を買われ、敵の権力者には目の敵にされる)
・もちろんタブーのレベルは慎太郎の《ちんぽ障子破り》程度だ。
・戦いに参加しないようなオカマ野郎は死んで当然だ。
 (安彦結構男らしいじゃん、同感だよ)

 安彦作品はどれも基本的にこのパターンですね。唯一パターンに嵌らない、かつ売れるのは『オリジン』。なんだか皮肉ですな。で、トミノコじゃないけれど、富野の作品作りに反発(+自分も物語を創造できるのを想像)して出走する安彦は、アニメ界・マンガ界のなか一回りして、結局たどり着いたのは、やはり富野の作品。このゴールドパターンはまさに■トミノコ族の愛憎(または卒業)。の人たちと同じですね。富野をやっつけるには、富野の何かで富野を正面から挑むしかないだろうという。
 しかし、『オリジン』ではまたその自己矛盾に陥ってるのが安彦という人。「ニュータイプ」を意図的に誤解し続けて、「人間は進化なんてありえない!人は超人にならなくてもいい!普通の人でいい!」とかいってる割に、シャアなんかをどの(UCの)歴史の場面にも参与するスーパーマンとして描く。なんじゃそりゃ。ニュータイプじゃなければなんでもいいってもんじゃないだろう。確かに『オリジン』の読者は多い。しかし、旧来のファンはともかく、新規の読者の大半が『オリジン』を見る理由は「絵が綺麗だから」と。それでいいのか!安彦!
 それと、毎月『富野に訊け!』をチェックするために『アニメージュ』を読んでいますが、ついでに安彦コラムも読んでます。が、一番不思議なのは、なんでこの人がこんなに幼稚なの?まあ、やっさんですからどうでもいいけど。


めたるギア 四
 メタルギアをシステム面からの検証。鋭い指摘の連続です。一番同感なのは、別にMGS4(どうでもいいけど、Sはいらないよね)に限った話じゃないけれど、システム面が一番大事なのは、プレイヤーのゲームをする意欲を煽って汲んで、ゲームの一部としてその意欲をそのゲーム世界にフィードバックすること。これができるゲームデザイナーは総じてすごい。昔の小島秀夫とか昔の桝田省治とか。


あの時オレは、確かに「00」を褒めていたんだ。
 1期が終わるころの記事ですが、00もこれくらいぶっ飛べば、今頃もっと見れるものになるでしょうな。また、この記事で改めて富野演出の凄さが確認できますので、オススメです。具体的いうと戦場をどう物語とドラマに連動するところとか、アニメに対する方法論のしっかりさとか。もちろん、富野だから全部が成功してるはずもなく、皮肉なのは、富野のガンダムの深刻さは一部以外、総じて富野の非ガンダムよりしっかりしています(もちろん例外あり)。


デスノート
 真面目すぎるとコメディになっちゃう悪い典型。というか想像力が足りない作品でした。風刺にはなれるか、この作品?


だ~くないと

傑作すぎだろ、震えたわ。

あまりのトップダウン思考とワーカーホリック振り(主要人物はみんな働き者です、ジョーカーも)が悲劇を招いてると奴らに教えてやれ(笑)

冒頭の「スクールバスとその横スルーのパトカー」ってワンカットだけで、この映画のリアリティを宣言するのはクレバーすぎる。 (富野も結構この手のテク得意だよね、リーンのガンズ大尉のマスク脱ぐシーンとか)

 この作品は確かに富野も褒めてるよね。だからこっちも褒めてやるというわけじゃないですが、最近の映画のなかでは確かに結構見れる作品だと思います。
 気になるのは、なるほど確かにこの作品の「リアリティ」の線引きの問題ですね。この監督、ある意味犬監督よりアニメと実写のせめぎ合いを分かってる、ような気がします。


うえだはじめの Qこちゃん
 ひどい。

 むしろ、この記事が気になるのは、この一文です。

(福井が)『王の心』を「白眉だ!」とかどこかで書いてたらしいし。

 ソース分かる方、どうか教えてください。


海がきこえる

最後の20分の失敗がね 大きすぎたね
ヒロインが最後にお辞儀するのもかなりキツイ

 正直、この作品は今見ても分からない部分があります。というか望月智充氏の感性が分からない部分もあります。だから気になる。


イデオロギー批判

『様態』を読む力が無いことを、作品から抽出したイデオロギーの是非によって糊塗する愚かな評論家は批判されるべきだ。が、受け手以前に、作り手自身がイデオロギーに左右され、「表現」を損ねているならその限りではない。積極的に批判されるべき。

要は使い方次第

 アニメ以外、僕は本とかも読んでいますけど、評論ならおそらくアニメか映画の評論しか見てませんから、直接思いついたのはアイツとアイツとアイツとアイツくらいですけど、このスタンスは堅持すべきだと思います。


顔見りゃわかる どーゆー人間かは
 見えない仮想敵をさも実在するようにまともに戦おうとしてるマッチョすぎる監督に対して(それも公のビジネス誌に向かって)、上原さんがバッサリ切り捨てた。これは爽快。爽快で面白いですし、その話も正鵠を射るなので、是非是非一度読んでくださいまし。
 しかし、不思議なのは、当時個性的な発言に見えても、オンエアが終わった今から見直すと、あまり個性が無くなっちゃった感じがあります。その代りに、また日経ビジネスオンラインで別の見えない敵と戦ってる監督が出てきますから。2人は一見違うけれど、思考の仕方は実に似てます。というわけで、個性って本当に難しいものなんだなと、改めて実感しました。


りヴぁいあす
 リヴァイアスとコードギアスと谷口悟朗と大河内一楼をまとめて語る記事。あと作品と商品論も富野由悠季論も含めています。かなりタメになる話です。僕みたいリヴァイアス(結構)とプラネテス(それなり)を気に入り、ほかの作品は全部駄目な身として、謙虚に受け止める必要がある分析だと思います(なお、リンク先の記事のコメント欄に書いてあった通り、リヴァイアスの泣きながらセックスは未だに僕のなかのフォーマットの一つです)。
 この記事に対して、自分が一番の注目点はここです。上原さんが価値あるアニメを【この形式はアニメにとって後々絶対プラスになる。一見評価されづらいものは目のある俺たちが支えなきゃ】とあげているところです。僕もつかつに商品と作品を区別しません。理由は簡単です。だってできませんし。なので、僕にとって価値がある作品は「アニメの裾を広げた」以外、「作られた当時の売り上げと関係なく、時代と共に消化されないため、結果的に長持ち商売ができる作品」ということです。まあ富野作品のことですね。ある意味擁護に違いませんが、富野だけへの偏頗にならずにほかの作品にも通用できる評価の仕方ですし、僕の一貫のスタンスですから、このブログを書いてる最中、いつも心の中に置いている念頭です。

 最後はまた引用で締める(上原さん、申し訳ございません!)。

30越えた人間がマスに向って自己肯定だけするのがどうもな。下品だよ。

富野も言葉の上では下品だが(『死んじゃえ!』『おマンコ!』『ぶっ潰す!』だもんね)、他人の名前を出しても自己肯定ではなくそれを含めた現状批判、もっと言えば自己否定的に話題を引き寄せるのでいやらしくない。つまり政治性に敏感ってことだ。上祐史浩の説法をyoutubeで見てもらえばわかると思うが、『世の中がこうなっている事』と『世の中がこうなっていると説明する事』の間には何の関係も無い。それどころか底の見えない断絶が広がっている。それを意図的に無視して語ることを政治といい、無意識に見ない事にして動員されることを処世術という。

富野の語りは『奈落の底を覗きながら』両者に橋を架け、しかしそのことによって距離を無限に広げ、交わりは永遠に失われる。だから真剣に聞くことが出来るし聞く価値もある。不可能性を誰より見つめている。ガーゼィの巻末インタビューで彼は「想像力を想像して欲しい」と絞り出すような声で答えている。あまりに絶望的な言葉なんで涙が出ました。富野アニメにはいつも『縋る様に求めるもの』がある。それは幻として一瞬だけ垣間見えたり、全てが打ち砕けれることで可能性としての存在を温存されたりする。そこには自己肯定も自己否定も嫌悪も免罪も存在しない。あらゆる思惟から開放なる【現実】(希望とは言うまい)の口が開く、そんな瞬間を富野は掴もうとしてるのかもしれない。

 この真摯の語りに、心を打ち抜かれた。とにかくコメント欄を含めて全編見るべき記事なので、是非一度読んでください(こればっかり)。


立ち食い師 映画
 立ち食い師と押井監督。この人の押井論は本当にいつも核心に迫っています。言葉は厳しい(というか口が…)が、悪意がないから、とても充実に仕上げています。まあ、僕みたいな傍観者から見れば単純に面白くてタメになる記事ですから。


谷口監督の意図を読み違えた 失礼!
 谷口監督のインタビューとそれに対する返答、谷口監督の富野批判とそれに対する反応、近年富野監督を文化人として持ち上げられる連中と彼らの富野批評の問題に対する指摘、マッチポンプ的な手法の限界、谷口がルルーシュになりきることによって自分確認する動機とその後の可能性、ほかには押井のギアス仕掛け論へのカウンターアタック、リヴァイアスと高畑作品の意外の関連性など、一気にまとめて語ってる記事です。これらは全部繋がっていますので、この一連の話を追うだけでも精一杯なので、僕には話を細かく刻んで語る力がありません。リンク先で全篇読むのがオススメです。
 この記事の内容に対して、自分はほとんど教えてもらってる状態なのでなんともいえませんけど。ここで書いた言葉は、初めて読んだ当時から現在まで、ずっと自分が意識してることである。

福井やササキバラも結局、富野作品と最後まで向き合えずに批評し切れていない。だから富野信者も含めて『作者と作品の境界面』しか語れないし、語ろうとしない。あとはネタ的に富野を消費するだけ。 この馴れ合いを何とか出来るのはやはり批評の言葉だけだし(批評は批評によってしか乗り越えられないんで)、信者こそが富野に最も厳しくあるべきと俺は思う。もちろん「切る」のではなくで『分析』し尽くして貢献するつもりだ。『中だるみ』も『見にくさ』も絶対に原因がある。テクニカルと動機の両面で分析すれば突破口はあるし、進化の道筋にも当たりがつく。

 僕もまさに新訳Zの数年間のあの馴れ合いが大嫌いな一人なので、自分をそうならないように頑張ってるのが、このブログで富野記事を書き続ける原因なんです。そういう意味では、本当に上原さんが与えてくださった啓発に感謝しています。


 息抜きのつもりで書いてたが、長くなりすぎましたな。もっと精錬な言葉を手に入れたいな。まあ自分も感想レベルの記事を書いてるつもりなので仕方ないか。


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富野小説搾り出し(仮題)を読む その4

2009/01/20 21:35|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:2
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富野小説搾り出し(仮題)
  『富野小説』即ち『血と精液100%!』


 朝青龍単独トップ!安…日馬富士、相変わらずの白鵬キラー発動!爽快爽快。こりゃ千秋楽が期待できるぞ。ついでに某日5アニメの視聴率を引き下がることもできますし(ごめんなさい)。
 さて、上原マリ男さんの富野記事を語る4回目です。



ニュータイプ(雑誌の事じゃないよ)

本来的にはかなり保守的な概念だと思う。

 実際、79年放送当時、このニュータイプという考え方に対して、すでにいろんな指摘が出てきた。SF作品を挙げるまでもなく、『地球へ…』のミュウやスターウォーズのフォース(これの胡散臭さはかなり気持ち悪いと思う)からの影響なんじゃないのかなという批判も、ありました。というか、あの「ガンダムはSFか否か」という今見るとかなり訳分からん争論も、実はここから来たものです。つまるところ、引用元はどこなのかはともかく、「概念としてのニュータイプ」は決して新しくないということだけは確実に言えよう。
 しかし、そうした「ニュータイプはニューじゃない」という指摘があるにもかかわらず、これほど反響を受けてるのは、ひたすら富野の演出がうまいほかない。これについて、HIGHLAND VIEW 【ハイランドビュー】のTOMMYさんがすでに素晴らしい記事を書いてくれましたので、そっちからまとめの部分だけを引用。

HIGHLAND VIEW 【ハイランドビュー】 :
ニュータイプほどステキな戦争の道具はない <機動戦士ガンダムでのお約束と言い訳>


(1)言い訳としてのニュータイプ(戦闘のための異能力)
(2)ロボットアニメ演出上の道具としてのニュータイプ
(3)テーマ、物語の落としどころとしてのニュータイプ

 これも設定と実際の演出を一つの劇空間に緊密繋がれる富野だから出来た迫真なもので、富野の「リアリティ」の一貫の詰め方です。逆にいうと、最初のテレビ版のニュータイプは何故叩かれたというと、やはり唐突すぎるから、という一言に尽きます。「勝手にアムロをエスパーにするなー」と、安彦良和も星山博之氏をはじめとする脚本家たち(山本優が特に反応が激しい。SFマインドが触発されたからか?)も当初言ってたこと。
 もちろん、当初はともかく、そうした誤解をさらに広げたのは他でもなく、富野監督本人でした。『Zガンダム』だけでも衝撃なのに、『ZZ』『逆シャア』…『V』まで、とにかく「仕掛け」というか「批評的なフック」としてのニュータイプはかならずどこか入っているから、飲み込めずに混乱したファンを大勢生んだのです(ここでは作者、つまり富野本人が信じるかどうかの問題を無視します)。でも、(作品の内外といった部分の)外部の解釈は変るものの(そうした「概念」に対する「誤解」はかなり面白いことだと思うが、何故か不満する人がかなり多いらしい)、軸はあまりブレてないから、「ガンダム」と「ニュータイプ」(雑誌じゃない)は今日まで生き延び来られたと僕は信じてますし、当初は批判的な態度を取ってたのに、後に星山氏みたいそうしたものを使ったことに対して理解を示した人も出てくるわけです(逆に、安彦は「意図的」に誤解し続けてるという…)。
 ところが、リップサービスかシャレのつもりかは知りませんけど、最近の富野記事やインタビューなどでは、なんかやたら富野が「ニュータイプ」という言葉を使うところを見かけるようですが、まあ「新しい環境に対応できる人間」という意味なら別にいけないのですが、気になる人はどうしてもそこに引っかかるのだろうと予想します。
 …って、結局上原さんの言ってた意味も分からずに、勝手にペラペラ喋ったような気がしますな。迂闊でした。


きんぐげいなー

ストーリーに力を入れると「V」になるからといって『逃げ』すぎだろ。って思った。
だからリーンの翼で、『突破口』が見えたかも?

とはいえ『次』がすぐ出てこないのもよくわかる。『フィルイン』的な引き出しはいったん全部使っちゃったって感じだもんね。

 Vは傑作だと思っている僕にとって、何故富野監督はVになるのを怖れるのか、実に良く分かりませんでした(いや、ある意味分かるけど)。しかし、『キンゲ』より『V』だろう?と思ってるから、その「逃げ」の意味と理由が分かっても、うかつに肯定できません。
 あと、確かに『リーンの翼』で一旦出し切った感じがありますね。山田玲司の「自分の中のなにかを殺す」というわけじゃないですが、こういったスタンスは富野監督自身も認めます。

本当に残っていく児童文学は、作家にとって全身全霊で書いたものなんだ。だから「エンジョイ」してはいけない。子供に向かって本気で話すと、子供は大人が本気で話したことを必ずいつか思い出すんだ。私はそれに賭けました。血を吐いて出し切ったら、また次のものが入ってくる「器」が自分の中にできるんです。

 だから、僕も『リーンの翼』を「富野由悠季の遺言の一つ」と勝手に認定してあります。


きんげいなー
 この記事の本文は一句だけですが、本命はコメント欄の会話にあります。

キングゲイナーという作品がな…
私は富野自身が物語の綱を握らなければならないと思います。
で、ブレンや∀みたい危ういけれども何とか保ったバランスを踏まえて考えると、
キンゲの失敗はどうしでも構成のせいだと言いたいのですが、
それって富野に言い訳をするになるんでしょうか?

という質問に対して、

オレもそう思いますが、、
富野の周辺にいた人で一番出世したのがその構成の人だから、なんかやりきれないです。

という返答が。

 さらに、

プロデューサーやその他もろもろに富野をダシに使われた気がするのは、信者の被害妄想かな?

というのが、完全に賛同です。決して被害妄想ではないのです。
 絢爛舞踏祭とエウレカはともかく(また議論の必要がある)、シリーズ構成とプロデューサーは絶対にそうです。大河内氏の部分はもう前の記事で話したからここで多言しませんが、正直河口Pの指揮と制作スタンスの相性も悪い。作品作りといい宣伝といい、昔はぼんやりとしか感じない違和感が、最近になってどんどんはっきりと感じるようになっています。ブレンパワードの時の妙にでしゃばり制作設定も、『キンゲ』と『リーン』の時のプロデュースも、はっきり言って誤った方向に行っちゃったとしか言いようがありません。この2人は能力があると思いますし、ほら谷口に似合うでしょということですが、これについていずれまた別の記事で。
 それから、富野のテクニックについての話ですが、富野のその要はテクニックの部分が『劇空間をグリップする力』と完全に表裏一体になっている。ですから『キンゲ』の場合は逆にドラマだけと割り切ったキンゲの場合、テクニックに徹して【中身が完全に失われる】って事態を引き起こしたということを、上原さんが指摘がなさいました。確かに『キンゲ』という作品は富野アニメにして珍しくは薄っぺらい作品です(もちろん、ほかのと比べてそう感じさせないのが富野の演出の上手さと、他の作品の下手さによるもの)。キャラの構造は相変わらず上手いですが、話全体はそんなに何度にも見れるようなレベルになっていないと思います。そこは同意します。
 しかし、

そこらへんが、『演出テク』が優れているほかの巨匠たちと富野の待遇の違いにつながっているような、、、
他の巨匠はそれほど『劇空間をグリップする力』が優れているとは思えない、というより『演出テク』によってなんとなく劇空間(っぽいもの)が構成されてるだけでしょ って思います。

このくだりは今見返すと、良く分からなくなりました。『劇空間をグリップする力』の差は分かりますが、『キンゲ』から富野とほかの巨匠の違いってのは果たしてどういう意味なのか、僕にはよく分かりません。分かる方がいらしたら、是非教えてください。

ちなみにキンゲは一話の時点では狂喜乱舞してました(笑)。

 ああ、すごく分かる!


映像の原則
 この本に関して、自分の立場のこともあって、あえてコメント控えさせていただきますが、少しだけ言わせれば、実用と富野の思想を分かる両方とも、かなり有用な一冊と断言できます。アニメ鑑賞の目利きにもとても効く本ですから、これを読めばマユゲ監督みたいに3年アニメ見ないことしなくても本物を分かるようになるぞ、とここで宣伝します。

 最後はまた引用。

信者としては、「V」までの富野が一体何に追い詰められていたのかが(人的な、物理的な制約の事ではなく)わかっておもしろいよ。「それがVガンダムだ」や他の媒体での富野自身の自己言及より「映像の原則」のほうが直接的だと思う。

 引用ばかりでなんだか自分の記事になってないようですし、上原さんに対してもすまないのですが、しばらく続きさせてください。


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富野小説搾り出し(仮題)を読む その3

2009/01/19 23:20|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:6
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富野小説搾り出し(仮題)
  『富野小説』即ち『血と精液100%!』


 ちょっと余裕が出来たので、連続ラッシュだ。上原マリ男の記事はどれも考えさせられる内容ばかりなので、解読はもちろん、流し読むですら大変だったです。その代わりにユーモアもたっぷり入ってるから苦しくないですけどね。


ゼータ
 Zガンダムのテレビ版、小説版、劇場版をまとめて語るもの。Zガンダムを完膚なきバッサリ斬る。テレビ版も駄目なら、劇場版も駄目。これ以上爽快極まりない記事です。
 テレビ版について、上原さんがこうおっしゃいます:

 TV版の問題点は『登場人物のアノミーな状態』を『アノミーな演出』で表現してしまった事にあると思います。つまり、形式まで昇華されていない『想念』で中身を成立させているということです。ヒドイ言い方をすると、「表現」になっていません。「反映」に留まっています。
 とはいえ、ここからが富野の厄介な(そして魅力的な)ところで、一般的には『想念』の「反映」は、単にくだらない独りよがりなものになりがちですが(例えば『限りなく透明に近いブルー』とか)、『想念』自体の位相が高いので(そういってよければ美的な『語り』として)運動が発生する水準にまで辿り着けています。『読める作品』にはなっています。

 確かに、テレビ版のZはこういうものです。作品全体の表現はチグハグなのに(それでいて妙な整合性がある)、その全体に漂ってるただならぬ雰囲気は誰も忘れません。これに対して、富野は割りと確信犯的にやる部分もあるのですが、一番問題なのはおそらく対等に戦い合える脚本家がいないからです。上原さんはそのほか作画についても言及したんですが、作画と演出の互いに足を引っ張る複雑な関係性は承知しても、僕程度で語れるものではないので、この部分の論述はほかの方に譲ります。

 次は劇場版ですが、これもなかなか厳しいものです。

 劇場版で私は第2部の冒頭に驚きました。「劇に切り込む」富野演出はすばらしいと思います。が、『地球光』『月光蝶』の飛躍を先に見せられていたので鬱陶しかったです。まさか劇を直接、第一部から続けるとは思いませんでした。香港からはじめて説話で回想すればいいのに。『体験蓄積型』の悪い例だ、と感じます。

 うーん、難しいところです。難しいですが、確かに僕も少しそう思います。僕も典型的「劇場版∀は改悪する部分が多い」派ですが、その劇の組み方については賛同派です。なので、最初はてっきり劇場版Zもそういう処理を進むはずだと思ってた。そもそも(もちろん出来次第なのですが)作品と作品の間の飛躍は観客のリアル時間の蘊醸によって消化しきれるものなので、ああいう繋がりはかなり蛇足と私も思います。
 それから恩田尚之氏についての指摘ですが、これは完全同感です。アルジェントソーマ』の9スタ→7スタの繋がりで選ばれたすごいアニメーターですが、富野が目指すライブとは程遠いタイプな人だと思います。このへんもリンク元の記事を読んでください。

 で、色々語った結果、上原さんが下した結論はこれです:

結論 20年かけてZガンダムは
『見れないけど読める作品』から
『見れるけど読めない作品』に堕落した。







あーぁ!!!
『見れる上に読める作品』になってほしかった!!!!

 うう、厳しい。しかし鋭い指摘と言わざるを得ないので、ちゃんと受け止める必要があります。ファンならこれくらい楽勝ですよね。
 最後にはちょっと押井語りもありますが、これが笑えますね。しかし、この人もかなり押井作品を見てるので、押井論はどれも妙に笑えます。


ブレンパワード
 短いですので、全文引用させていただきました。

転向後の第一作。以後富野はストーリーは最小限に留め、舞台設定と(登場人物としての)キャスティングに心血を注ぐ。ノベライズを他人に任せたのも、キンゲの小説が未完なのもそれが理由。(リーンのリライトが出来ないのも)

 実際、これこそブレン以後「白富野」と呼ばれる原因で、人が死ぬか知らないかと実際あまり関係ありません。この指摘、かなり正しいと思います。
 しかし、そうは言っても『ブレンパワード』と『∀ガンダム』の時の富野は割とストーリーの方向のディレクトを発動してたし、逆に『キングゲイナー』ではそれがあまり見かけないので(コンテ段階の修正はしてたけれども)、一概とはいえませんような気もします。というか、サンプルは少なさすぎます。この3作以外、『リーンの翼』にしか残ってませんし(新訳Zは構成=脚本だったので)、その『リーンの翼』のメインライターは実は富野じゃなくて高山治郎ですが、何故か高山氏に対するインタビューはどこにも見かけないので、脚本に対するどれほどの分業をしたのか分かりませんので、大まかな方向は確かにそうですが、アレ以上の検証は難しいかもしれません。

 それから、「転向」という言葉も妙に引っかかります。今まで僕もそう思うのだった。『Vガンダム』と『ブレンパワード』を比較すれば、誰でも「転向」だとすぐ思うのでしょうけど、最近『Vガンダム』と『ブレンパワード』の間で書かれた富野小説を読み直してるので、『V』以前の富野と『ブレン』以後の富野は実は繋がってるじゃないの?とも思うようになりました。いや、ぼんやりしか考えていませんが。しかし、『V』と『ブレン』は繋がっている説を採ると、逆に富野の『ブレン』以後のストーリーの組み方を分からなくなっちゃうので、本当に難しいことです。まあ、僕がバカだからかもしれません。アニメ作りにおける転向なら分かりますけど。
 しかし、もう一度言いますが、富野の作品作りの実際の方向は上原さんの仰った通りですので、語る際にはそれを心のなかに置いてるほうがいいでしょう。


運動不足解消のためアイマスの振り付け完コピしてるよ、どうだキモイだろ
 タイトルはアイマスですが、内容は舞台設定情報コントロールに関する話です(例えとして『ギアス』と『キンゲ』の大河内が挙げられてる)。簡単に説明してありますので、是非一度読んでください。大河内と富野の相性が悪いのは、このブログでもすでに何度も書いたことなので、ここでは多く言いませんが(…と思ったら、■『キングゲイナー』とシリーズ構成の一回しか書いてないや!何故かもう何度も大河内氏を悪く言ったと思い込んでた)、もし富野はまた河口の4スタで仕事をすることになったら、なるべく大河内と組むのを避けるほうがいいと思います(そういや大河内はすでに富野の3回規則に達したよね)。

「王の心」では『メスジアとの闘争』って本筋よりも『アカイアー』とか『乳首』の短編のほうが全然出来が良いでしょ?

 これはまったくもって賛同します。この二つのエピソードは傑作です。というか『王の心』の短編は総じて面白かった、文体的にも内容的にも。これについて、上原さんが

詩的な核がある作家はどんどん短くなる。

とおっしゃったが、これも難しくて、僕にはまだ分かりません(現象として受けとめられても、その訳がわかりませんから)。


 パート3になりましたが、この一連の記事はどうでしょうか?元々は上原さんの記事を追いつつ自分の意見をも書きたいと思っていましたが、僕の考えは明らかに記事の内容を追いつかないので、なんだかダラダラと語るものになってしまいましたが、これについてもしご意見ありましたら、ぜひ寄せてください。


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2009/01/19 13:52|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:0
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富野小説搾り出し(仮題)
  『富野小説』即ち『血と精液100%!』


 昨日に続いて、上原マリ男さんのブログの記事を読みながら紹介します。昨日も言いましたが、富野小説を『血と精液100%!』というのは妙に頷くものですね。確かにアニメ作品と比べて、富野の小説はセックスや殺戮といった生くさい要素が必ずといえるほど入っています。何故かそれらの描写入れるのかというと、もちろん作者個人の好みもあるのですが、実は趣味以外、別の意図もあるのです。それについてまた別の記事で。



リーンの翼のサントラがいつまでたっても発売されないのでブチ切れる その3
 この記事は『リーンの翼』を、「完成度」の面で足をひっぱた諸要素について検討する力作で、ハッキリ言って僕には口を挟む能力なんてまったくないのですが、そのなかのいくつかの点については、上原さんの記事を読んだ以前から思ったことなので、少し自分の意見を書きます。
 まずは長さの問題。なんで22分キッチリなのが、僕にも良く分かりません。ネット配信アニメに詳しい方、どうか教えてください。1話ごとで売りたいのなら、せめてそのわけ分からん規制を緩めてどうですか?商売が作品作りの足を引っ張ったとしか思えません。

 そもそもリーン見た人は誰もが思ってると思うけど、なんで24分なの?
本編は正味22分。
ネット配信ってのはTV並に融通が利かないんですかね。(ネットの意味無くね?)
これはかなり問題だよ。規制の無いところでダラダラ作品を作っても堕落するだけとはいえ、枠を絶対視するなんてありえない。コンテにプライオリティを置かないのでは、河口Pの「映画の脚本の勉強をやりましょうよ」って初めの方針と完全に矛盾している。

個人的にはリーンは80分×2の前後編にすべきだったと思う。
地上⇒バイストン⇒バイストン 123話
バイストン⇒地上⇒地上 456話
いい具合じゃん。
それが無理なら、せめて各話をあと5、6分長くしてください。(そうすりゃ80分近くになるし)

 で、ファンの人たちが希望する1クール、2クールは無理だと思います。

「地上界浮上」「パブッシュクーデター」の『腹に一物 背に荷物』状態が同時進行して、密度を上げているのが肝だからです。よって6話以上にした場合、いつもの『中だるみ』が始まるだけです。

 他に1、2クールが無理な理由は、富野は基本的に『寓話』で走り抜けるからです。
『寓話』で長スパンはきつい。(長スパンは『展開のための展開』を必要とするから)

 この指摘はかなり正確だと思います。6話でいいと、僕も同感です。あの内容を見れば分かるでしょうけど、明らかに短距離走式に特化する物語なので(河口氏の言ってた映画的な作品というオファーに対する答え)、1話ごとの時間を延ばしても、話数そのものを延長するのは決して無理なこと。
 それから、上原さんの言ってた「80分×2の前後編」についてもかなり賛同です。富野のツギハギ映画(貶す意味ではない)がやっかいなのは、ニュアンスも方向性も大まかな構造も単一じゃないため、決して一つの映画のなかに消化しきれないことに尽きます。そのため、『逆シャア』や『F91』みたい最初から映画ありきな作品でもない限り、前後編もしくは前中後編を分ける必要があるということです。この基準で富野映画を検証すると、こうなります。

ガンダム→長くなりすぎたという声もあるが、基本的は完璧。
イデオン→3部分けすべき。接触編を2部に分ける。接触編、胎動編、発動編という形で。
∀ガンダム→3部。地球パートを2部に分ける。地球光、(名無し編)、月光蝶。
Zガンダム→3部はいいですが、時間が短すぎる。これについて自分の意見はまた固まっていない。

 以上の作品は総じて3部に分けるほうがいいんですが、この『リーンの翼』に限って、2部を分けるほうがいいといえます。前編と後編には、観客のリアル時間による蘊醸が必要ですから、劇場版∀みたいに。そういう意味では、もし河口プロデューサーが言ってた映画的な作品は本当に彼の本心なら、「22分×6=132分の全篇」がおそらく算段でしょうが、そうすると長くなりすぎますし、リーンの翼のニュアンスを消化できなくなります。というか劇場版∀のプロデューサーもアンタでしょう。何故その必要性を見分けられないの?本当に前後編なら、80分行かなくても、75分×2の150分でもあればいい。各話に約3分を足せば済みますし。そういう意味から言えば、上原さんが言ってたあと5、6分の主張に対して、僕は各話プラス3~5分で十分だと思います。確実に各シーンと各話ごと検証したことありませんが、あのテンポから見れば、3~5分でもかなり改善できるだろうと、勝手に思っています。『リーンの翼』のプロットは基本的にしっかりしてますし、あとは各箱書きを強化すればいいです。いや、75分も80分もいいんですが、75分を主張するのはもっぱら80は3で割れないからです(汗)。
 とにかく、このリーンの翼に限って、長さは作品に妥協するすべきだと思います。拘りと規制が必要ですが、融通はもっと大事です。

 あと、

 富野アニメに対して「説明不足」「舌足らず」という批判が届かず、改善されないのは、それが的外れだから。きちんと刺さってない。はっきりいってトンチンカンです。 というより『説明不足について説明不足』です。

 富野が陥っているのは「ライブ映像による説明過剰」(これは逆の意味で「説明不足」という批判が成立してしまっているため)(コンテを読めない阿呆な関係者のせい、明き盲どもが!)
カット間を「体験」、「実感」で筋を通していくのは、富野の方法論の一つ。
Zのシャアのグリプス侵入だって、本当はセリフで、説話で処理できます。

 この辺の意味に対して、僕は完全に語る能力がありませんので(なんとなく分かりますが)、是非上原さんの記事を一度読んでください。

 それから、

 「地上界浮上」「パブッシュクーデター」はそれ自体が舞台として有効だから設定したにすぎません。
状況以上に展開することはありません。ガイアギアの『メモリークローン』がたいして掘下げられないのも同様の理由から(ガーゼィも)。富野にとって「批評的なフック」は設定の段階でとどまります。なぜなら「設定」は人間ドラマと実は関係がないからです。

 先日も設定と物語の関係について少し意見を書いたが、ズバリこれに尽きますね。だから設定云々以前、物語を大事しない監督は、本当に間違ってると言いたいです。もちろん、モノの作り方は千万種がありますが、設定をどう物語にフィードバックするのは、確実に優劣があるのです。


リーンの翼のサントラがいつまでたっても発売されないのでブチ切れる その4
 上原さんはなかなかのリーンの翼ファンなので、記事に投下してくれた情熱も内容の質も半端ないのですが、この記事は比較的に批判な角度を取ってあります。一つ目はキャラデザ。二つ目は1話の問題点について。キャラデザについては良さ悪さを下す能力がありませんのでなんともいえないのですが、『キンゲ』のキャラデザと比べて、物足りないと思うのは、当然なことといえよう。それから、カメラワークについては、別の処理をすれば意味が違ってくるから、そのへんは疑問がないわけでもありませんが、富野のカメラワークは確かにある意味古いと感じますから(本人のセンスか周りのスタッフの力を汲んだ上の決定かは知りませんけど)、もう耐えませんに行かないまでも、やはり気になりますね。

 もちろん、1話の良さもちゃんと挙げられています。

 バイストンウェルの映像化作品の中ではじめて面白いと思ったのがこのリーンの翼でした。ダンバインもガーゼィもお話は好きなのですが、1話としての広がりはリーンに到底及ばないと思います。
 バイストンウェルの具象が、先に地上界に出現するのは(しかも『状況』まで引き連れて)絶賛されてしかるべき『発明』ではないでしょうか。そのことによって、バイストンウェルに召還された主人公が『元の世界に帰れるかどうか』という無駄な(←私見です)逡巡を省く利点を獲得しています。

 上原さんがご指摘をなさったこの部分は、確かにいろんな問題点を一気に消解してくれた。物語上の意味性?あまり無い。すべては物語を円融に進ませるための処理です。作家性なんかどこにもいません。それでも演出の技能は発揮するため、マキャベルのキャラとかにトミノイズムがあるように見えるだけのことです。そこは割り切れないと、見えるものも見えなくなっちゃうと私が思います。


 また長くなりました。予想以上長くなりました。これくらい書かなければ到底消化できない実のある記事ですから。あくまで予想ですが、このシリーズはひょっとしたら10日以上かかるかもしれませんな。


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富野小説搾り出し(仮題)を読む その1

2009/01/19 10:32|富野由悠季関連TRACKBACK:1COMMENT:2
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富野小説搾り出し(仮題)
  『富野小説』即ち『血と精液100%!』


 私のブログの右には、一つのリンクがあります。それが、上原マリ男という方のブログです。去年このブログ開設以来、ちょくちょく遊びに来てくださって、その際、私が書いた富野記事に色んなありがたいご意見を残ってくださった人です。その意見は、どれも単刀直入で、問題の核心に迫ってるもので、僕がその内容を読むたびに、その鋭さに感服せずにいられません。
 そんな富野由悠季監督のファンでもある上原さんが、去年の6月に、ブログを建てられた。ブログのテーマは一般な富野サイトと違って、「小説」に絞っていた。これはなかなか感心するものである。富野小説を語るサイトは元々少ない上に、実は富野由悠季とその作品を読み解くには、富野小説は決して欠けることができない重要なパーツであるから、富野小説を専攻しようとするあたりは、上原さんの気迫と野心がうかがえます。上で見たとおり、その『血と精液100%!』というフレーズは正直言うと、未だに100%理解することができませんが(なんとなく分かるが)、少なく今の僕のなか、富野小説と富野アニメは同じくらい割合を占めるようになったのである(もちろん、アニメのほうがよく見てるが)。

 で、そんな上原さんが自分のブログで挙げた一言があります。

富野作品と富野本人の評価を分離することが目的のブログ。

 この一言が、私に大きな影響力を与えた。いま私が書いてる全ての記事は全部、これをモットーに頑張ってるといっても過言ではありませんぐらい影響を受けています。さらにいうと、そのブログの記事も長かろうと短かろうと、一つ一つは味があって、とても読み応えがあるモノです。最近上原さんはとても忙しいらしく、ブログを書く暇もなさそうで新しい記事を読めなくてちょっと残念ですが、是非富野ファンとそのほかの皆さんに知らせたくて、ここで上原さんの富野喜幸監督に関する記事を、僕の感想のメモもかねて、順次に紹介します。



戯曲への親和性と政治家M監督
 これは僕が■富野由悠季全仕事という記事のなかで津堅信之氏の著作『アニメ作家としての手塚治虫』や氏がブログで『富野由悠季全仕事』を取り上げてたことについての感想と疑問を、上原さんが返答みたいなものを書いてくださった記事です。話題は二つあります:

1.手塚治虫のアニメ作家としての功績→0塚やM監督をはじめ東映系が手塚への中傷
2.津堅氏の言ってた富野由悠季はあまりにも研究されなさ過ぎる→富野研究の厄介→アニメの自立性を解体しながら組み立てなおす作業→その戯曲への親和性の高さ

 読みたい方は僕が書いた■富野由悠季全仕事およびそのコメント欄から先に読むのがオススメです。

 上原さんがそこで言ってた『MCとしての才能』『演出家としての才能』のなか、MCは何を指すのかイマイチ良く分かりませんけど、MCが太宰のマイコメディアン(客観性を持ち自分のことをコントロールできている状態)とすれば、【作品を語るための】客観と【作品を作るための】主観が同時に【作品のなかに存在】してることに言えるでしょう。主観と客観を言ったら、先日自分もそのコントロールの仕方について■情熱の宮崎駿、冷静の高畑勲、両方を備える富野由悠季。あと種やら00やらギアスやら色々語りという記事を書いたが、ここで言ってた客観と主観は演出技法の中の視点の問題じゃなくて、「自分を発散する」と「自分の技能を発動する」という仕分けです(富野監督のMCの客観性は作品以外でも見られますが、ここではあくまで「作品のなかの」だけに絞りたい)。
 思想とその思想を宿るのに必要とする物語。その物語を構成するあらゆる要素。富野監督の原作者と監督(の一部)な部分は前者で、監督(のさらにもう一部)、構成、脚本、演出家な部分は後者に当ります。この二者、作家性が宿る部分はどこにいるとすると間違いなく前者ですが、その作家性を只の個性(エゴ)から作家性まで突き詰めるのは、言うまでもなく後者です。個別な部分が優れるアニメ監督は少なからずいますが、両方が兼備するのがとにかく難しいですから、アニメ作家まで言われる人が少ないのも当然なことです。そして、言うまでもなく、作家と言われるような人たちが皆両方の素養を備えています(一部例外あります)。
 しかしながら、やっかいなのは、富野監督は両方の能力を備えてるだけじゃなく、その両方を緊密にリンクする力はアニメ巨匠のなかでも抜群していますから、逆に分別することが難しい。そうなりますと、【アニメの自立性を解体しながら組み立てなおす作業】の必要も理解できます。つまり、富野のその両方の方法論と良さ悪さを一旦切り分けって論じることによって、全体像をよりはっきりすること。それは勿論難しいことではあるが、【戯曲への親和性の高さ】はおそらく一つのヒントになれるじゃないのかと、上原さんが言ったのです。
 その一番徹底してるのが、『リーンの翼』という作品です。上原さんの記事では詳しく書いてありますが、「場面を切り替える『動機』のは行動ではなく『動機』」という指摘は、簡単に言っちゃうとこういうことです。

リーンの翼の5,6話の場合は(主に5話だが) 、
基本的にサコミズとエイサップの【行動】は場面転換に主体的には働きかけられません。
ここでの2人は戦場の光景を見せられて反応(思考)する事しかできません。
ある種の【思考】(感情や批評、2人の対話)だけが場面転換の『動機』になります。
(中略)

演劇でも登場人物は行動(行為)を行いますが、それは行動をシミュレートしたものではなく、キャラクターの【思考】を、直接行動させているのです。
(中略)

であるなら、5話のあの凄まじい展開は、まさに戯曲の形式といっていいのではないでしょうか。

演劇ですから
『広島に原爆の落ちた朝ぁぁぁ!!』
『夢、幻は、泡の如しぃぃ! でやぁ!!』
と 野太い声で叫ぶ必要があったんです。

 それこそ「演劇」の実現(そういう点から見れば、『新訳Z』も実はそういう面がありますから、「ラストが変る」以外、新訳Zに他に見れるモノもありますよと言いたい)、リアリティ(虚構と現実の複合体)を限界まで付き上がった表現である。アニメで「本当の現実」を表現するのなら、もうこういう強度を使わないと駄目だろうみたいな(話は逸れますが、こういう視点から見れば、富野作品のなかよく出てくる「ヤンキー」や「ジャップ」という言葉も、アニメのなかにステレオタイプな思考を彫り浮ぶための演劇的表現とはいえよう)。こういう視点から入れば、『リーンの翼』の本当の意味と方法論をよく分かれますし、芸能に対する富野の返答を見つけます(芸能は決して『キンゲ』の一部の表現のように浅いものではない!)ので、ここで示した見方は、しばらく『リーンの翼』を読み解く方法のマイルストーンになるんだろう。

 それともう一つ、M監督についてですが、M監督はいうまでもなく宮崎駿監督のことです。この人はアニメへの愛と手塚治虫に対するコンプレックスが強すぎるゆえ、悪口しかいえないようになってしまったが、実はそれだけじゃないと、上原さんが言ってた。もっと組織的で政治家と情報戦の視点から見れば、アラ不思議、M監督一人を語るよりずっと易くなりました。これも素晴らしいですので、ぜひぜひ読んでくださいまし。


リーンの翼のサントラがいつまでたっても発売されないのでブチ切れる その2
 これは上原さんの「リーンの翼 解析設定資料集」と「リーンの翼 オフィシャルガイド」に対する実のある文句ですが、結論から言えば、「解析設定資料集」はぼったくり値段であるが、ありがたい富野ロングインタビューと『リーンにおける富野演出研究』があります。一方、「オフィシャルガイド」は(比較的)良心的な値段と様々なインタビューや寄稿(あきまん以外、先日文字起しをした故・飯島愛の感想もあります)があるが、レベル低い『リーンの翼を読み解く18冊』と(あまり)ありがたくない富野X福井対談があります。
 また、その「仁 肇」の『リーンにおける富野演出研究』はこの記事を書くにあたってもう一度読み直しましたが、やはり上手いですね(もちろん、物足りないであるが)。『映像の原則』を則っていながらも、それ以上の分析を出した説明は、悪いけど、氷川竜介さんの書いたものより新鮮で優秀だと思います。越境というキーワードは素敵ですが、どの物語でも言えることですしね。せめてこの越境がどう違うって説明してくれないと、陳腐に落ちる危険もありますから。

 ちなみに、氷川さんについて僕が書いた記事は以下にあります。
■トミノコ族の愛憎(または卒業)。
■富野由悠季に対する評論、紹介、インタビューアの分業を喚起する
 当時の記事は今読むとさすがに未熟な部分もありますが、基本な考え方は今でも変えてません。特にトミノコ族のあの記事、ほかの富野ファンの方たちもご意見を寄せてくださったおかげで、それなり読めるものになったと思います。


 長くなりますので二つしか紹介できなくなりましたが、明日も上原さんの記事についての話題を書くつもりです。

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『源氏物語千年紀 Genji』1話を見ました

2009/01/16 20:58|未分類TRACKBACK:0COMMENT:1
このエントリーを含むはてなブックマーク はてなブックマーク - 『源氏物語千年紀 Genji』1話を見ました
 原作は読んだことありましたし、ノイタミナ+出崎なので一応見ました。予想通り出崎作品でした。出崎監督の作品は大体見てきましたので、どのような出来もある程度想像がつけますが、源氏は本当の話、いまいち合わないと思います。合わないってのは僕に合わないだけじゃなく、出崎(+杉野)にも合わないから、正直合わない以前、出来もそんな良くないと思います。
 話が1クールに収まるわけがない、あと製作もかなりヤバイという都合で、紫の上の語りで進行するのが仕方ないとしても、動と静のメリハリが付かない感じが、ものすごくあったわけです。あと、時間を割ったわりに、舞台も人物もいまいちパッとしません。辛うじて光君と藤壷の関係を描けたことにしても、源氏と藤壺とふたりの将来を暗示する何かは、やっぱりまったく見えません。まあ、歌手や声優を含めて、決していい製作環境じゃないということが伺えますが…。

 あくまで個人見ですが、出崎監督が「物語」より、「お話」の人だと思います。なので、『ジョー』『エースをねらえ』や『ガンバ』『家なき子』『ベルサイユ』とかはかなり上手いですし、『AIR』や『クラナド』なんかもそうです。ある程度デフォルメというか記号化した範疇のなか、出崎監督が実に上手い。言い換えると、リアリティの程度のコントロールですね。
 でも、源氏物語なら、彼が得意とするリアリティはやはり繊細さと緻密さが足りないような気がします。原作から出崎『源氏』を見ても圧倒的物足りないですし、単独出崎『源氏』の1話を見ても、やはり一つの物語の発端を描いたとは見えません。なので、実際は無いけれど、良い出崎と悪い出崎が存在すると仮定すれば、どっちかいえば後者のほうかな…。もちろん第1話ですから、まだ断定できないけれど。
 出崎監督の源氏物語の解釈について、ノーコメントです。原作厨というほどじゃないけれど、現代風を持ち込むにしても度があるという感じです。この点、僕は日本人じゃないですから、評価の仕方も違うかもしれないけれど、言葉じゃなくて行動や心情が、ここまで現代の思考を持ち込めば良いもクソもないだろう、という一言に尽きます。


 源氏物語でいえば、自分一番好きなキャラは軒端荻ですね。あの大らかさが初めて読まれた時から、すでに僕の心を掴めた。源氏物語の中でもあきらかに異色ですからね。ところで、『紅楼夢』をアニメ化したい製作者いませんか?単にエロゲーしても勿体無い巨作ですよ。

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アニメ雑誌の開拓者へ……

2009/01/15 23:48|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:0
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 月刊誌アニメージュが2007年6月号に掲載されたもの。初代編集長尾形英夫への追悼辞。雑誌整理のために、文字起しをしました。実に富野らしい文章だった。他の人たちは正面から褒めるしかしないから、そういうカウンター的な面から雑誌の本質に切り込む必要もあるだろうから、アニメージュ編集部はあえて富野監督の追悼辞を掲載したのだ、と、思いたいが、単にアニメの大御所だからという可能性もある…。前も言ったが、僕が現在一番好きなアニメ誌はこのアニメージュなんですが、今となって売り上げはわずかニュータイプの3分の1くらいまで落ちてる現状を見て、本当にちょっと心配もしするんです。このままじゃ消える可能性もあるなんじゃないのか、と考えた時に、富野監督のこの文章を思い出しました。アニメは今じゃ袋小路商売になっているようですが、それでもメージュ編集部の編集者たちに創刊時の開拓してゆく精神を忘れずに頑張ってもらいたいですね。僕も雑誌を買いますから(つか買ってる…)。

アニメ雑誌の開拓者 富野由悠季

 ある日突然、アニメ専門雑誌が月刊で世にあらわれた時は、息を呑むほどに呆れたものだ。僕のような世代にとっては、アニメ雑誌などは同人誌として刊行されることはあっても、それ以上のものになるなどとは思っていなかったからだ。
 しかも、その創刊号が、当時、僕が目の敵にしていた作品を中心に構成されていたのだから、腹が立って、買いもしなかった。どうせ商売にならない雑誌の誌面構成をするなら、僕の作品中心でやればいいじゃないか、という思いがわいたものだ。が、同時に、どんな作品でも素人に届くように作らなければならない、という信条をもっていた僕にとっては、当時の自分の作品では、アニメの素人の集まりの編集部に届くものを創れなかったという証明を突きつけられることになったのだから、本当に落ち込みもした。
 しかし、翌月号のために編集者が取材に来てくれるようになって、誌面を埋める作業が大変だろうからと協力するようになれば、その頃のいつの日か、尾形編集長自らがスタジオにいらっしゃったのである。その時にも絶望した。こんな週刊誌あがりの記者が編集長か、という事実に息を呑んだのだ。それほどに、ただ調子が良く、勢いだけで編集長をやる、お世辞だけが上手なおじさん、というイメージを突きつけられたから、やっぱりアニメは世間から舐められている、という感触しかもてなかったものだ。
 が、しかし、その尾形編集長の性格があったからこそ、「アニメージュ」が下手な同人誌にならず、商業誌としての体面を確立していった経緯を見せつけられれば、思いは急旋回する。
 誌面構成のみならず、世間とつきあうためのイベントのあり方とか、人気を喚起していくための手法というものがあるもので、そういうものを毛嫌いしていては、商売はできない、生きてはいけないだろう、ということを実践をもって叩き込まれたからである。考えても欲しい。武道館で「アニメグランプリ」の授賞式をやってしまうなどということは、まともな感覚なおじさんが思いつくことではないのだ。そのような体験を通して教えられたことがあるから、僕は、偏屈に頭だけで凝り固まった嫌な爺にならずにすんでいるのだ(無論、気性だから完全には直ってないけど……)。
 当時、すでに活字離れがいわれるようになり、洋画専門誌が廃刊になっていくような時代に、新しい雑誌の展開の可能性があることを見せ付けられ、それについていくセンスをもてない自分に、アニメも芸能の一画(注:一角の誤字)に位置する媒体なんだと示唆してくれた人物なのだ。さらに言えば、オスカーを手にするような作家、監督に連載マンガを執筆させ、アニメ化への道を拓く先鞭をつけたとなれば、その慧眼は既にして企画製作者の立場をも含めるものでもある。
 この人物を知ったという体験がなければ、アニメなんて負け犬がやる仕事、という以上の観念をもたずに過ごしてしまったのではないかと想像できるので、そのような心根を育ててくれた尾形編集長には心より感謝する。ありがたいのは、このような人との出会いである。


 これがかつてWEBニュータイプで掲載されていたもの。

尾形英夫氏を悼む 富野由悠季

 アニメ専門の雑誌を創設するなどということは、冗談だと思っていた。アニメ作品に活字にするだけの情報があるとは思えなかったからだ。だから、氏の指揮した創刊号が、雑誌らしくなって出版されたのには、不思議に思えたものだ。ならば、自分が相手にされていないという事実に腹もたった。しかし、二号からは、自分の仕事も記事にしてくれるというので、当の編集長がいらっしゃった。思ったとおり、冗談を本気にやれる大人の調子がいいセリフと、それにしても、作品の勘所を掴んでくるセンスには、驚きながらも、呆れたものだ。しかし、洋画専門誌が廃刊になっていく時代に、一年、二年と雑誌が発行されつづけていくにつれて、アニメを商売にしていくという仕事を見せられて、これが大人の仕事かと知らされた。そして、アニメも世間を相手にして暮らさせてもらっている芸能なのだとも教えられた。

 アニメ界というものが、今日の広がりをみせることができたのも、礎になるものを打ち立ててくださったこの編集長がいらっしゃったからで、ここで、切にご冥福を祈るしだいであります。



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今日のスモー

2009/01/14 22:42|未分類TRACKBACK:0COMMENT:2
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日馬富士4連敗とか、なんかもうわけわかんないのよな。

「日馬富士、聞こえていたら君の所属の不幸を呪うがいい」
「キミはいい力士であったが、キミの四股名がいけないのだよ」

こんなに強い人なのに4連敗なんて、もう名前が悪いとしか。
だいたい師匠さんのネーミングはダサすぎるよ、安馬のほうが絶対いいよ。
響きは単純明快で個性派だし。
それと、マワシも黒のほうがいい。


一方、朝青龍が4連勝で本当によかった。感動した。
ずっとファンだけど、去年後半の表現を見て、一時期は本当にもう駄目だと思ったよ。
でも、今回は気迫が違う!このまま突っ込むぞ!
傷を負ったままでの試合は本人にとって決していいことではないのだが、
ちゃんと頑張ってほしいですね。テレビの向こうで応援しますよ、朝青龍。


ガンダム・パトロール

2009/01/14 00:03|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:2
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 アベニール記事を考えてる最中の副産物。出典はもちろん徳間書店の『戦争と平和』。とても良い本ですから、まだ読んでない方は今すぐkonozamaへ…!いや、別にアマゾンじゃなくてもいいですけど。

「モビルスーツ」の限界

大塚 これまでの話を受けていくと、富野さんは今後アニメの中でモビルスーツというものをどのように扱っていかれるつもりなのか、改めてうかがってみたくなります。兵器のリアリティが失われたり戦場が変化したりしていくとおっしゃる中で、今後もそれを兵器として描いていけるのか、それは成立しうるのか。非常にシビアな問題になってくると思うんですが。

富野 ええ、困ってもいるし、実をいうとにっこりもしています。今年(2001年)の春ぐらいかな、もしも次のガンダム企画があったらということで一つ思いついたのは、もはや基本的にテロリズムに対応した戦争ものしかないだろうと考えて、『ガンダム・パトロール』でいこうかと思ったんです。

ササキバラ パトロールですか(笑)。『ラット・パトロール』みたいですね。

富野 そうですね。それ以外行きようがありませんから。
 そうなったら、ガンダムが今までやってきた戦争論は一切ありません。そんなことをまだやってるようでは、それこそ世間のもの笑いの種になるでしょう。その後、今回のテロ事件が起きてみると、うん、『ガンダム・パトロール』でよかったんだと改めて思いました。
 ただ問題なのは、「そうはいっても、もうモビルスーツじゃないんだよね」ということです。モビルスーツというのは基本的にどう見てもソフトウェアではなく、まさにハードウェアの真骨頂ですから。ガンダム・パトロール、やっぱりないかな、と思いながらも、可能性を自分なりに探っているところです。

ササキバラ モビルスーツというものを、そういうところまで煮詰めてきてしまったわけですね、この二十数年で。

富野 そうです。

上野 モビルスーツ自体がそういうものを招き寄せてきたのかもしれませんね。ブレンパワードにはある種の意思があり、バイオ的な力も持った機械のような生物のようなものであって、モビルスーツというよりも馬のような存在でした。『∀』ではナノテクというものが、あの世界の大きなキーになっていますが、これもやはり非常に繊細でまさにモビルスーツを不要にするテクノロジーです。そんなふうに一所懸命ハードの可能性を突き詰めてモビルスーツというものを追い込んでいくうちに、とうとうモビルスーツが不要になるところまで来たんですね。

ササキバラ 来ましたね、本当に。

富野 来たからなんです、これ以後自分の作るべき作品を考えたときに、とにかく基本的に元に戻るしかないと考えて、次の作品はきわめてクラシックなロボットもののスタイルに戻りました。
 ただ、「ガンダム・パトロールしかない」と思った先にあるはずの可能性は、改めて自分で考えていきたいと思っています。

 惜しいことに、このガンダムの新路線の可能性については、それ以上深く掘り下げることはないのですが、これからの戦争を描こうとするならば、ぜひテロと対応するグラウンドと話を作るということです。このへん、じつは『アベニール』ですでに一部が描かれていたものです。途中舞台は宇宙まで上がっちゃったから、サージェイの治下の日本政府を深く書くことはついに無くなったのですが、それでもあのへんのアイデアをもっと膨らむと、きっととても面白いモノになるんだろう。そういう意味では、ガンダムパトロールもまさにその延長線にいるものなんですね。
 対テロという話自体は難易度高いものですから、ガンダムでそれをやるには、ちゃんとしませんと、ガンダム自体はただの秘密兵器になっちゃうような気がします。秘密兵器対テロあるいは巨悪という話じゃ、現実にグリップすることができませんし、人を魅せることも達成できないでしょう。


フランスアニメーションの可能性

2009/01/12 23:49|未分類TRACKBACK:0COMMENT:1
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■台湾アニメーションのこれから

 思わぬところでリクエストをいただいたので、予告通り、少しフランスアニメーションについて書きます。

 ヨーロッパにはアメリカとは違う固有のアニメーションスタイルを持っています。一口ヨーロッパと言っても、様々な様式がありますが、その多くがテーマ性と実験性を溢れている、今日我々が考えたアニメとは、まったく別ベクトルなものです。たとえば、チェコの人形アニメなどは、日本でも有名でしょう。そのへんは五味洋子氏のアニメスタイルの連載や本を読めば、その豊かさを色々分かると思いますので、ここで割愛して、フランスだけに絞ってきます。
 さて、フランスは元々欧州のなかでも文化と技術が進んでる国なので、アニメーションの技術もかなり持っています。さらに、芸術の国でもあるので、作られた作品も芸術性が溢れています。が、一つ大きな挑戦が彼らの前に現れた。それは、ディズニーをはじめとするアメリカの商業アニメーション。フランスのアニメーション制作者たちにとって、あれはまさに俗悪の顕現ほかないのですが、子供たちに大うけでした。それもそうです。芸術性溢れるアニメーションより、ネズミとかリスとかダックのほうがよほど面白かったのです。こんな状況が続いて、やがてフランスのアニメ産業もだんだんアメリカアニメの下請けをせざるを得なかった状況に陥った。
 さらに、70年代に入れば、もっと凶悪的な相手が現れました。それが日本のアニメでした。今度のショックはアメリカアニメ以上でした。しっかりしてる作りと強烈な個性に、フランスの子供たちはたちまち日本アニメの虜になったのだ。まあ、グレンダイザーの伝説は皆もご存知ですね。
 元々固有なアニメーション技術を持ってるフランスが、何故こうも次々と米国と日本に負けたのかというと、原因は一つしかない。商業アニメの不在だからです。こんな絶体絶命の状況の中に、彼らはついに一つの決断を下した。それは、今度は自分たちがフランス発信の商業アニメを作る。媚びるアニメを作るのはフランスの制作者たちにとって、自分のプライドを捨てるようなものですが、アメリカや日本に負けるよりずっとマシだと思ったからであろう(このへんは自分の意訳もかなり入ってますので、事実とはかけ離れてるところがあるかも)。
 そういうことだから、フランスアニメーションの歴史は戦前からずっと続いていますが、本格商業アニメが始まったのは、80年代国家戦略の一部の中に取り込んだ以降のことだといえます。もちろん、最初は上手くやれるはずがありません。アメリカと日本アニメがうじゃうじゃしてるなか、彼らは学校の整備から国外のノウハウの吸収まで細々20年以上もやってきたわけです。日本でいえば、ここ数年でようやく取り込んだ政府によるバックアップの学習体制、フランスは20年前ですでに通った道ということです。
 そして、成果はズバリこれです。

 ドラゴンハンター

 オール3DのCGアニメ商業映画。2Dのテレビアニメシリーズに基づいた作品です。ここにはそのトレーラーがあります。

 ……はっきり言ってあまりよく出来た予告とは思わないのですが、中身はこれより遥かに面白いです。
2009年1月13日追記:さっそく削除を喰らいました。トレーラーは公式サイトにありますので、上のリンクを参照ください。何故かフランス版サイトの予告はイギリス版のより出来がよかったりして…。

 まず、一番驚いたのは、この映画の雰囲気は今までのヨーロッパアニメというより、ほとんどアメリカの商業アニメそのものです。それでいて、アメリカアニメの俗っぽい感じがなく、所々がヨーロッパの上品さが伺える。単純明快なストーリー、王道なテーマに高い技術、その通俗だが誰でも楽しめるようなフランスアニメは、いまじゃフランス家族毎年のファミリー映画になってるそうで、彼らがアメリカと日本アニメの挟み撃ちの間に、見事に自分の道を切り開いたのです。
 今、フランスは全欧州のアニメーション産業のなかでも一番規模を誇る国で、フランス文化局の職員さん曰く、彼らはさらにアメリカ、日本に次ぐ世界アニメの三番手を狙っているそうです。ライバルはおそらくカナダとか厨国とか韓国あたりと思いますが、この映画を見て、そんな可能性を感じさせるはずです。

 …と、何故かユーチューブで全篇を見つけたので、そのパート1を貼ります。長いスタッフリストはちょっと鬱陶しいですが綺麗です。4:00以降登場する姫かわいいです。

2009年1月13日追記:こっちも削除されました。まあ、元々無断アップロードですから…。

▽続きを読む▽

新シリーズ書きたい

2009/01/12 02:34|未分類TRACKBACK:0COMMENT:0
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 最近いろいろ追い込みが入ってきて、なかなか更新できなくて、本当にすまなかった。一定数のヒットは毎日入ってくれるけど、コメントを残してくれるのは、やはり常連客のほうが多いですね。定期に訪問をしくださる方、コメントを残してくださる方に、本当に感謝してます。ただ、本音でいえば、たまにもっといろんな意見に聞きたいのも事実です。

■情熱の宮崎駿、冷静の高畑勲、両方を備える富野由悠季。あと種やら00やらギアスやら色々語り

 この記事を読んだ方ならご存知かもしれませんが、この記事は、じつは富野メインの内容で、高畑監督とパヤオとあまり関係ありません。さらにいうと、付け足しに種とか00とかギアスをタイトルに入れてみたけど、それらの出来についてもできるだけ直言を避けてた。
 じゃあ、何故こういうタイトルをつけたかというと、やはりもっと多くの注目を集めたかったという下心が働いたからです。ヒット数とかいう注目とかなくて、単純にこの記事が書いた内容をもっと多くの人に知らせたいと思っているのです。ひょっとしたら何か反対論を持ち掛けたいSEEDファンとか00ファンとかコードギアスファンがここに来るかもしれない、という状況も、正直ちょっと考えもしましたが、もちろん、別の作品のファンを激怒するつもりはまったくありませんが。
 じゃあ、なんで種を『ガンダムSEED』とか書いてくれないし、『コードギアス』も「ギアス」より、ルルーシュを入れるほうがよほど人を集める(笑)。その原因は、たった一つしかありませんでした。それら「作品」としての優劣ははっきりと分別できますから、いまさら論ずることもありませんからです。

 では、何故高畑勲監督と宮崎駿監督の全名を入れたのかというと、その理由もたった一つしかありません。それは、富野由悠季というアニメ演出家は彼らと匹敵しあえるアニメーション作家だからです。にも関わらず、今日まで認知されていないのは、彼が長年「ガンダム」というルックスの「ロボット」ジャンルに居続けるからです。それはかなり悲しいことである。別に富野という監督を好きになければなりませんとは言いませんけど、その演出の豊かさを気付かないままで過ごしてるのは、本当におかしいことですし、ひたすら他の巨匠を称えて、富野だけを無視するのは、アニメにおける一ピースが欠けたモノを申すようなことです。演出を語るにも、アニメ史を語るにも。
 まちろん、僕個人はトミノウォッチャーだから、常に富野に注目するのは当然ですが、富野由悠季もあくまで一演出家ですから、色んな先進(長浜監督とか高畑監督とか)から影響を受けてるし、後進に劣る部分も当然あります。それでも、他人がマネできない部分は、今でもはっきり「富野節」として作品に残っています。それらは無視してはいけません。他の監督についても当然のことですが、一人の演出家と演出を語りたいのなら、色んな部分を割り切って語らなければなりません。富野にしても例外はないです。どこまで陳腐化したのか、どのへんがアニメの一般方法論として消化されてたのか、どのくらいはその弟子が受け継がれてるものか、どの部分は富野個人固有のものなのか、それらは全部弁えたときこそ、初めて客観かつ無偏見な目を得れます。富野由悠季ならあらゆる部分がいいとか、全部を肯定できるというのは、口裂けても言えません。僕はそんな信者になりたくありません。

 と、閑話休題。

■情熱の宮崎駿、冷静の高畑勲、両方を備える富野由悠季。あと種やら00やらギアスやら色々語り

 自画自賛で恥ずかしいですが、この記事は、自分でもそれなり書いたと思います。もちろん、こういう程度の内容も長さはそうそう簡単にできるものではありませんので、最近あまり更新する暇はないけれども、多少ここしばらくの話題を考えたんです。富野の各作品が、富野作品系譜における意味みたいな記事を書きたいです。それもアニメに限らず、小説も包括したいと思います。漠然に考えてる話題ですから、内容はどうやって書くのにまだ詳しく決定していないのですが、一つの例えを挙げてみます。
 『アベニールをさがして』。これは富野小説のなかでもマイナーなものですが、最近ようよく3回目を開始していますが、改め見ると、今まで思わなかった視点も浮かび上がってきた。たとえば、この小説について、富野はこんなコメントを残しています。

これはジュブナイル系の作品を目指そうとしてました。
そういうのも書けるんじゃないかと。
でもこれもやっぱり病気の時期に書いてたから、どこか病んでいる。
ただ、精神が不調な時にはとんでもないアイディアを産むことがあるんです。
実は、『アベニール』で考えていたアイディアの一部は、
『∀』を膨らませる要素になってるんです。

 どこで残したコメントは分かりませんがおそらくスニーカーあたりだと思いますが)、今までこの発言で言った『アベニール』と『ターンエー』の関係については、完全理解できないのです。しかし、今となって突然分かってきたような気がした。なるほど、方法論としてかなり近いんじゃないの?それも今までなかった、『アベニール』で初めて打ち出したものだから、そういう意味では、『アベニール』は『Vガンダム』以前の富野作品を『ターンエーガンダム』のリンクを解明するために、非常に重要な作品だといえます。
 それだけじゃなく、『アベニール』で示した世界観は、実をいうと、やはり21世紀以後のテロと国家の間の変化を匂わせた描写に含んでいます。サージェイも、実を言うと、富野が『戦争と平和』で言ってた『ガンダム・パトロール』にかなり近いです。そういう意味では、実際の出来と関係なく、もしかして『アベニール』こそビョーキ三部作(by子犬さん)のなか、一番重要な作品かもしれないという仮定もできます。
 …とまあ、こういう感じの記事ですから、上手く書けるのかは分かりませんけど、暇の時の頭体操のつもりで頑張ります。


情熱の宮崎駿、冷静の高畑勲、両方を備える富野由悠季。あと種やら00やらギアスやら色々語り

2009/01/09 15:40|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:15
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 最近常に思っているのは、何故最近のアニメの出来はこうも悪いのだろう。もちろん、良い作品もちゃんとありますけど、とにかく質が低いアニメは多すぎると感じます。

 それらと比べて、改めて宮崎駿作品、高畑勲作品を観れば、両方の質の違いに、どうしても思わず感服しないわけにはいけません。

 しかし、そうはいっても、宮崎作品や高畑作品を見ている自分にとって、それらの出来の良さを称えると同時に、やはりどこかに違和感を抱えずにはいけません。出来が非常に良い作品なのに、どこか飲み込めない感じは、ここ数年がずっとありました。

 何故そういう疑問を抱いてるのか、自分でも上手く答えを見つけることができませんが、昨日寝る前に、『アベニールをさがして』の文章を読んでると、突如ヒントをつかめて、自分なりの答えを見つけることができました。


01.「アベニールをさがして」から見る富野演出の典型

 以下のくだりです。

 上空、数百メートルを飛翔するその銀色の塊は、上昇に転じながらも、再度、光の筋を落下させた。
 ドズーン!
 市谷台に、またも土の山が噴き上がり、その土砂が暴風のように周辺のビル群を押し包んでいった。

 その初撃で揺れている地下シェルターのレーダー・センターは、まだ無事だった。
「未確認(アンノウン)飛行物体にたいして、迎撃ミサイル、上げまーすっ!」
「チョイ、無駄だっ」
 第一撃の地響きのなかで、梶少尉は、部下の対応を制止していた。
 直撃だったら、こちらがやられているタイミングだとわかっていたが、直撃ではないのだ。
 ならば、市街地上空で、敵性飛行物体にミサイルをぶちこんで、東京の被害を大きくするのは避けなければならない。郊外に出たところで撃墜するほうがいいと、判断したのだ。
 今は、初撃が核ミサイルでなかったことを、八百万の神や仏に感謝するだけだ。
《……完全に不意を突かれた。それでも、直撃でなかったというのは、敵になにか意図があるはずだ》
 梶少尉は、本能的にそう感じていた。
 レーダー室とガラス一枚むこうの防空センターにすわっている当直士官が、ようやく自分につながっている受話器を取るのを横目で見ながら、
《なに電話してんだよ。こんど来たら、ここがやられるぞ》
 その時、第二撃が来て、またもシェルター全体が大きく跳ね上がった。

 皆さん、どうでしょうか? これは、まさしく典型的な富野作品の特徴である。『アベニール』の冒頭の一段であるが、ここで注目してほしいのは、梶少尉が当直士官を見た感想です。

《なに電話してんだよ。こんど来たら、ここがやられるぞ》

 論理的に考えれば、この考え方はどう見てもおかしい。特に、さっき部下の行動を冷静に制止していた梶少尉の口から発した言葉ならば、なおさらです。

 しかし、気持ちとしては分からないでもありません。こういう動かなければならない状態に、ノンキでマニュアル通り対応する不甲斐なさを見れば、こう思うのも仕方ないであろう。

 だが、よく考えてみたら、当の士官はその時一番反応する必要がある行動は、結局電話を取ることなんですから、それを責めるのはやはりどこかおかしい。

 ともすれば、やっぱり梶少尉自身もどこか混乱しているのではないか、という結論にたどり着けます。それもそうです。そういう緊急で皆が焦ってる状況なんですから。


02.徹底に主観的な描写で客観的な判断を獲得。

 以上の話が、富野の典型的な描写法である。つまり、徹底に主観的な描写を使って、観客の客観的な判断を促す。と同時に、グイグイと話を前に押してゆく。これが富野作品の魅力的なところです。

 ここの「描写」というのは、徹底的主観で「キャラ」を描くことではあるし、「主観」というのも、「キャラの主観」に指します。

 言い換えると、キャラを一人立ちにすることです。

 その代わりに、ストーリーテリングは完全に客観でなければなりません。制作者もクールでなければいけません。ここでいうクールであるかどうか、最終的は作品に決定的な違いを与えることになります。


03.ディアナやラクスの違いはどこにある?

 徹底に主観的な描写を使って、観客の客観的な判断を促す。典型的なサンプルでいえば、『∀ガンダム』のディアナ・ソレルと『ガンダムseed』のラクス・クラインでしょう。

 ふたりは劇中ではそれなり似たようなポジションにいるにも関わらず、最終は決定的に違う評価を得ました。

 ディアナは富野作品のなかでもかなり全能に近いポジションでいるキャラクターであるにも関わらず、何度も情勢を判断しそこねったし、最後「世界」をまっすぐ戦おうときも、やはり全能じゃなくて、ただ自分のポジションで最善を尽すだけ。

 以上のようなディアナに対する描写は、劇中では一貫しています。その結果、逆に観客にディアナ・ソレルを豊かで愛しい気性を持つ少女とカリスマ性を持ってる月の女王の両方を秘めているキャラクターと思わせることができました。

 一方、ラクスは世界を過ちから救いたいと考えて、最強の力を使って、自分の思いそのままを世界に投げて、世界を正しく導いたという描写にされています。その結果、マスコット的な歌姫のはずなのに、いつのまにか世界の統治者となってしまいました。責任溢れた意識強い女性のはずなのに、どうしてもカルト教団の教祖だけしか見えません。

 似たようなポジションのキャラクターは、なんでこんなにも違う結果が出たとすれば、それはほかなく、制作者のご贔屓が入ってたかどうかという差です。キャラクター一人の論理で物語と同等にすれば、こうなるんだということです。

 そういう一方的な肩入れは、富野作品では皆無です。だから、富野作品のキャラクターの一人一人が物語を影響を与えながらも、決してストーリーテリングを占拠することはなく、皆がちゃんと物語の線に乗っている。そこから導き出すのは、今の作品が欠如している「何か」、ということです。

 あえて申し上げたいですが、ガンダムというカテゴリというかジャンルのなかで論じるつもりはまったくないですけど、種とか00とかのガンダムシリーズと対照すると、それらと富野作品との差がはっきりと見えます。


04.物語を支配する雰囲気は、人物描写からのフィードバックで決める

 物語を支配する雰囲気は、決して設定からのものではなく、一つ一つのキャラクターから全体の人物描写にトータルして、またその人物描写から物語にフィードバックするものなんです。

 これがキャラと物語を統合する不可欠なもので、かつて富野が作品のなかでは出来て(もちろん、滑った作品もあるけど)、今のガンダムとかの作品ができないものなんです。

 雰囲気とはなんぞ、と聞く人には、『ガンダム』か『Z』か『逆シャア』か『Vガン』『∀』を見るのをオススメします。『ガンダム』なら生き延びるためにもがく感じ、『Z』なら無力感、『逆シャア』なら大人の挫折、『Vガン』なら狂ってる精神、『∀』ならその健やかさ…というような全体を包むフィーリングは、少なからず存在しています。

 これらは設定からのものなのか、うわっツラだけのキャラクターからのものなのかというと、決してそうではありません。

 『Vガン』の皆さんがどこかキチガイな気質あるという。しかし、そのような雰囲気は全体を支配していて、見る人は常にどこかでそれを匂わす。だけど、劇中の誰もかそれを知らずに、あくまで「自分」の行動原理で何かをやろうとしています。

 その「自分」というのは、すなわち上で言ったキャラクターの主観的な描写なのです。


05.主観と客観があるから、演劇に見える

 以上の原因があるからこそ、富野作品は演劇っぽくに見えるのだろう。

 劇中にいながら、時々自分を出そうにしている。

 物語の中に存在しながら、時々それを越えようとしいる。

 これこそ富野作品における主観と客観の使い分けの一大特徴である。これは富野だけでなく、ほかの監督が作品を作る際にも考えなければならないことです。

 上で言った世界とキャラクターの関係なんかもそうで、別に種や00だけでなく、かつて『コードギアス』もそれを直面したことです。

 物語全体や世界をそのままキャラに組ませる話は、よほど腕と適性がなければ、たいてい失敗に終わることが多いです。もちろん、ギアスは意図的にそういう描き方をしている一種の確信犯なんだから、一概とはいえませんが、それでも「やりすぎ」ってのは感じずにいられません。


06.世界のために動いていない富野キャラ

 だから、富野作品の主人公は常に世界そのものに関わっていないところで動くのも、それが原因の一つでしょう。

 いろんな苦難を経って、最後でズバリ世界を救うために戦う『ザンボット』でさえ、どこかで「主人公が自分らができる以上のことをやろうとしている」を匂わすという、常にその両面性に対する描写を忘れずにやっていたから、一辺倒の物語にならずに済んだのです。

 『00』とかいう作品みたいに、今の世界の延長線にいるとか言いながらも、結局突然ポンと現代世界に人型ロボットを置いただけで、キャラを本気に物語に乗っていないような書き方は、正直今風の面白さ以外の何かを含んでるはずもなく、単純にただのガンダムというアニメにしかすぎません。


07.ふたたび『アベニール』に戻る

 話はアベニールの描写に戻りますが、もう一度読めば、上の書いたとおり、少なくとも5つの観点が含んでいます。

1.論理的に考えれば、さっき部下の行動を冷静に制止していた梶少尉の今頃のこの考え方はおかしい。
2.しかし、気持ちとしては分からないでもない。マニュアル通り対応する不甲斐なさに憤慨するのは無理もない。
3.だが、よく考えてみたら、電話を取ることをは当の士官その時一番必要がある行動なんだから、それを責めるのはやはりおかしい。
4.ともすれば、梶少尉自身もどこか混乱している。
5.そういう緊急な状況なんだから。

 こんな短い一文のなかに、これだけの描写を詰められています。富野演出のすごさを感服せずにいられません。

 さらに、完全に梶少尉というキャラの視角で見た極めて主観的な描写、却って観客に「いや、そうじゃないだろう」「それもそうだよね」みたい、劇中のキャラやら状況やらに対して客観的な見方を喚起できます。

 極めて主観的な描写だからといって、それを完全に受ける必要は全くなくて、状況を越える物語の見方もできるわけです。

 つまり、客観的な視点もあれば、主観的な視点もできます。この二つを同時に共存させるのは、富野作品の一大特徴である。

 この技法は、作品を豊かにするだけでなく、観客に何度も見れるような面白さを提供するものです。

 その傍証として、監督として単独自立してる宮崎駿も高畑勲もきちんと評価を得ていますが、アニメ作品として一番バランスを取っていると公認されてるのは、やはり高畑・宮崎コンビであることでしょう。これはまさしく作品自体が高畑が代表する「客観・冷静」と宮崎が代表する「主観・情熱」の両方を必要することを意味するのではないでしょうか。


08.高畑勲の作風

 高畑の作風は、ここのページ2と3で本人が言った通り、客観的な語りによって観客に自分の解釈をできる空間を与えることです。ゆえに、高畑作品の人物配置、場面設計、物語りの構造…隅から隅まで、全部この完全な物語の1ピースであり、登場するあらゆるモノは機能しないものもなければ、無駄遣いされたものもありません。

 高畑キャラは、富野作品の人物みたい積極的に物語に参加しません。というより、高畑監督はそうすることを許しません。それが、人物をキャラクター扱いしないで物語と同一視する高畑が決してしないことであろう。本人は主観を好ましくないからであろう。

 しかし、さっき言ってた通り、客観を促すのは、必ずしも客観的な描写でなければいけないという法則はありません。逆に、主観的な描写で客観的な見方をさせるのも可能です。

 その舞台の中にいる目と舞台の外からの目を同時に備えるのが、富野作品なのです。そういう多様な「目」があればこそ、何度も何度も鑑賞できる物語が出来上がりわけですし、そのような違いがあるからこそ、人それぞれの作家性を表します。

 ある意味、キャラクター商売に足を踏み込んだ富野だから探し出せた一つの正解であろう。


09.宮崎駿の作風

 もっとも、その演出はビジネスありきみたい言うのも、やはり違います。

 世界もキャラも大切にしているけど、物語はさして重要視しない宮崎キャラは、富野キャラと違って「物語」でなく「世界観」に依存する部分が多いですえけど、トトロなんかはトトロの世界観すら越えて、一種の「シンボル」になっています。これもキャラクター自身が持っている魅力の発現といえます。

 それをどうあくまで劇中で表現するのが、作家の腕に頼るものではあるし、作家自分の物語の見方によるものだろう。

 宮崎アニメだったら、物語の主線は感情溢れてるけど、作品の見方なんかは、明らかに高畑作品より狭いから、時々宮崎独善というか、強引な見方に陥っているのです。

 そのへんから見ても、やはり宮崎も高畑も同じですが、ふたりはコンビをするこそ一番バランスを取れて発揮する人と思わざるを得ません。

 あと、富野監督と宮崎監督の一番の違いは、やはり物語の見方にあるんだよな、と。


結論:揺れるけど豊で面白いモノこそが富野作品の真髄

 正直、富野のキャラクター論について、頷けない部分がないわけでなありません。先日の■月刊モデルグラフィックス2007年9月号富野インタビュー部分 も、自分が納得できない部分が未だにあります。しかしその同時、ビジネスの考えを踏まえた上、キャラクター性を一度独立して、再び劇中に組み込む必要も明確にありますから、メカとキャラのキャラクター性を消化できる限り、入れるだけ入れるほうがいいという考え方も理解できます。

 できるだけ入れるのは、チグハグな部分も多少あるはずですけど、究極的なずるい言い方をしますと、たとえチグハグだしても、一旦物語に組み込まれると、あとは観客が勝手に再構築する作業をするから、そこに気にすることは実をいうとあまり無いです。

 こういう言い方はなんか観客軽視に見えますし、今時のキャラクター商売を推奨するように聞こえますが、それも違います。

 さっきの言ったとおり、物語を支配するのは設定ではなく、キャラクターから全体の人物描写から物語にフィードバックするものなんです。なので、キャラクターの核の部分をきちんと抑えなければいけません。

 逆にいうと、そのキャラの核たる70%か80%さえ抑えれば、残りのチグハグもかえってキャラの幅になります。それは富野作品のキャラが生々しいに見える一因である。それを達成するには、豊かな描写が不可欠なので、デコボコも場合によって、利点になるというのです。

 これは河口佳高プロデューサーが『Vガンダム』の時の富野作品作りに対する感想です。

この番組からシナリオ打合せに参加させてもらい、得がたい経験をしました。
毎回、打合せの最初に素人同然の私が、カントクから意見を求められるのです。私が「ここの台詞が…」とか、「ここでこの武器ではなく…」とかの瑣末な部分に関する意見をいうと、「そんな各論はいいんだ。総論として面白いのかどうかの意見をくれ」と言われました。面白いところはあるのか?面白くないところはどこなのか?ならば、どうすれば面白くなるのか?シナリオ打合せはそれを討論する場なのです。私はお話の構造を論理的に捉えることができていませんでした。

 全体の雰囲気、面白さを大事にする。時には繊細で、時には大胆な富野作品作りは、最終的に全部が物語全体に反応するので、その揺れるけど豊で面白いモノこそが、富野作品の真髄である。

月刊アニメージュ2005年6月号新訳Zに対する飛田展男、恩田尚之、仲盛文コメント

2009/01/09 00:26|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:0
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 スタッフの発言を整理したいので、文字起しをしました。

劇場の大画面とサウンドで『Z』を体験してみて下さい
カミーユ・ビダン役 飛田展男

――まず最初に、TVシリーズの『Zガンダム』は、飛田さんの今までのキャリアの中でどのような位置にある作品でしょうか。

飛田 初めて主人公を演じた作品であり、忘れられない作品です。

――TVシリーズでカミーユを演じている時に、一番印象に残っていることは?

飛田 毎週の台本を読むのが怖かったことです。ちゃんと(カミーユ)生き延びているだろうか、と。

――今回劇場版『Zガンダム』製作の報を聞いた際にまず思ったことは何でしょうか?

飛田 「20年近く経ってなぜ?」ということでした。

――以前富野監督に、「オーディションの際に『昔のままで演じてもらったは困る』とハッキリ(飛田さんに)言いました」というお話を伺いました。もしよろしければ、オーディションの時の監督からの注文、そして飛田さんはその要求にどの様に応えたかを詳しく教えください。

飛田 「これは新作であり、新しい役である。舞台の再演だと思ってほしい」監督の要求はこれに尽きると思います。ピュアであれ、と。それに応えられたのか、僕自身は判りません。

――『星を継ぐ者』でのカミーユは、以前のカミーユとは違う、という印象を持たれましたか? もし待たれたのであるならば、どの様な変化があったでしょうか?

飛田 根本は変っていないと思います。ただ(映画の)展開が速いので、受ける印象はだいぶ違うかもしれません。

――『星を継ぐ者』アフレコ時に印象的なエピソードがありましたら、お教えください。

飛田 レギュラーメンバーが揃っての録音は久しぶりでしたので、それが何より嬉しかったです。

――『星を継ぐ者』で特に記憶に残るシーン、もしくはセリフがありましたらお教えください。

飛田 ラストシーンです。

――それでは最後に『星を継ぐ者』、そして第二部、第三部を楽しみにしているファンにメッセージをお願いします。

飛田 これはイベントです。劇場の大画面、迫力あるサウンドをぜひ体験してみて下さい!


キャラクターに求められた柔らかなイメージ
作画監督 恩田尚之

――劇場版『Zガンダム』製作決定ならびに参加が決まった際の気持ちは?

恩田 製作決定は面白いと思いましたが、自分が作監というのは正直「?」でした。他に適任が居ると思います。

――TVシリーズ『Z』の際の、作品の印象はどのようなものでしたか?

恩田 「よく人が死ぬアニメだなあ」と思ってました。

――今回の『星を継ぐ者』の内容で、その印象が変る部分はあったでしょうか?

恩田 映画という枠に收めたせいなのか、自分が歳をとったせいなのか、それは気になりませんでした。

――『星を継ぐ者』の作業に入るにあたり、富野監督から作品全体の具体的なイメージ、もしくは作業にあたっての注意点などはあったのでしょうか。

恩田 20年前の絵を意識しつつ、好きにやってくれという事でした。やわらかい感じが重要だったみたいです。

――『星を継ぐ者』の作業で特に苦心した部分、もしくは楽しかった部分はどこでしょうか?

恩田 キャラはどのキャラも大変でした。原画が良かったので、出来上がったフィルムを見る時が一番楽しかったですね。

――最後に、『星を継ぐ者』をこれから観る読者にメッセージを!

恩田 あくまで20年前の物語をベースにしている作品だということを意識して観てもらいたい様なものですから、そこだけに注目しないでほしいと思っています。ただ、メカアクションは注目です。


見どころは後半の新作カット メカの描き込みにも注目!
作画監督 仲盛文

――劇場版『Zガンダム』製作決定ならびに参加が決まった際の気持ちは?

仲 素直に嬉しかったです。TVでの不満な点が直せるのなら結構良いのでは、と思いました。

――TVシリーズ『Z』の際の、作品の印象はどのようなものでしたか?

仲 不完全燃焼。やり残した事。こうじゃないよな~という感じ。

――今回の『星を継ぐ者』の内容で、その印象が変る部分はあったでしょうか?

仲 う~ん、特に無いです。

――『星を継ぐ者』の作業に入るにあたり、富野監督から作品全体の具体的なイメージ、もしくは作業にあたっての注意点などはあったのでしょうか。

仲 具体的にはありませんでした。「好きにやってくれ」とはいってくれましたが。レイアウトとかは相当細かくチェックしていたので、作監作業に関しての注文はなかったです。

――『星を継ぐ者』の作業で特に苦心した部分、もしくは楽しかった部分はどこでしょうか? また作業中の富野監督の発言、並びに作業上の指示などで印象に残ったものはありますか?

仲 メカをもう少し描き込みたい、という部分です。これに関しては優秀な原画マンに恵まれたおかげで、良い原画が見れて楽しかったですね。監督の話は、作画打ち合わせの時の寄り道の会話がためになりました。

――では最後に、『星を継ぐ者』の中で特に注目してほしい部分をお教えください。

仲 後半の新作部分です。コンテはTVシリーズのままなので、見比べてください。

 正直、新訳Zにいまだに慣れません。慣れませんけど、当時よりすんなりに受け入れるようになりまして、今は吟味している状態なので、あえて感想を書きません。ただ、富野がいうフィルムか作品としての価値は正直そんな高くないと思いますが、その意味、技術、方法論など、サンプルとしてはもしかして一つの指標になるかもしれませんと、今はそう思っています。


1月4日のサンライズラヂオに富野出演

2009/01/07 21:43|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:0
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 昨日の滝沢さんの話題から、改めて富野の各時期のスタジオ経営というかディレクトというか、とにかく監督としてどうスタッフと接するのかについて新しい記事を書きたいですが、今日は情報だけ。富野由悠季監督が日曜日のサンライズラヂオにご出演をなさったということです。
 と、あまりにも呆気ないですので、他人のサイトの記事を無断転載。ごめんなさい。

だれか
サンラジリスナーはいないのかぁぁ!!
日曜の放送でいきなり富野出てきて爆笑したやついないのか?
「これからもドンドンやっちゃいますのでぇ」
ってオカマ口調で
心にも無いこといいやがった富野監督に笑ったやつはいないのか?


オープニングメッセージ凄かった。
ガンダムの生みの親、富野さんからのお言葉!

そっか、今年でガンダムが大地に立って30年になるんだね。
今世紀中にあと何作品作られるんだろう・・。

あと、種ガンの福田監督からのメッセージでサプライズ! 
監督いわくSEEDの劇場版、
 
・・・作 っ て る ん だ っ て !!
へぇ~~~。


後、サンライズラヂオ(名古屋のを聞いてる)で、
ガンダムの富野監督、
SEEDの福田監督、
00の水島監督、
コードギアスの谷口監督、
ボトムズの高橋監督からのメッセージがありました。
富野監督は相変わらずお元気で・・・元気過ぎる気もしますが。
福田監督は「SEEDの劇場版は今年中になんらかの発表が、
できる気がする」
・・・今年中の公開は無理っぽい感じ・・・。

 とかなんとか。内容については詳しく知らないが、一応載せておきます。
 というわけで、まだアップロードされていませんけど、ここでサンライズラヂオEX。の過去放送が聴けるので、1週間くらいを待てばいいということになるそうです。

 しかし、アニマックスの富野コメント見たかったよ…。

▽続きを読む▽

イデオンと富野喜幸と滝沢敏文(2)

2009/01/06 23:48|富野由悠季関連TRACKBACK:1COMMENT:8
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■イデオンと富野喜幸と滝沢敏文

 『イデオン』以外、『エルガイム』、『Zガンダム』、『ガンダムZZ』などの富野作品も手掛けた滝沢さんですが、正直いうと、その時期の滝沢さんについてよく分かりません。あまりその時期の資料を持っていないのは一つで、もうひとつの原因は僕は高橋監督の作品について疎いことです。なので、高橋監督が滝沢さんに与えた影響についても検証できないのです。演出家の一時期だけ取り上げて語るのは決してその人の全貌が見えないのですが、ここであえて『イデオン』時の滝沢さんについて語らせていただきます。

 さて、前回はコンテと演出の違いを言及したのですが、演出とコンテの分業についてはあまり語る必要がないと思うのですが、おそらく発動篇に関してはそのツヤである部分、ほとんど滝沢色で仕上げられているのではないかくらい、滝沢さんの役割が重要だった。
 『イデオン』の滝沢さんについては、当時のプロデューサー、後1スタの高橋作品に行った長谷川徹氏はこういいました。

――スタッフの多くが、富野監督と組むのは初めてだったわけですよね。とまどったりしたことはなかったですか?

長谷川 でもね、当時のスタッフというのは、『ザンボット3』『ダイターン3』『ガンダム』と攻め上がってきた富野さんの成果を、皆、脇から見ているわけですよ。だから一度、富野さんと一緒に仕事をしてみたい、という気持ちはあったと思いますよ。実際にやることになって怖れも少しはあったと思うけど、何か新しいものがつかめるんじゃないか、という期待もあった。滝沢くんなんか、そういうものの権化だったと思いますよ。一時期は富野さんの影響を強く受けたコンテを描いてたし、絵まで似てたからね。だから滝沢くんは高橋良輔さんと組むことが多くて、また後で『ボトムズ』でも組むんだけど、富野さんを経由したことで、戦力として成長したと思いますよ。(中略)

――TVシリーズのときは、滝沢さんは各話演出の一人ですよね。

長谷川 そうです。ただTVシリーズの当時から、彼が処理した話数って、割と派手めな話なんで、好評を得ていたんじゃないかな。僕らも作画が結構ヤバくても、彼なりの派手さで見せてくれて、助かった部分もありますね。

 実際のフィルム検証はいずれしたいと思いますが、派手さ、という『イデオン』の一つの特徴だった部分は、まさしく滝沢さんに通して、『イデオン』に注いだものではないか。そういう意味では、『ボトムズ』における高橋・滝沢コンビの分業もまさにこうで、高橋が脚本を抑えている代わりに、滝沢さんはコンテと全体の仕上げを作るという、細かい作業は違うがあれど、実際の構造はものすごく似てるスタッフワークだった。この面から見ても、上の長谷川さんの発言にも通じることですね。

 では、滝沢さんはどうこの『イデオン』と富野監督を見てるんでしょう?これは98年『イデオンという伝説』での発言:

富野さんのために何かやりたい、そういう気持ちがありました。
滝沢敏文(演出、劇場版監督)


僕らだけの宝物、『イデオン』

 『イデオン』に参加していたスタッフというのは、一種の競争というか共存というか……保育園に入った子供が競争したり協力したりしながら高みを目指していくような感じがありましたね。全てが興味深く、何もかも新しい。
 とにかく一個一個が手作りで、お金もらわずに喜んでやってましたからね。今だったら、ものすごく費用がかかるようなことを、人件費タダで楽しんでやってましたから。メジャーになっていない者の楽しみのような。なんとなく新鮮で、誇らしいものがありましたね。他のアニメは絵空事なんだけど、ウチのはハードだぜって。そういう優越感の中に、僕もいたんですよ。僕らだけの宝物っていうか。それが『イデオン』だったんですよ。
 劇場版の監督も、誰かに「やってくれ」っていわれたんじゃなくて、「俺がやる」っていったんです。そういう「やりたい」と思わせるものが、『イデオン』には確かにありましたね。
 監督をやるにあたっては、富野さんからの注文は別になかったです。富野さん、忙しくて。同時期に『ガンダム』の劇場版をやってましたからね。たまに相談にいくと、怒るんですよ。「相談するな!」とかなんとか(笑)。勝手にやってくれって感じだったですね。でも、忙しくなくても、そうだったと思いますよ。「俺がやる!」「じゃあ、滝沢やれ」っていう世界だったから。

 今でも覚えてるのが、『イデオン』のオープニングができたときに「滝沢、こういうオープニングじゃあダメだ」って富野さんにいわれたんですよ。一般受けはするんだけど、それじゃダメだって。そういう意味では、その言葉で作家性に目覚めたのかもしれませんね。今から思うと、その言葉が強烈に残ってて。本人は、そんなに大したつもりでいったんじゃないだろうけど。僕の中ではいまだにその言葉が、すごく神のように存在してるっていうのかな。
 遺言のようにね、「お前は、これをやっちゃいけない」って。それを、そのまま引きずってるような気がします。あの言葉は、すごく強烈に覚える。

存在することの大きさ

 富野さんは、何も命令するわけじゃないけど、存在することの大きさがありました。それでいて威張ってなくて。何から何まですごい人なのに、隅まで気を遣ってくれるみたいな。そういう善人的なカリスマ性がありました。だから皆、富野さんを好きだったし、この人のために何かやりたいっていう気持ちがありましたね。私もそうだったし。
 あの後ですよね、富野さんがギラギラしだしたのは。だから野心を……あるものを掴みたいんだけど、取れるかどうか分かんないっていう時代が『イデオン』なんじゃないですか。あの頃は、まだギラギラまでいかない。キラキラぐらい。私も知識が少なかったし、皆まだ子供だし。やっぱり、すごく偉大な人でしたよ。だから、その中に入っていることの心地良さがあったんだと思います。大きなものに抱かれているような……それこそイデの力じゃないけど、そういうカリスマ性に包まれてたんでしょうね。
(九八年二月二日 新宿にて)

 僕は日本語に疎いですから、日本語のニュアンスは良く分かりませんが、滝沢さんのまるで強調するような「だった」という過去形に、僕はちょっと怖かった。一応10何年も前の作品ですからそう言えなくもないが、なんだか決別したような感じで、僕には怖くてしょうがなかった。
 というのも、昨日の夜、滝沢敏文さんのブログで、こんな一文を読んでしまったんです

如何にもトミノ作品の様なオープニングは嫌いです。

 正直、私にとってショックでした。いや、ショックというより、一日中考えても、いまだにその意味が分かりません。記事の内容はsamurai7のオープニングについての話で、おそらくアニメジャナイあたりからの影響だと思いますが、トミノ作品の様なオープニングは一体何なんのか、正直悩んでました。
 と、なんだかオチが付かない記事になってしまったが、それは自分の考えでも纏まらないためだったので、誰かご意見を提供してくださればありがたいです。


イデオンと富野喜幸と滝沢敏文

2009/01/05 22:10|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:0
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 『イデオン』の資料を見返したら、興味深いくだりを見つけました。監督の富野と演出の滝沢についての話でした。
 周知の通り、テレビ版コンテ5本、演出11本、さらに映画版では、監督という役割をも務めた滝沢氏は、このイデオンにおけるもっとも重要なスタッフの一員だといえます。しかし、テレビ版はいいとして、映画版イデオンの「監督」と「総監督」は一体どのように違ったのかという疑問を感じた人もかなりいるでしょう。そこで、『伝説巨神イデオン大事典』の富野発言を見てみましょう。この内容については、富野とかBLOGサイト2の坂井哲也さんはすでに要約を書いてくださいましたが、自分は要約する能力がありませんので、あえて全文を掲載します。

本誌(注:アニメック) 例えば「イデオン」の映画ですと滝沢敏文さんが監督をなさるなど、アニメーションではどんどん若い人が起用されてゆきますが、総監督と監督は、今回の映画では仕事内容にどのような違いがあるのでしょうか?

富野 厳密に言えば、滝沢君の場合には、実写の世界でいう助監督に過ぎないでしょう。ただ、助監督とも言い切れないんです。だから「イデオン」の場合にはあくまでもこうしました。つまり、本来コンテュニティ(絵コンテ)を抑えられない限り、本当の意味での監督とはいえないんです。コンテュニティに関していうと、僕が全面的に抑えちゃったんです。しかしそれ以後の実務的な作業に関しては、全部滝沢君に依存しています。実写の助監督と違う部分というのは、アニメの監督の場合には、原画チェック以後に、本来監督といわれている人がいなければいけない部分があるわけです。最終的に今回のフィルムに関して言うと、絵の演出上のフィーリングが、完全に滝沢君のテクノロジーで仕上がっているんです。ですから助監督ではないんです。見事なくらいにコンテがありますから、彼はその部分では監督ではありません。が、実写的なレベルで言った時に、シナリオを受け取ってカット割りをしてゆきながらそれを撮ってゆくのを監督とすれば、まさしく彼は監督と同じ。だから監督です。たまたま時間があったこともありますが、Bロール(発動編)に関して言えば、滝沢君が監督であることに間違いはありません。別にヨイショするわけではないけれど、少なくとも演出処理術というものに、僕にはできないものがある。やはりひとつには、年の差というものがありますね。若い感性の持つフレキシブルなものというのは間違いないものだし、僕にはもうマネのできないものだし。例えば、光の処理法ひとつとっても、僕とは違った味わいがある。あれはもう、滝沢君のものですね。そういうオリジナリティというものは、歴然たるものです。

 と、富野が言いました。この発言を信じる限り、どうやら富野はコンテ以後のすべての実務(原画チェック、演出処理とか)を一切ノータッチで、全部滝沢氏に任せたことになるんですが、別の発言ではまた違った分業が出てくるから、なんだかややこしいですが、ここでしばらく富野監督を無視して、滝沢氏一人だけに絞りたいと思います。

 以下の発言は『伝説巨神イデオン 記録全集4』に収録したもので、内容はテレビ版に対するものですが、ここでは滝沢氏の富野演出と絵コンテ観が見られます。

イデオン全般の絵コンテを切る際に、富野さんのスピード感をすごく参考にさせてもたいました。この作品におけるスピード感は僕なりに吸収できたと思っています、やはり直接的にはああいう部分なのでしょう。富野さんの演技的なうまさとか、ドラマの盛り上げ方などはすごく難しいわけで、そういったものはまだ吸収しきれないのですけれど、わりあいと吸収しやすいところが、そのスピーディなところというわけです。その意味ではすごく勉強させてもらったと思っています。僕の絵コンテの最初の頃のやつは、富野さんの直しが入っていますから、それでスピーディな感じがすると思いますが、39話はもう富野さんの絵が消えて、ほとんど僕の絵になっています。ここに僕の進歩らしいものが現れていますでしょう? なので、その意味ではこの話数は一番カワイイ、僕のものが一番よく出ている話なんですね。

 一見あまり接点がない二つの発言ですが、よく読んでみると、2人のコンテ(ドラマや展開の段取り)と演出処理の分業について認識は実に共通します。

 明日も滝沢氏の話題を書きたいと思います。


月刊ニュータイプ2005年4月号GUNDAM EXPO 20富野由悠季総監督インタビュー(2)

2009/01/03 11:26|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:2
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関連記事
■月刊ニュータイプ2005年4月号GUNDAM EXPO 20富野由悠季総監督インタビュー(1)

今回は後半。

時代がつくらせたと思わざるを得ない

 本誌創刊時のトップタイトルは、「機動戦士Zガンダム」。そしてくしくも20周年にあたり「Z」は”新訳”の劇場映画として復活する。
 「一生懸命やった結果、時代を代表する作品をつくれたり、時代を象徴する雑誌が誕生することもあるでしょう。つくり手として”俺たちが時代をつくった”と言いたいところですが、時代の側は個々の仕事に支配されることはありません。20年という時を総体でとらえて、それを痛感します。今、時代が『Z』ということばを選ばせているなら、それはバイオリズムのような流れがあるからです。
 20年たって”ほら、みんなカミーユになっちゃった”という状況がある現在、時代に対して同じ『Z』という素材で手直しがきくとは、正直思っていませんでした。ですがまとめる仕事を始めてみたら、『Z』で最も嫌悪感をもっていた部分を画面上では描いていなかったことに、まず自分が驚きました。僕自身が20年、年をとったおかげで客観的な視線が得られて”だったらこの手もある”というのを今回の映画版で出しています。コンセプトも物語の構造も、基本的には何ひとつ変わっていないのに、足の置き方を半分ほどずらすだけで、狂うか狂わないかという違いが人間には出るということを、確信をもって描いています。
 現在の社会はルーチンワークでマニュアル化が進んでいますが、こういう状況にみんなが慣れ親しんでるかというと、どこかで”違うんだよね”とうっすら思っているはずです。それも半分足をずらすかずらさないかの問題だと思います。20年たっていうということは、今日までの現実をみんな引きずってきているわけです。ならば完全リニューアルは大変ですから、する必要はないのです。半歩ずらせばよいのです。この状況がいけないと思うか思わないか判断し、半歩の違いをするだけで、大きなことができる可能性があります。『ガンダム』以後でいちばんいけないことは、みんなが”好きにつくっていい”ということを誤解したことだと思います。回収できる歩留まりを見えにくくしてしまったのは、出資者、プロデューサーレベルに大人の鑑識眼をもった人がいないからでしょう。われわれのレベルでも、もっとお互いにものを言い合って見直し、学習する努力が必要なのです。それも半歩の努力だと思います」

 Zの話以外後半の部分は、どの業界でも通用することですし、アニメ業界にとって非常に重要なことだと思います。日本なら出版社の一般部門とマンガ部門の序列をたとえにすると分かりやすいと思いますが、何故アニメ・マンガエンターテイメントはいつまで経っても見下されてるのか、やはり考える必要があります。『ニュータイプ』が『アニメージュ』と比べて一番悪いのは、まさにそのページ構成の混乱。ビジュアル重視といっても、ピンナップも広告ももっときちんとした統合感が取れる入れ方があるし、その内容ももっと充実しないとこんな一番「薄い」アニメ誌という状況が続いているから、そこらへんは頑張ってもらいたいです。逆に、『アニメージュ』も自分が何故売れなくなった状況を誌面の構成から探さないといけないから、『アニメージュ』も『ニュータイプ』と同じく、チャレンジが避けられないです。
 あまり多くは言いたがらないですけど、「これくらいをやればいいでしょう?」という雰囲気が出てるアニメ関連の仕事はあまりにも多すぎると消費者に感じ取られるのが現在のアニメ関連産業。アニメ雑誌もそうですし、アニメそのものの製作もそうです。確かにそれ多くが「業務」なんです。でも、少しでも変わりたいと思ってるなら、業務以外の何かも入れるべきではないか。これは何もアニメ産業のことだけじゃなく、どの業界でも通用すること。上の”好きにつくっていい”の真意は、じつをいうと先日文字起した富野監督の萌えアニメ観に対する意見と相通する部分がありますから、僕はアニメにおける単に一の視聴者に過ぎませんけど、本当の制作者ならこれくらいをじっくり考えないと、やはりどうしでも現在のアニメ制作を続くと思います。

■富野の萌えアニメに対する3つの発言 その1

 そのへん、先日買った「オトナファミ」のほうが実にちゃんとしてると思います。さすがに「大人」を唄うだけのことがあって、なかなか品格がいい体裁になっていますし、既存の子供を舐めきった商売の仕方は極度捨てて、大人でも既存のアニメ・マンガファンでも一応見れるような内容となっています。もちろん欠点がないわけでもありませんが、その意欲的な本つくりに、僕はとても尊敬しています。


追記:最後は何月号忘れたが永野護の発言。

 「当時のNTの裏側なら全部知っているねえー(笑)」と、語る永野護。実は、ニュータイプという誌名について、富野由悠季監督に電話がかかってきた瞬間、その場に居あわせていたという。まさに歴史の証人だ。
 「当時、富野さんの横で『Zガンダム』の仕事していたら、電話がかかってきたんですよ。で、電話が終わったあと富野さんが『永野くん、今、新雑誌の名前を”ニュータイプ”にしたいっていってきたんだけどッ』って話しかけてきて。僕は『それはダサイ』なんて言ってたんだけど、監督は『僕個人としてはいいと思うんだけれど……でも僕は反対だなそういうのは……』なんて言いながら、そこらを歩き回ったりしていて。『あ、うれしそう、この人喜んでる』って思って観察してましたね(笑)。」




アニマックスのガンダム一挙放送のまとめ

2009/01/01 23:16|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:0
このエントリーを含むはてなブックマーク はてなブックマーク - アニマックスのガンダム一挙放送のまとめ
 アニマックス見れるわけでもないのに、なぜか21時間30分も及んだ実況を付き合ってしまったので、内容のまとめをとりあえずしました。映像が見たわけではないので、間違いあるかも。
 各話の放送前の内容は以下のとおりです:

1話 富野由悠季
2話 富野由悠季、大河原邦男、藩恵子、古川登志夫、銀河万丈、古谷徹、池田秀一
3話 富野由悠季、大河原邦男、玄田哲章、銀河万丈、古谷徹、藩恵子、池田秀一
4話 岡部いさく、玄田哲章、樋口真嗣、富野由悠季。「おっぱい触らせてください」。
5話 古谷徹
6話 池田秀一
7話 リアル腐女子?
8話 鵜飼るみ子
9話 富野由悠季。セイラ「さん」なんとか。
10話 喜屋武ちあき
11話 サヘル・ローズ
12話 銀河万丈
13話 安彦良和
14話 安彦良和
15話 個人制作有線ガンダムの紹介
16話 樋口真嗣
17話 シド・ミード
18話 アッガイなんとか、不明
19話 富野由悠季。ヤマトについて。
20話 安彦良和
21話 話ランキング10~7位 10位:29話『ジャブローに散る!』 9位:36話『恐怖! 機動ビグ・ザム』 8位:41話『光る宇宙』 7位:10話『ガルマ 散る』
22話 話ランキング6~4位 6位:15話『ククルス・ドアンの島』 5位:24話『迫撃! トリプル・ドム』 4位:1話『ガンダム大地に立つ!!』
23話 話ランキング3~1位 3位:28話『大西洋、血に染めて』 2位:19話『ランバ・ラル特攻!』 1位:43話『脱出』
24話 郷里大輔
25話 MSランキング10~7位 10位ガンキャノン 9位Gアーマー 8位ドム 7位アッガイ
26話 富野由悠季。お気に入りシーンはアムロの想像したウッディ大尉とマチルダさんの結婚式。
27話 古川登志夫
28話 古川登志夫
29話 MSランキング6~4位 6位ザク 5位シャア専用ズコック 4位シャア専用ゲルググ
30話 MSランキング3~1位 3位シャアザク 2位グフ 1位当然ガンダム
31話 大河原邦男
32話 大河原邦男
33話 岡部いさく
34話 池田秀一
35話 藩恵子
36話 玄田哲章
37話 大河原邦男。なんか富野さんの感性が分からないとかなんとか。
38話 キャラランキング10~7位 10位ララァ 9位マチルダ 8位ブライド 7位カイ 
39話 キャラランキング6~4位 6位ハロ 5位スレッガー 4位アムロ
40話 古谷徹
41話 藩恵子
42話 キャラランキング3~1位 3位セイラさん 2位ランバラル 1位シャア
43話 富野由悠季。なんかのツンデレ発言したような。

富野「ボクが描いた原画もあるの。その絵が上手いわけないじゃない! うわあ、ボクの好きなセイラさんをボクが描いたために、こんなに酷いセイラさんになってしまって…マズい! え? そのカットはどこって? うるせえ! 本当、本当マズいんだわ。観るな!」



 以上です。あくまで参考なので、過信しないほうがオススメですが、もし間違いはあれば、どうかお知らせください。


明けましておめでとうございます

2009/01/01 00:31|未分類TRACKBACK:0COMMENT:2
このエントリーを含むはてなブックマーク はてなブックマーク - 明けましておめでとうございます
 僕の大好きな富野由悠季総監督のガンダム30周年のコメントも出してるところで、ここで2009年は富野ファンとこのブログの読者の皆様の良い年になるように祈らせていただきます。
 まだまだ未熟者ですが、2009年もどうぞよろしくお願いします。

★       ∵∴∴☆※☆∴∵∴        ☆
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∵☆☆*°°☆ .  ´ : : : : 、ノ ☆°°*☆☆∵ *
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☆                            ★



ついでに今年の富野神宮
 ┳━┳
 ╋━╋
 ┃  ┃
  ∧_∧
 ( ´∀`) 富野新作がありますように
 (___つ ミ_
  |\\[一諭吉] \
  |  \\\\\\\
  |   | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
      |  富野御大 |


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