富野由悠季監督とその作品をひたすら語るブログ

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今夜のアニマックスは富野総監督コメント付きガンダム一挙放送だ!

2008/12/31 21:15|未分類TRACKBACK:0COMMENT:2
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 今年もついに最後に迎えていますが、今一番気になるのは、なんといってもこれです。

機動戦士ガンダム 30周年記念特別番組
『年明け機動戦士ガンダム一挙放送-みんなのガンダム-「君は全話観ることができるか!?」』

2009年はアニメ「機動戦士ガンダム」が放送開始されてから30周年目を迎える年です。
アニマックスでは、「機動戦士ガンダム」の放送開始30周年を記念して1月1日午前0時より「機動戦士ガンダム」のテレビシリーズ全43話の一挙放送を行います。

全43話(21時間30分)を3部にわけて放送します。

各話の冒頭では、富野由悠季総監督や豪華クリエイター・声優陣からのスペシャルコメントやここでしか観られない貴重な映像を放送。また、「私とガンダム」企画で視聴者の皆さんから寄せられた「機動戦士ガンダム」にまつわるコメントやエピソードなども番組内でどんどん紹介していきます。

なお、アニマックスホームページ内でガンダムに登場するエピソード、MS、キャラクターの人気投票・「私とガンダム」というテーマのコメント・写真画像の募集を行っています。

 ファースト自体じゃもう何回も観たので、今さら食指が動くこともないのですが、そのスペシャルコメントについて、とてもワクワクしています。台湾じゃ日本のアニマックス観れないので、御大やほかの人のコメントをチェックできる方に願いしたいのです。その内容をレポしてくれる熱心な富野ファンの方は必ずいると思うのですが、もし動画や写真あれば、富野をコンプリートコレクトする欲はきっと抑えきれないだろうなという不必要な考えは、今更ながら浮かんでいます。まあ、富野由悠季という人を語るのはこのサイトのメインコンテンツ(というか、それを取り上げられたらもう何も残ってないのですね)であり、ウチのやりがいでもありますから、それくらいは度が過ぎるとはいえませんよね?

 そうそう。それと、個人のことですが、ついに昨日で無事にオトナファミを入手しました。ファミ系+季刊だけであって、なかなか現物を見つからなかったが、何軒も回ったらようやく買えた。で、前出しの情報もあって、どんなネガティブな発言があるのかなと思えば、意外と健全で前向きなインタビューだった。子犬さんの仰るとおり、将来の志を申し上げたい意味合いが強くて、新作情報そのものは出していませんが、とにかく来年に期待。あの数々の謎々な言葉を信じて…。


アニメ夜話にトリトンがキターー!

2008/12/30 19:10|未分類TRACKBACK:0COMMENT:2
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BSアニメ夜話 第12弾 (2009年2月24日~26日放送)
2/24(火) 深夜24:00-24:55
第一夜「ジャイアントロボ THE ANIMATION 地球が静止する日」(1992-98年 監督・今川泰宏)
アメリカザリガニ/岡田斗司夫(作家)/氷川竜介(アニメ評論家)ほか

2/25(水)深夜24:00-24:55
第二夜「海のトリトン」(1972年 監督・富野喜幸)
塩屋翼(声優・トリトン役)/朴ろ美(女優・声優)/小谷真理(作家)/岡田斗司夫(作家)/藤津亮太(アニメ評論家)ほか

2/26(木)深夜24:00-24:55
第三夜「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」(2002-3年 監督・神山健治) ※公開収録
後藤隆幸(作画監督)/田中敦子(声優・草薙素子役)/松嶋初音(タレント)/宮台真司(社会学者)/岡田斗司夫(作家)/氷川竜介(アニメ評論家)

 キターーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!
 水~平~線~の 終、わ、り、に、は あああ 虹の橋が ある~のだろう~~
 富野来てくれておめでとうーーーー!今川監督初めて取り上げられておめでとうーーーー!神山?複数回ほどの監督ではないだろうし、最近の作品ばっかりじゃないかと、思わずツッコミたい。まあ、前回はNHK枠だから仕方ないか。
 昔は こういう妄想記事(注:台湾語です)を書いたこともありましたが、その時は「『トリトン』が取り上げられている可能性は十分にあります」と言いましたが、まさかさっそく12弾で実現したとは、本当に嬉しいです。
 ついでに今までのアニメ夜話のリストも載せてみた。 

BSアニメ夜話 第1弾 (2004年9月6日~9日放送)
 『銀河鉄道999(劇場版)』(監督:りんたろう)
 『ルパン三世 カリオストロの城』(監督:宮崎駿)
 『あしたのジョー』(監督:出崎統)
 『カードキャプターさくら』(監督:浅香守生)
BSアニメ夜話 第2弾 (2004年10月25日~28日放送)
 『機動警察パトレイバー(劇場版)』(監督:押井守)
 『アルプスの少女ハイジ』(監督:高畑勲)
 『ふしぎの海のナディア』(総監督:庵野秀明)
 『機動戦士ガンダム』(監督:富野喜幸)
BSアニメ夜話 第3弾 (2005年3月28日~30日放送)
 『新世紀エヴァンゲリオン』(監督:庵野秀明)
 『映画クレヨンしんちゃん オトナ帝国の逆襲』(監督:原恵一)
 『新造人間キャシャーン』(監督:笹川ひろし)
BSアニメ夜話 第4弾 (2005年6月27日~29日放送)
 『未来少年コナン』(監督:宮崎駿)
 『劇場版 エースをねらえ!』(監督:出崎統)
 『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』(監督:石黒昇・河森正治)
BSアニメ夜話スペシャル (2005年8月19日放送)
 まるごと!機動戦士ガンダム
BSアニメ夜話 第5弾 (2005年10月24日~26日放送)
 『ほしのこえ』(監督:新海誠)
 『劇場版 少女革命ウテナ~アドゥレセンス黙示録』(監督:幾原邦彦)
 『うる星やつら(TVシリーズ)』(監督:押井守・やまざきかずお)
BSアニメ夜話 第6弾 (2006年5月2日~4日放送)
 『ヤッターマン』(総監督:笹川ひろし)
 『王立宇宙軍~オネアミスの翼』(監督:山賀博之)
 『イノセンス』(監督:押井守)
BSアニメ夜話 第7弾 (2006年8月7日~10日放送)
 『千年女優』(監督:今敏)
 『勇者ライディーン』(監督:富野喜幸、長浜忠夫)
 『鋼の錬金術師』(監督:水島精二)
 『アニメの時間よ永遠に〜脚本家辻真先・1500本のテレビアニメ〜』
BSアニメ夜話スペシャル (2007年3月27日~31日放送)
 とことん!あしたのジョー
BSアニメ夜話 第8弾 (2007年6月25日~28日放送)
 『母をたずねて三千里』(監督:高畑勲)
 『装甲騎兵ボトムズ』(監督:高橋良輔)
 『時をかける少女』(監督:細田守)
 『精霊の守り人』(監督:神山健治)
BSアニメ夜話 特別版 (2007年8月11日放送)
 『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(監督:押井守)
BSアニメ夜話 第9弾 (2007年9月25日~27日放送)
 『ど根性ガエル』(監督:岡部英二、長浜忠夫)
 『銀河鉄道の夜』(監督:杉井ギサブロー)
 『カウボーイビバップ(TVシリーズ)』(監督:渡辺信一郎)
BSアニメ夜話 第10弾 (2008年3月17日~19日放送)
 『今日からマ王!』(監督:西村純二)
 『トップをねらえ!』(監督:庵野秀明)
 『伝説巨神イデオン』(監督:富野喜幸)
BSアニメ夜話 スペシャル(2008年7月28日~31日放送)
 とことん!ルパン三世
BSアニメ夜話 第11弾(2008年11月4日~6日放送)
 『電脳コイル』(監督:磯光雄)
 『ガンバの冒険』(監督:出崎統)
 『劇場版・天元突破グレンラガン 紅蓮篇』(監督:今石洋之)

 十二弾まで、唯一4回も取り上げられているのは富野監督一人だけ。さすがわが御大将。
 次は庵野と押井と出崎。それぞれ3回。宮崎、高畑、長浜、笹川、あと今回で2回目の神山はそれぞれ2回。今のところ一回だけの監督はりんたろう、浅香守生、原恵一、石黒昇、河森正治、新海誠、やまざきかずお、山賀博之、今敏、水島精二、高橋良輔、細田守、岡部英二、杉井ギサブロー、渡辺信一郎、西村純二。

 そのなか、3回組のアンノはNHKのナディアがあるからハードルはちょっと緩いが、押井と並ぶ2位に座ったのもさすがとしか。たぶんもうこれ以上取り上げられることもないけど。
 押井監督は2弾からの登場にも関わらず、6弾ですでに3回も取り上げられて、スピードとしては一番早かった人。作品数は豊富ですが、ここ15年のマイナーな映画っぶりを考えると、また取り上げられるチャンスはちょっと少ないが、最近のアニメ夜話はなんだかチョイスに困ったようなので、ひょっとしたら富野に次ぐ4回監督になるかも。
 出崎監督は歴史に残った名作が一杯あるので、取り上げられるチャンスはまだ十分あります。権利問題さえクリアできれば、次はなんといっても『ベルサイユ』ですね。

 2回組のなか、笹川氏の作品はあまり意識したことがないですが、70年代のタツノコの輝くっぶりを考えると、出るチャンスもまだまだあります。
 パヤオはたぶん日テレとの権利関係の問題でしょ。でなきゃ2回なんて少なさすぎる。曲がりにもアニメ巨匠ですから。
 高畑もそう。ただし、高畑監督はジブリ作品以外でも世界名作劇場あるから、いずれはまた出るでしょう。もう2つも使っちゃったが…。
 長浜監督のロボットアニメはロボットアニメ史の立ち位置はいささか微妙なので、評価高いロマン三部作ですが、ひょっとしたら意外に全滅を喰らうかも。まあ、次は『ベルサイユのばら』でしょう。

 個人の欲望でいえば、そろそろ虫プロのアニメラマ三部作とか鉄腕アトムを取り上げるべきなのでしゃないかと期待していますが、そのへんの選択はよく分からないので、なんともいえません。ウィキぺディアでこの選択については、

作品自体は完結している一定の評価を受けているなどの原則があるらしいが、時にマニアックな作品がテーマになることもある。

と書いてありますから、大体NHK作品+ビッグネーム一つってのはおそらく目安だと思う。

 で、以上で言ってたすべては、じつをいうとどうでもいいこと。重要なのは、次の富野作品が取り上げられる可能性について、ちょっと検討しようと思います。『海のトリトン』、『勇者ライディーン』、『機動戦士ガンダム』、『伝説巨神イデオン』はもうクリアなので、ここで除外。


 まずはガンダム前史時代の2作。
 『無敵超人ザンボット3』:これはロボットアニメ史上でも極めて重要な作品なので、取り上げられるには、十分ありと思います。
 『無敵鋼人ダイターン3』:この作品も一定な評価を得てますが、ザンボットと比べてややマイナーなので、可能性としてはあまり高くない。

 次は富野意欲の異世界三部作。
 『戦闘メカ ザブングル』:注目されるようで注目されていないという、かなり微妙な作品である。可能性としてはないこともないが、富野作品のなかの順位は低いほうだろう。
 『聖戦士ダンバイン』:同時期の『マクロス』と同じように注目作ですし、先駆性も影響も十分ある。バイストンウェルシリーズの第1作だけであって、語れる話題もかなり多いはずだろう。
 『重戦機エルガイム』:ありえないだろう。

 次はガンダムシリーズです。ガンダムの名に埋れる恐れはあるものの、もし「ガンダム」という色メガネから逃げれば、優秀な作品はかなりいます。
 『機動戦士Zガンダム』:今となって確実に評価される作品ではあるし、トミノイズムの濃度はかなり高いし、劇場版の話題もあるから、論述としては一番完全なガンダム作品だと思う。
 『機動戦士ガンダムZZ』:ガンダムシリーズのなかでも結構微妙な作品なので無理だろう。
 『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』:テーマ性が強く、クォリティも極めて高い作品なので、もしかしたら次の大本命なのかもしれません。
 『機動戦士ガンダムF91』:やはり劇場アニメとしては優秀だが、ストーリー面は評価しがたい部分もあるかもしれないので、可能性は今のところ無いかも。
 『機動戦士Vガンダム』:怪作で大傑作の本作ですが、評価は未だに固まってないし、90年代アニメのなかに埋れることもありうるので、可能性は低いだろう。しかし、これを取り上げることこそマニアックといえるだろうな。「ほしのこえ」?それマニアックとはいえないだろう?

 次は後期作品群。
 『ガーゼィの翼』:絶対無理。
 『ブレンパワード』:新生富野第1作。でも90年代後半のアニメのなかでも、富野作品のなかでもあまり目立たない作品なので、おそらく難しいでしょう。
 『∀ガンダム』:富野近年の代表作。健やかな作風で、次の世代へのメッセージ、監督である富野の変わり様、すべては語るに値する。もしこの後期作品群から一つだけ取れば、この作品は一番鉄板だと思う。あ、そういえば、この作品もガンダムだったよね。
 『OVERMAN キングゲイナー』:2002年の話題作で、超ハッピーなオープニングがあります。これだけ観ればかなり有利かもしれないが、最後では評価分かれるので、一時期おそらく難しいだろう。ガンダムシリーズじゃない点は武器だが…。
 『リーンの翼』:難しすぎるというか、マニアックすぎるというか、とりあえず正面きって5、6話の内容を語れる人はいないので、おそらく取り上げられることもないだろう。

 以上をまとめると、可能性が高いのは『無敵超人ザンボット3』『聖戦士ダンバイン』『機動戦士Zガンダム』『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』『∀ガンダム』といったところかな。ガンダムというタイトルをついてる作品は3作もあるのは弱いところですが、作風とテーマを取れば、むしろ取り上げないほうがおかしいと思いますが、いかがでしょう?


 12弾までダントツの4回監督になった富野ですが、おそらくポリティカル・コレクトネスの下で、13弾は押井監督作品を選ぶだろう。スタッフのなか押井信者はいるようですし。個人の欲でいえば、もっと杉井ギサブロー監督の作品が観たいのですが。


月刊ニュータイプ2005年4月号GUNDAM EXPO 20富野由悠季総監督インタビュー(1)

2008/12/30 00:12|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:0
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 今日は丸一日ある実写監督とアニメ制作の作打ちをしましたので、今日は半分だけ。疲れたから。

富野さん、ニュータイプは好きですか?

この15年は嫌な雑誌

 本誌タイトルの”ニュータイプ”の語源は「機動戦士ガンダム」から来ている。それは”人の革新”という願いを込めた造語である。ことばの”生みの親”である富野由悠季総監督にとって雑誌「月刊ニュータイプ」はどんなふうに見えていたのだろうか? 本誌創刊時における印象と以後20年の感想を忌憚なくうかがった。
 「創刊号の僕の発言はほとんど嘘です。新しく『Zガンダム』を立ち上げなければいけない時期でしたから、本当のことなど言えません。”重力に魂を引かれた人々”ということばについてもことばを思いついて捏造していくレトリックです。”ニュータイプ”自体にしてもそんなニュアンスから始まったことばです。佐藤良悦(初代編集長)から新雑誌の名前を”ニュータイプ”にしたいと申し出しを受けたとき、”商売とはこういうふうに他人のものを利用してまででっちあげるものか”という嫌悪感がまずありました。もちろん全部が嫌ではありません。自分発祥のネーミングが雑誌名になることは、もちろんうれしいことです。しかし、それを前面に出すことは、僕にとって居座りの悪いことでもあったのです。ですから創刊時に小説『ファウ・ファウ物語』を書かせていただくにあたっても、一冊の本にできる質で続けようと自分なりに頑張りました。
 佐藤良悦編集長から創刊ゼロ号をいただいたときには、個人的な好みはさておき、ビジュアル誌としてのこの判型はありだろうと感心しました。悪口も言いましたが、こういう目のつけ方が商売を展開していくうえで有効だと評価もしているわけです。こちらの考える”ニュータイプ”とは違う意味で、名前をビジネスとして利用されていく中で、展開されていく個々の表現は実にみごとでした。特によかったのはデザインワークです。当時のわれわれはこういうセンスをもっていませんでしたから、ロボットアニメしか知らなかったスタジオの人たちにとってよいガイドラインになるとさえ思いました。
 ですから全否定するわけはありませんし、一方で抵抗感は永遠についてまわるものだからしかたないとあきらめたのも事実です。小説まで含めて佐藤良悦氏の仕事のしかたの趣味のよさ、上品さは好きだったといえます。その後もよい意味でこちらを引っ張ってくれることを期待しましたが、編集長が交代してからは堕落の方向に滑っていったと思います。ことに編集長が代われば代わるほど、雑誌のファッションが定型に陥って、特にここ15年ぐらいはいちばん嫌いな雑誌になりました。
 これは僕の年齢じゃないと言えないことですから、はっきり書いてほしいです。広告がこれだけ多く入ってきているのに、何も考えてないからカタログ誌に見えるのです。そして”お仕事”として安心しきった編集者のスタイルしか見えてきません。編集者は雑誌のページを任されていることを安易に考えないでいただきたい。いちばん許せないのは、平気で見開きページをつくる無神経さです。大きく引き伸ばすに値しない絵なのに、一度発注しまったからという理由だけでそのまま使うセンスは、どうしょうもないと思います。絵に対してよしあしを見極めるセンスが編集者に不足しすぎです。
 見出しだけは大きな活字で読みにくい難しい漢字の新しいロゴをつくったりしていますが、普通の読みやすい活字でスタイルをつくってろと言いたいです。そのうえ、文章内容も吟味せずに、読ませたいページなのに小さな活字でページを組んだりしていますし、内容とスペースの配分もほとんど考えられていません。結局、僕には前代の編集者がルーチンワークにしたものを、何も工夫せずにそのまま受け取って繰り返しているようにしか見えません。読者に見せたいものなのかどうか、識別能力をなくしているとしか思えません。『月刊ニュータイプ』が雑誌らしく見えるのは目次だけといえるでしょう」

 昔のニュータイプは読んだことありませんけど、今のニュータイプ誌について、僕もまったく同じ意見です。


月刊アニメージュ2005年12月『リーンの翼』のプロデューサーたちのコメント

2008/12/28 22:19|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:0
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 今日は短めですが、今手元の仕事が一段落に落ち着いたら、ここ数年のサンライズの富野作品のプロデュースについて語りたいと思います。そうなると、どうしても近年2スタの主(今は4スタになったが)河口プロデューサーの話は避けられないので、ついでに整理のつもりで文字起しをしたいと思います。

リーンの翼 STAFF’S COMMENTS
河口佳高(サンライズ・プロデューサー)◆湯川淳(バンダイビジュアル・プロデューサー)◆宇都宮将人(バンダイチャンネル・プロデューサー)

――企画の出発点は?

宇都宮 バンダイチャンネルとしては「アニメーションの新しいメディア」としてネット発の作品を立ち上げたかったんです。そこで今までいろんな分野を開拓してきた富野監督にお願いして、今回の企画が動き始めました。

湯川 バイストン・ウェルものでやりたいというのは、企画の最初からありましたが、最初は違うタイトルにしようと思ったんです。でも監督が最終的に「リーンの翼」にしよう、と決められて。

宇都宮 こちらとしてはネット先行の作品ではありますが「劇場版を作る気持ちでお願いしたい」と監督に申し上げました。

河口 そしたら絵コンテも劇場版並のボリュームで上げてきちゃって(笑)。本当に困っちゃいますよ。

宇都宮 そういう意味では、僕らも非常に力が入っていますよ。

――本作は現代日本の問題意識が反映された硬派な内容ですね。

湯川 当初は王道のファンタジー、「ハリー・ポッター」とか「ロード・オブ・ザ・リング」のような方向を目指す、とか言ってらしたのに……(笑)。

河口 それは監督というより僕の意見で入ったところが多いですね。

湯川 ただ、基本的に純粋なエンターテイメントを目指しているのは変わらないと思います。

――今回ビジュアル面をokamaさんと篠原保さんに頼んだのは?

河口 okamaさんは富野監督のご指名で、篠原さんは、監督が「仮面ライダーをデザインしている人に頼みたい」と仰っっていたので。今回のメカニックは、昆虫と旧日本軍のメカが合体したようなイメージでやろう、とのことでした。

――本作を楽しみにしている読者にメッセージをお願いします。

河口 『ガンダム』は既にかっちりとした世界観が出来上がっていますが、バイストン・ウェルはまだまだ別の可能性を見せられると思います。今回のスタッフが作った新しいバイストン・ウェルを楽しみにしてもらえると嬉しいですね。

 この記事にはいくつかのポイントがあります:
 1、企画はバンダイチャンネル発。
 2、最終的なタイトルを決めたのは監督の富野。
 3、劇場版を作る気持ちで作ってた。これについて別の資料でも見られる。
 4、当初は王道ファンタジーを目指した。
 5、河口の意見が多く入ってる。
 6、okamaも篠原保も監督本人の希望で集めたスタッフ。
 これらのポイントは、別の資料と対照すると、意味はよりはっきりする。


月刊アニメージュ2005年11月富野由悠季総監督インタビュー

2008/12/27 11:33|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:0
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目差しの彼方へ
――富野由悠季のさらなる挑戦――

劇場版『機動戦士Zガンダム―星を継ぐ者―』のシリーズ第2弾『恋人たち』が今月末に公開。また新作『リーンの翼』の制作も発表されるなど、この秋は富野由悠季総監督の周辺が何かと騒がしい。日々チャレンジを欠かさない富野総監督の次の一手とは果たして!? その手がかりはこの2作にある!!


劇場版『Z』の本当の凄さ

――好評を得た劇場版『Zガンダム』第2作『恋人たち』がいよいよ公開ですが、現在はどのような心境ですか?

富野 僕は相当気に入っているにですが、一部の人たちから酷評を受けているので、もしかしたら観なくていいのかもしれません(笑)。

――どのような意見があるのですか?

富野 『Z』を観た何人かの人の感想を見せていただいているけれど、言っているのは「映画が面白いか、面白くないか」だけで、どこにも「ここまでよくぞまとめた」といった評価論がないので、この作品の何が凄いかってことにそろそろ気がついてほしいよね。
 劇場版『Z』は、つぎはぎだらけの変な映画です。これはハッキリ言ったほうが良いと思う。旧作のアムロと新作のアムロを同じキャラとして思ってくれといっても「思えねぇよ!」って感じられるでしょう?
 それが揺るぎない前提としてあるからこそ、こういう風に劇場版『Z』を徹底的に組み立てたんだよ、ということを理解してほしいんです。キャラクター描写に関しては揺るがせていないので、それを心棒として映画に入れておけば、こんなものでも観れるものになるかもしれない、という革新の中で仕事をしているわけです。

――先ほどおっしゃっていた、『恋人たち』で気に入っている部分とは?

富野 気に入っているというより、僕の目線でみた時には「恋人たち」のような人物主体のまとめ方しかできない、群像劇の構造をとらざるを得なかったんです。そのことが作品的によい方向に向かったかどうかはわからないのだけれども、納得はしているのです。一般的に劇場にかけてる際に「ロボットアニメ」と限定されていたとしても、なるべき一般に近づけるためにメカもの、戦争ものにはしない、という努力をしたからです。
 作り手としてひとつだけ、このまとめ方の持つ「新訳」の意味は、テレビ版で観る以上にそれぞれのキャラクターが立っていると見えるので、バラエティショーとしてはそれなりに見られるものになったと思います。

劇場版ガンダムは全6部作!?

――ファンは、早くも第3部作への期待を高めていると思いますが?

富野 あらためて感じますが、やはり『Z』は3本まとめて1本の映画ですね。それがものすごく強制力を持って作動する作品になっています。そしてもっと言ってしまうと――これに気づいて僕自身がとてもショックなのだけれど――ファーストガンダムの劇場版3本と今回の3本まとめて、1つの作品ですね。自分でもそれは意識していなかったんですが、この前NHKのBSでまとめて放映された時に、1本目と2本目をそれぞれ半分ずつ観てみると、『Z』の1作、2作を観たあとではファーストしかなかった時と印象がまるで違うんです!

――どの様に違うのですか?

富野 やっぱりファーストの方がかなり面白い(笑)。でも面白さがファーストだけの時代と違うんですよ。これは舌巻きました。簡単に言ってしまえば、「みんなはこんなに若かったのか……」と目がくらみました。『Z』の10年前のアムロが、シャアが圧倒的なリアリズムを孕んでそこに存在しているのです。そう思わせるように『Z』があるからだからで、そう思わせるように『Z』を新訳できたことを嬉しく思います。
 だから6本全部そろった後で、3~6年後くらいに劇場版『ガンダム6部作』は評価されると思いました。

新作『リーンの翼』への意気込み

――それでは今回発表された新作『リーンの翼』に関してもお聞かせください。まず、企画の立ち上げはどういったキッカケから?

富野 「ネット配信の作品が欲しい」とは以前から言われてまして、富野がそれをやるなら『リーン』しかないだろうという消去法からですね。
 僕は原作をそのままアニメにしたいと思っていたけれども、「作るのなら新作でいきたい。迫水(原作小説の主人公)も出していい」と河口(佳高)プロデューサーに言われて、エッ? って思いました。今まで自分が築き上げてきた作品の原理原則では、そういう選択肢は考えられなかったし、それを聞いた瞬間に「面白い!」と思いました。

――新作への足がかりを、見つけられたのですね?

富野 まだ製作は進行中ですけれど、自分の人物造型や異世界を作る手法が変ってきたと思っています。そこはかなり気に入ってます……曰く言い難いのだけれど、みんなの知っている風景だけれども、今までのアニメで全然やらなかったことをやっていると言えますね。そうでなければ、物語は岩国基地から始まりませんよ(笑)。

――本作で目指すものは何でしょうか。

富野 『(聖戦士)ダンバイン』の頃よりも、改めてバイストン・ウェルのようなファンタジー世界=想像力を我々は日常に獲得しなければならない、という肉薄感を獲得したいですね。そのための嘘のつき方を一生懸命やっているので、作業自体は非常に面白いです。

――スタッフの人選も富野総監督が?

富野 河口プロデューサーの指揮権の方が強いです。自分自身のテイストと合わないという部分も当然ありますが、そこを面白がれるだろうなと思っています。ただokamaさんは、僕の推薦が強かったですね。彼の絵の持つシンプルな魅力はかなり前から気になってまして、スタジオでそれを再現するのはなかなか難しいけれども、この作業は後にスタジオの財産になるとも確信しています。

――作品作りの中でネット配信というフォーマットに関しては、特に意識されていますか?

富野 いえ、むしろ表現的には手描きのアニメのテイストを残すように心がけています。それは3D問題への懐疑というのもそうですが、映像作品として考えれば大画面であろうが小さい画面であろうが、そんなものは僕には何の意味もありません。むしろ重要なのは、ネット配信に関して賛否両論あるでしょうが、僕は賛成派なんです。僕のキャリアの中にあるものは、常にゲリラから始まるというものがあったので、僕は受け入れられました。正直こういうやり方に関して不満の声も上がっていますが、僕は気にしていません。
 そして、今回の様な<新作でない新作>を作るような仕事は、次の仕事のエクササイズになるとも思えるからです。考えてみれば『キングゲイナー』は劇場版『Z』を作るためのエクササイズだったし、今回の『リーン』は次のまだ見えない新作企画のためにやるべきだと思います。これは自分の中では単発仕事ではないんです。そういう意味では、僕の仕事は綿々とひとるにつながっているんですよ。

 Zへの自画自賛の除けば、それなり内容があるインタビューだと思います。いや、Zの部分はおそらく自分ではまだ消化しきれないのでいまいち受け入れないのですが、リーンの部分に関しては、正直今じゃどう読むのがようやく分かったような気がします。Pがいけなかったのも分かった。まあ、今になってもうどうでもいいことですが、しかし、私心でいえば、やはりこれ以上河口と組むのにできるだけ避けてほしいですね。


『リーンの翼』オフィシャルガイド飯島愛寄稿 飯島愛の目から見た『リーンの翼』と富野由悠季監督

2008/12/25 15:00|富野由悠季関連TRACKBACK:1COMMENT:0
このエントリーを含むはてなブックマーク はてなブックマーク - 『リーンの翼』オフィシャルガイド飯島愛寄稿 飯島愛の目から見た『リーンの翼』と富野由悠季監督
 皆さんももうご存知でしょうけど、飯島愛さんはこの度亡くなりました。富野由悠季監督でもそれなり親交を結んでいる飯島さんの死は一富野ファンとしては、非常に残念なことでした。いや、富野ファンじゃなくても、その人間性に対してかなり好意を持ってますから、本当に惜しい人が亡くなったと思っております。外見と経歴と裏腹に、非常にまともなセンスや感性を持っていらっしゃった方なので、最初その話を読んでたとき、ものすごくまともだなぁと驚きを覚えた同時に、自分の浅ましさにも恥じ入るばかりです。この場を使って、飯島さんのご冥福をお祈り申し上げます。

 ここにはシャアブログさんが掲載してくれた富野監督と飯島さんの対談があるのですが、ぜひ一度を読んでください。富野監督が彼女に惹かれてる訳も分かれます。

日経エンタテイメント2006年12月号No.117 飯島愛「お友だちになりたい!」最終回ゲスト 富野由悠季

 上の文章を読んで、どうでしょうか?話自体をまともで平穏で進行させていながらも、時折容赦なく鋭い話題を投げ出す飯島さんとの対談は、アニメ雑誌などでの無難なモノなんかより、よっぽと読み応えがあります。これはまさしくアニメ村と外の人の差と言えます。やはり変革は外部からでないと、なかなか刺激にならないですね。アニメだからアニメ村の人たちがやってりゃいいんだ、という人たちは、狭い人間になるだけです。外の人だってアニメに対して鋭いこと、とにかく村の人間たちは分からなさ過ぎるという指摘は、もうすでに『映像の原則』で示したことですから、ここで多く言いませんが、今日は故人を偲ぶのもかねて、『リーンの翼』のときの飯島さんの寄稿を紹介します。


この間『ガンダム』を見返して泣きました

 よく意外って言われるんですけど、私、すごくアニメが好きなんですよ。
 私くらいの年齢の人は、みんなアニメは好きなんじゃないかな。子供の頃は夕方から夜の8時くらいまで、テレビをつければ必ずアニメが放映していましたからね。『機動戦士ガンダム』とか『ベルサイユのばら』とか、いろいろ観ていましたよ。大きくなって、ちょっとアニメを観なくなった時期もありましたけど『新世紀エヴァンゲリオン』をきっかけに、また観はじめました。
 私が観るアニメを選ぶときのポイントは監督なんです。実写なら出演している俳優で選ぶこともありますけど、アニメの場合は監督の方が重要視します。富野(由悠季)監督とか押井(守)監督とか。
 絵は描けないんですが、実は、自分でもアニメの仕事がしてみたいんですよ。以前、雑誌で富野監督と対談をさせていただいたときも企画を売り込んでみたんですけど、やんわりとかわされちゃいました。
 そのとき富野監督は、アニメを作るときの参考として普通の女の子の意見が聞きたい、みたいなことを仰ってくれたのですが、アニメを観るときは私、普通の女の子の視点じゃないから参考にならないかも。
 『ガンダム』は本当に子供の頃から好きなんですよ。その頃は単純に、戦うロボットとシャアしか観てなかったんですけど、この前、テレビの『ガンダム』のDVD-BOXを勝って見直したら「えっ!? こんないい話だったっけ?」と驚きました。
 いま大人になって観ると、子供の頃はわからなかったキャラクターの心理とか人間模様がすごく丁寧に描かれてることに気がついて、最後の方では泣いてしまいました。

ワーラーカーレーンは遊郭のイメージ?

 今回の『リーンの翼』ですけど、本当にスゴイな、というのが正直な感想です。最初に戦艦(オーラーシップ)が、海から出てくるシーンがあるじゃないですか。すごいインパクトですよね、あれは。
 そのあと出てきたオーラバトラーも、ロボットというより虫みたいで、いままであんまり観たことのない面白い動きをするんですよね。たぶん映画館の大画面で観たらすごい迫力なんじゃないかな。
 この戦艦もオーラバトラーもCGだと思うんですけど、それを聞いて『ガンダム』の頃から比べるとアニメって、ずいぶん進歩したんだなって思いましたね。
 進歩といえば、CGでいろんな色が作れるようになったからか、この『リーン』はリアルなんだけど、その反面でアニメならではの独特な色使いをしてますよね。
 私が一番ビックリしたのは、オーラロードをエイサップとリュクスが通ったときのカラフルな色使い。あれこそ”ザッツ・アニメーション”という感じの色ですね。日本のアニメならではの色使いというか。
 その後、2人がフェラリオたちがいるワーラーカーレーンに行くじゃないですか。私は、富野監督はあそこを遊郭のような場所イメージで作ったんじゃないかと思ってるんです。「気持ちのいいことしかしたくない」と言うフェラリオたちは遊女のイメージですね。遣り手婆みたいなのもいるし(笑)。
 そのあとでフェラリオたちが狭いところに集められて吊るされたる、ひどい目にあわされたりするのも、なんだか昔の女の人が虐げられていた時代の話みたいですよね。花から赤子が逆子で出てきたりしましたし。
 富野監督がスゴイのは、そういうかわいい妖精を出すときも、ただかわいいだけじゃなくて歴史とか、いろんなものに絡めて出すところですね。元特攻隊員とか、気がつかないうちにいろいろ教えてもらっている感じでした。

好きなキャラクターはサコミズ・シンジロウ

 サコミズだって、戦争中に生まれたから、ああなっちゃっただけで、人として間違っているわけじゃないと思うんですよ。
 第二次世界大戦の話を聞くと、その頃は日本を守るとか、そういう考え方が当たり前のように蔓延していたんですね。
 だからサコミズはいまと違う時代の人間というだけで悪人ではない。
 ただ申しわけないですけど、現代の東京に出てきたサコミズの「日の丸が!」とかの反応は面白かったんですね(笑)。でも考えてみればサコミズは私たちのお爺ちゃんくらいの世代の人なんですけど。
 エイサップは……すいません、あんまり印象にないです(笑)。すごい服をサコミズから貰ったというのだけは憶えてる。
 エイサップといえば、エイサップとリュクスがくっつくのが早すぎじゃないですか。たしかに要所要所できっかけになるようなシーンはあるんだけど、そこはもう少しじっくりと描いて欲しかったな。
 各話30分の全6巻かぁ……、そういうのを含めて、全体的にもうちょっと長く観たかったような気はしますね。

富野監督の作品は何度でも観直せる

 原爆が落とされるシーンは、1シーンでこれだけ感動できるのかと思うくらい、悲しかったですね。それも演出のウデなんでしょうけど、原爆が爆発する前に入っているお母さんと子供のカットが辛いんですよ。あの2人の日常の姿があるから、その直後の爆心地の悲惨な風景が余計に心に迫る。『リーン』本編のテーマのひとつだと思いますけど、富野さんは親子を描かせたら本当に上手いと思います。
 あと富野監督の作品はいつも台詞が強烈ですね。一番印象に残っているのはフェラリオを輸送しているときに自衛隊の人が言った「セックスって戦争なんだ」って台詞。”愛”とか”仲良くする”ためのセックスが、人殺しの代名詞みたいな戦争だなんて、奥が深い言葉ですよね。富野監督の作品には、こういう心にひっかかる台詞、いわゆる名台詞が多いですね。『ガンダム』だって、もうずいぶん前の話なのに、いまでもみんなが本編中の名台詞を喋っていますし。
 今回の『リーン』はあっという間に観終わってしまった感じなんですけど、いろんな要素が詰まっているので、やっぱり1回観ただけじゃだめですね。
 けど大人になって『ガンダム』を観直したら気がつかなかったことがわかったみたいに、何度も観ることができるのが富野監督の作品のよいところだと思います。
 あと私は1話ずつ観たんですけど、まとめて観たら、また違った印象かもしれないですね。この『リーン』は観ている間、ずっと1本の映画みたいだなって思っていたんですよ。それは映画並みの深さや重みが物語やキャラクターにあったという意味なんですけど。
 これは私の主観なんで、間違っていたら申し訳ないんですけど、いまテレビでやってるアニメって、かわいい女の子が「お兄ちゃんっ!」っていってるみたいな作品が多くて、普通の人が楽しめるような作品が少なくなっている気がするんですよ。
 だから富野監督には、ジブリ映画じゃないけど、普段はアニメを観ないような人でも楽しめる、それこそ世界に通用するようなアニメを作って欲しいですね。
 だって私たちにとって富野監督は、あのガンダムを生んだ巨匠なんですから。”あのガンダム”というと、また怒られちゃうかもしれないけど(笑)。
 私ね、アニメとか映画を作ることができる人って尊敬してるんですよ。だって何もないところから考えているわけじゃないですか、それはスゴイことですよね。
 とくに富野監督のスゴイところは『ガンダム』だったらサイド7とか、この『リーン』だったらバイストン・ウェルとか、現実にはありえない世界を舞台にしてるでしょう。
 そんな作品を作るたびに世界を丸ごと作っちゃう人なんて他にいませんよ。普通の監督だったら小説なり漫画なり、どこかから原作を持ってきて映画にしたりアニメにするんじゃないですか。
 それなのに富野監督は律儀に、毎回自分で舞台になる世界観を作ってるんだから、そのバイタリティはスゴイですよ。よく消耗しないな、と思います。
 けど、富野監督は若い人を積極的にスタッフにして、新しいもの、若い人の考えを取り入れようと頑張ってるみたいですね。
 以前、奥さんと一緒にお食事をさせていただいたことがあったんですが、酔ってたしか、そのとき「次、なにを作ればいいのかな?」なんて言ってたんですよ。
 そのときは「アニメを作ればいいじゃないですか」って返事したんですけど、監督の方たちは、みんな自分の代表作を越えるために悩んでるんですよね。ただ富野監督の場合は越えなくてはいけないのが『ガンダム』だから大変ですよ(笑)。でも、その悩んでいる姿はまた素敵なんですけど。
 ただ私としては、本当は富野監督が持ってるセンスや知識を見せてくれれば、それだけで全然OKなんですけどね。だって、それが一番観たいんだもん。

 よっぽと富野由悠季というアニメ監督を分からないと、なかなか出てない文章です。作品のなかに秘めたメッセージや色、富野作品の見方や富野監督に対するラブコールなど、本当によく理解してる上に出される意見です。改めてこれを読んで、これが飯島愛という人の意見と同時に、一般人の感性に代表されるものでもあるなぁと、改めて感心しました。そういう意味では、また富野監督にも頑張ってもらいたいです。


富野由悠季1991年ホンコンのF91に関するインタビュー

2008/12/24 21:58|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:0
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■日本語のネット界じゃ読めない富野発言

 一昨日はさっそく子犬さんシャアニュースのRandal Stevensさんのリクエストを頂いたわけですが、昨日は訳あって記事をかけませんでしで、本当に申し訳ございません。で、肝心なインタビューですが、最初はリクエストの通り北京大学の講演から手掛けたいのですが、最近は色々あって(例のオトナファミのこと)、頭が塞いでいてなかなか進まない上に、あの講演の積極だか消極だか達観だか諦めたか良く分からない内容を読んで、それを翻訳するのに本当に苦痛なんです。ですから、しばらくそれを凍結して、今回はF91のインタビューに留まるつもりです。期待してる皆さん方に、本当に申し訳ないのです。

 さて、このインタビューはホンコンの「Aクラブ」という雑誌に載ったものですから、インタビュアは「A」で表示します。あと、さっき仰ったとおり、最近脳の活動の低下とともに、日本語翻訳能力というか変換能力もかなり低下しているわけですから(かといってチェックする気力も残っていません……)、もし間違いがあれば、ぜひぜひご指摘をしてください。隠しコメントでもいいんです。よろしくお願いします。

A 戦闘ロボットアニメについて、日本の観客はどう思うんでしょうか?

富野 『F91』という作品は、日本では極端な反応を受けました。はっきりと「好き」と「嫌い」というファンは、それぞれ半分を占めていた。今回の作品のなかに、僕は人の心性の描写や人と家族の関係を入れ、人と人の関係性を強調する同時に、人はひとりだけの個体ではないというふうに描きました。それと、子供たちに戦争の実体を分からせるために、作品のなかでは戦争が持つ怖さ、リアルな一面の描写もしました。そういう意味では、フィルムのなかに注いでいる思想を、ホンコンの観客たちは一体どれくらい分かれるかのに対して、とても興味深いです。

A 戦闘ロボットアニメは子供に悪い影響を与える声もありますが、富野さんはこれについてどう思うのででょうか?

富野 確実に悪い影響を与えると思います(キッパリ)。なぜかというと、子供はアニメだけで暴力を学ぶと、暴力や戦争は簡単で面白いことだと誤解するんです。でも、このようなアニメーションは視聴率が高いため、テレビ局はそういった暴力傾向があるアニメ番組を強化する代りに、ゲームやスポーツのように描くように要求も出ます。しかし、暴力をゲームのように描くのは、ひょっとしたら子供にそのなかに潜んだ危険性を忘れられるだけではないかというふうに感じています。それはとっても危険なことです。この現象によって作られた被害者は何も子供だけでなく、現に日本では組織の規則をゲームのシステムに押し込む会社も出てくるわけですから、本当に悪性循環に辿る一歩なのです(注:何かを示すのはイマイチよく分からないにですが、もしかしたらゲーム会社のことを言ってるかもしれません)。

A 話は今回の映画に戻りますが、『F91』のラストではシーブックが百合の花によってセシリーを見つけたシーンがありますが、富野さんは百合花にどういうニュアンスを与えるのでしょうか。

富野 言葉でシーブックとセシリーの感情を表現したくないため、百合を選んで……花に通じて二人を繋ぐわけです。

A ラフレシアだけではなく、エルメスなんかも人に思わず花を連想させるようなデザインですね。富野さんは花に何か特別思いでもあるでしょうか。

富野 最初にメカデザインをしているとき、僕はラフレシアの造型を固すぎないように、いくつかの柔らかいモノをモチーフとして持ち込んだ。それと、ビジュアル面でいえば、はっきりと敵味方のメカを区別するようなデザインが必要するわけですから、結果的にクロスボーンバンガードが丸みを持ってるデザインで、連邦が花や動物みたい機械以外のモチーフを排除される、角を持ってるメカデザインというふうになりました。
 僕個人でいえば、特に花が好きなわけでもなく、ただモノを創造するときには、アニメ世界以外なものを作品入れる必要を感じましたから入れただけです。何故ラフレシアが必要かというと、それは作品の最後には今までと全く違うメカが必要からです。これを探すために、本当に2ヶ月もかかって、ようやく「花」というモチーフを見つけて、ラフレシアに入れたんです。どうしてかというと、観客をそれは花か動物か一目で分からせるようなデザインを探すのに、本当に苦労しました。

A 作品のなかのキャラクターデザインやメカデザインは、どれくらい監督の原作概念に反映してるんでしょうか?

富野 じつをいうと、僕はあまり大河原邦男さんのメカデザインが好きじゃありません。今回もメカのデザインに当たって、大河原さんにいくつかの土偶――古代バビロニアの土偶ですが――を参考してもらって、そのデザインにバビロン色を出してるように、お願いをしたわけです。その成果はご存知の通り、劇中で出てくるクロスボーンバンガードの一連のMSですが、今回僕が描いた物語はクロスボーンバンガードが宇宙(コスモ)バビロンという国家を建国する話ですから、その部分に対して、本当にとても満足でした。
 ゼロから始まって、何も無い摸索状態からMSに何かを持ち込むのは、本当に難しいことですし、そのモチーフをいかに改変やアレンジして、MSに似合うような形にするのも、ものすごく辛い過程が要ります。そういう意味では、若いデザイナーたちにも、この作品見て、何か新しい斬新なメカデザインを作ってほしいです。例えば今僕の前に立ってるこの若い人たちも、将来はメカデザイナーになるかもしれませんですね。

A 時間の制約がなければ、監督の理想的な『F91』はどれくらいの長さになるはずだったでしょうか?

富野 最初はテレビシリーズとして検討したこともありますが、最後は映画という形に選びました。で、最初の予定上映時間は2時間半ですが、いざ絵コンテを描いたら、観客にドラマの発展を分からせつつ、作品の伝えたいすべてを伝えるには、どうしても3時間以上をかからなければいけないと分かりました。
 僕はこの作品に通じて、心の中のテーマを語りたいのですが、上映してる作品では、自分が伝えたかった概念を伝えきれませんでした。このフィルムの中にも、僕が力不足でどうしょもない部分があって、本当に残念です。それでも、まったく作らないほうよりずっとマシですし、作ってからわかったこともあります。

A 「ニュータイプ新世紀宣言」からもう10年経ったわけですが、今の富野さんは自分が間接的にニュータイプを促進した、あるいは作った感じがあるんでしょうか?

富野 (笑)たとえば世界では本当にニュータイプがあるにしても、おそらく今回の湾岸戦争で全部消えたんじゃないの?どうしてかというと、現在多くの人たちは世の中のすべてが戦争によって解決できると考えるようになりましたからです。戦争を好ましくない人たちでさえ、心の中にどこかで戦争は問題を解決してくれる「かもしれない」考えがあるわけです。これらはすべてオールドタイプ的な発想です。

A じゃあ、さっきの問題に戻りますが、富野さんは自分の作品に挙げたニュータイプという思想がすでに10年前に世間に浸透してると考えますね?(注:何この強引なインタビュア)

富野 (眼鏡を取って、熟考10秒、また眼鏡をかける)さっきが言ってた話は実をいうと、僕が本当に伝えたいことではありません。
 当時宣伝活動のなかで挙げたニュータイプ新世紀宣言が、本当に伝いたかったのは、「人は変ってゆく、ニュータイプと同じように」というメッセージですが、その間の過程は、簡単なことではありません。そのような変革は200、300年をかかるかもしれません。これらはすべて一作者としての願いである同時に、作品の中に自分の願いを込めるのは、すべての制作者が一人の作者として、ちゃんと責任だと思っています。

 外国のファンは日本のファンと比べて、一つの違いがあります。外国人だったため好奇心が強いからか、空気が読めないからか、日本のファンが決して言わない質問をよく口にしています。おかげ様で、普段日本でのインタビューでは聞けないこともたまに出てきます。このインタビューでも、ちょっと違う側面で富野のF91観が聞けて、ちょっと珍しいと思わなくも無い感じがあります。まあ、僕自身があまりF91の資料を持ってないのもあるんですが…。


日本語のネット界じゃ読めない富野発言

2008/12/22 23:28|未分類TRACKBACK:0COMMENT:1
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 今日富野資料を整理する&ネットサーフィンすると、手持ちのちょっと珍しい二つの資料を見つけた。一つ目は2005年後半(約『恋人たち』公開する頃だから10月くらい?)、中国北京大学での講演と記者会の内容で、二つ目は1991年『F91』の宣伝もかねて、ホンコンでのなんらかのイベント誌のインタビュー。
 ネットであちこち検索や記憶のなかで探す限り、この二つの資料の日本語バージョンは確かいまだどこにも出回っていないらしいですから、もし必要があるのならば、できる限りちょっと翻訳したいと思いますが、いかがでしょうか?また、もし興味がお持ちにでしたら、どれから始まるほうがいいのでしょうか?北京の講演は『映像の原則』と新訳Zの構造と作り方とガンダムシリーズ全体の問題についての話で、ホンコンのはF91とガンダムシリーズについての語りだと記憶してますが、どれから先にやればいいのか、できれば意見を募集してほしいです。


宇宙世紀語り――すべての『ガンダム』に捧げる

2008/12/21 20:13|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:0
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■宇宙世紀語り――『ガンダム』と『Zガンダム』の場合
■宇宙世紀語り――『逆襲のシャア』と『閃光のハサウェイ』の場合
■宇宙世紀語り――『F91』の場合
■宇宙世紀語り――『Vガンダム』の場合

 気を取り直して、ブログを更新。

 先日、玖足手帖のグダちんさんのブログで、この話題についてこんなコメントを頂きました。

富野ガンダムの場合は歴史家の視点と言う感じでもありますね。
ZZは歴史として見るよりは歴史の裏の庶民を描くので俯瞰したナレーションが無い。∀ガンダムにナレーションが無いのは、黒歴史の最先端だからでしょうか?あと、歴史そのものがキーアイテムだし。
劇場オンリーの逆シャアとF91はテンポからナレーションは排除したのかなあ。もしくは、テレビ版にナレーションをつけたのが視聴者に対する必然性があっただけかも。

 確かに、ナレーションを語るには、その機能性(つまり必要か必要でないか)を忘れていけないのですが、このように歴史の語り部で見るのも、とっても面白いです。超越的な視点といっても、何も神だけではなく、歴史を俯瞰できる歴史家だったり、後世の人だったりする可能性もある。逆に、神だけの視点ではなく、人の視点も混ざっているからこそ面白いのも言えます。世間に対する無念とどうしょうも無さがより一層強く出てますから。ここではアニメのナレーションと小説の序を同列に語っていますが、実際Vガンダムのナレーションと序を比べて見れば分かると思いますが、小説は書き口調で、アニメは語り口調が強いのが見えます。まあ、ぶっちゃけこのへんは媒体の問題だと思いますが。あと、ぶっちゃけグダちんさんが指摘する前に、ZZは完全に忘れました。わざとシカトしてるわけじゃないです。


 で、ZZとクロボンを除くと、全部の富野ガンダムを一通り見てきましたが、今回はもう二つを見てきましょう。一つは2000年出版の『密会 アムロとララァ』の序:

諸兄姉へ

 この物語は、『機動戦士ガンダム』として発表されたテレビ、映画版の原形(プロトタイプ)にある人々の情念のありようを概観した物語です。
 人々の心の軌跡をたどることで人が革新するかたち――ニュータイプ――土壌であるものが、確固とした人々の情念と、確固たる現在を構築することではないだろうかと語り継ぎたいのです。
 記憶は反復して鍛えられ、ニュータイプを生む土壌をつくる……われわれは今だけを生きているのではなく、いまを生きることによって、未来をも築こうとしているのです。
 それをできるのは、われわれ”人”だけだと知っているから……。

 これを読んで妙と感じたのは、最初の『ガンダム』を見せようとしていながらも、もう単純な『ガンダム』を語るだけではなく、「20年後の目で『ガンダム』を語る」となっているからです。が、しかし、普通なれば客観的になるか、冷めている視点で語るのですが、本文を読んだことがある方なれば分かると思いますが、非常に情熱でエロスが溢れてるものだった。とっても20年前(正確的いうと18年前ですが)の作品の物語(リストリー)とは思えないのです。この反復した物語りは、もちろん前に言ってたバイストンウェルの構造とも関係あると思いますが、もっと直接的にこの手法に影響を与えたのは、ほかでもなく、その『∀ガンダム』の「黒歴史」、つまり歴史のなかに積累した記憶と記憶のなかに積累した記憶、現在と過去、本当と嘘をわざと曖昧するという、ある意味究極的な人を語るアイデアからのものだと思われます。
 今見た『ガンダム』は、決してありのままの『ガンダム』ではありません。本放送から見た『ガンダム』と、再放送X回目から見た『ガンダム』と、30周年アニマックス一挙放送から見る『ガンダム』は、同じ『ガンダム』であるけれども、感想は決して同じではありません。10歳で見た『ガンダム』と、15歳で見た『ガンダム』と、20歳、30歳、40歳で見た『ガンダム』の感想も、同じことなんて決してありはしません。その上、見る時代も同じではありません。70年代で見た『ガンダム』と、80年代で見た『ガンダム』と、90年代、2000年後で見た『ガンダム』も、また違ってきます。ほかには、ゲームからの影響とか、友達からの影響とか、アニメ誌とか変なブログからの影響とかも。一作品で一人だけでもこのような様々な違う作品観があるわけですから、ほかの作品やほかの人をも加えると、もう語りつくせるものではありません。
 しかし、それでも、『ガンダム』は『ガンダム』です。色んな個人の記憶(とその記憶を構成するさまざまな思い)はあるけれども、それでも語るなら、もう『ガンダム』なのです。皆が好きな、『ガンダム』という作品でしかない。それ以上でもそれ以下でもありません。つまり全肯定と全否定という構造です。ぶっちゃけこの状況はどんな作品でも勝手に出てくる構造なんですが、それらもすら語るようとしているのは『∀ガンダム』であり、この『ガンダム』についての実験作『密会』なのです。


 長くなってしまったが、もう一つは故・井上大輔氏の『REVERBERATION in GUNDAM』の『プロローグ』。これもある意味宇宙世紀というか、『ガンダム』語りなんです:

宇宙世紀(ユニバーサルセンチュリー)の初頭、
地球連邦政府と、スペースコロニーの一つ、ジオン公国が、大戦をした。
地球での戦争の歴史を、宇宙(そら)でも繰り返したのだ。
人は知恵を本能に従わせ、自分の足場が無くなるのを気付きながらも、自らの存在を謳歌した。
身の丈以上の道具を弄べば、自らを滅ぼすのは自明のことだろう。
それを制御できると考えるのは、エゴの増長、傲慢の拡散、愚鈍なる者の放つ花火…!
それでも、ガバナーたち、マッド・サイエンティストたち、ミリタリアンたち…!
それら魂のない者たちは、それを弄ぶ。巨大な道具を、時代の象徴と信じてる…!

 これも『ガンダム』を語りながら、もう完全に『ガンダム』と『ガンダム』の時代を超越した言い草と思想ですが、このような語りに相応しいのもまたシャア・アズナブルという人しかありません。また、怒りっぽいシャアですが、このアルバム全篇を聞けば、決して怒りだけの話ではなかったと伺えます。


ハア…

2008/12/19 22:27|未分類TRACKBACK:0COMMENT:0
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まだだ!まだ終わらんよ!
まだ『新・大人のガンダム』があるじゃないか!と、言いたいが、
富野じゃないガンダムは大人の鑑賞にも耐えるものなんてかつてあったっけ?

もう何もかもヤケクソになっちゃう。


ガンダム35周年…?

2008/12/19 01:10|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:6
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シャア専用ニュース

■富野由悠季監督による新作ガンダムはガンダム35周年で発表!?
オトナファミ 2009 February 「富野由悠季 ガンダム30周年を叱る」 要約版

あまり意外だったので、言葉が出せなくなった。
つか、今混乱してる。

し、し、し、し、しかし、本当なのだろうか?
もし本当だったら、オレおそらくショックで一週間寝込むわ。


宇宙世紀語り――『ガンダム』と『Zガンダム』の場合

2008/12/18 21:51|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:2
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■宇宙世紀語り――『逆襲のシャア』と『閃光のハサウェイ』の場合
■宇宙世紀語り――『F91』の場合
■宇宙世紀語り――『Vガンダム』の場合


 順番逆にしましたが、今日はついにガンダムの第1作と第2作のナレーションにたどり着いた。しかし、今更気付いたが、タイトルは別に「宇宙世紀語り」にする必要もなく、もしかしたら「ガンダム語り」にしちゃってもいいじゃない?そうすれば別の作品だっていれるし、ちょっとした比較をしても面白いじゃないのかとも思ってますね。まあ、ウチは「ガンダム」を扱うブログじゃないからどうでもいいが…。


これは超~有名な『機動戦士ガンダム』の第1話のナレーション。

人類が増えすぎた人口を宇宙に移民させるようになって、既に半世紀が過ぎていた。地球の周りの巨大な人工都市は人類の第二の故郷となり、人々はそこで子を産み、育て、そして死んでいった。宇宙世紀0079、地球から最も遠い宇宙都市サイド3はジオン公国を名乗り、地球連邦政府に独立戦争を挑んできた。この一ヶ月あまりの戦いでジオン公国と連邦軍は総人口の半分を死に至らしめた。人々はみずからの行為に恐怖した。戦争は膠着状態に入り、八ヶ月あまりが過ぎた

 これは地球と宇宙の対立姿勢という、ガンダム全体のバックグラウンドを語り尽くしちゃってる名文です。富野の思考と、ガンダムの世界観は、すべてここから始まる。後にニュータイプという方向性が出来ても、物語の基盤はやはりこの人と人、人と環境の争いから離れていません。
 じつを言うと、これを語るには、映像も欠かせないですが、今ちょうど持っていませんので、思い出すことができないのが玉に瑕。


 一歩、これは『機動戦士Zガンダム』のナレーションですが、次回予告の「君は刻の涙を見る」と比べて、意外にもあまり有名ではないような気がします。俺でも覚えてないけど…。
 これは第5話のナレーション。

この中にあった魂が、神の国にたどり着くことはないだろう。その向こうには知的生命体が住む惑星があり、人々はここで子を産み、育てる事を、当たり前の事としすぎていた。


 これは第8話:

それは、かつて魂を持ったものかも知れない。しかし、今は、それが神の国にたどり着くことはないだろう。そこには、人と名乗る知的生命体が住む惑星があった。人々はここで子を産み、育てる事を、当たり前の事としすぎていた。


 そしてこれは第10話:

この中にあった魂が、神の国にたどり着くことはもはやないだろう。その向こうには、人と名乗る知的生命体が住む惑星があった。人々はここで子を産み、育てる事を、当たり前の事としすぎていた。

 ガンダムシリーズの第2作ということもあって、「神の国」というある意味SFとかけ離れてる言い回しと、「知的生命体」という『イデオン』から引きずってるような名詞を使うけれども、基本はやはりガンダムシリーズベース。
 しかし、『ガンダム』と一番違うのは、『Zガンダム』が語る規模はバーンと大きくなってること。地球の見方と扱い方を含めて、『ガンダム』は人類の愚かさを嘆くものとすれば、『Zガンダム』は人類という生物の愚かさを嘆くもの。この『Zガンダム』の思考は、後からずっとガンダムシリーズを支配していて、ある意味(『ガンダム』ベースの元に)『ガンダム』より影響力があるかもしれません。


 面白いのは、『ガンダム』と『Zガンダム』の小説には、序がありません。これはどういうことかというと、おそらくこの二つだけが格別だからです。『ガンダム』小説は元々ガンダムシリーズから独立してるハードSF調で書かれてる小説ですし、『Zガンダム』に至って細部は違うけれど、もう完全なノベライズでしかありませんから、おそらく『ハイ・ストリーマー』や『閃光のハサウェイ』みたい、ガンダムから分離したい野心作ではあらず、単に業務としてこなしていたと捉えたかもしれません。
 明日は番外編に当たる部分。最初のガンダムの企画書のアレもいつか語りたい。


宇宙世紀語り――『F91』の場合

2008/12/16 22:31|富野由悠季関連TRACKBACK:1COMMENT:7
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 今日書いてる最中で気付いてたことですが、アニメはもちろん、実際富野は小説のなかでも、一度も宇宙世紀の時代順から離れてることはありません。小説でいえば、79-80年の1st、85-6年のZ、(原案のみの)86-7年のZZ、87-8年の逆シャア、89-90年のハサウェイ、91年のF91、93-4年のVという順番で、一度も時間順を飛ばしたことがありません。おそらく富野のなかでは、宇宙世紀というのは、いわゆるSFの年表的なやり方と違って、常に前進してゆく一つの世界観であるかもしれません。
 しかし、それでも例外があります。それは『ガイア・ギア』です。ガンダムシリーズの鬼子のこの作品は、唯一時代順から離れてる小説である。でも、内容はよく知りませんが、あとのF91-Vの時代ラインとはちょっと異なるらしいなので、おそらく書いてた当時の富野も将来はF91以降を書く羽目になることを予想しなかったかもしれません。
 でも、そんなの実はどうでもいいです。気になるのは、『ガイア・ギア』にはこのような小説の序があるかどうかということです。これに関しては身近には一人の達人がいますが、さすがに人頼りっぱなしするのもどうかと思いますので、今日はF91だけにします。


 生み育ててくれた母と父がいるならば、そこに戻るのが人でしょう。
 もちろん、その逆もあって、不幸な生立ちをもてば、両親を憎しみ忘れようともします。ときには、殺そうとも……。
 それも、父と母がいるから起ることですから、結局は、戻ることなのです。
 両親を賞賛し敬うのも、嫌悪し遺棄するのも、それを、家族という範囲で見るかぎり、個人の問題としてすませられることですが、世の中は、ひとつの家族だけでその暮しがなりたつわけではありません。
 ひとつの家庭のまわりには、その衣食住をまかなってくれる社会があり、生計をたてるために、両親たちがでてゆく社会があります。そして、そのなかで、ひとつの家庭が、子供を育てることができるのです。
 子供を育てるために大人が働く、というのとはちがいますし、家庭のために働く、というのも、働くために家庭がある、という理解もまちがっています。
 人の感性は、大変に柔軟性に富んでいるもので、本来、それらの事々を縦糸のようにつなげて考えることはしないものなのです。人は、ふんわりとそれら個々の問題をつつむように捉えて、日々の営みを行っているのです。
 生物が生きつづけるためには、子がいなければならないのですし、この子を生むために、生物は生長しなければならないのです。そして、餓死しないためには食べ、こごえ死にをしないためには衣類を着、生殖の場としての巣と子育てのための家が必要なのです。それおを拒否することは、生物として生まれたおのれを自らの手で抹殺するしかないのですが、それを思いつくのは人間だけなのです。ここに、知恵をもったことの決定的な矛盾があると嘆くのもまた人間だけです。
 考える頭を持ってしまった『人』は、このときから不幸を背負ったともいえましょう。生きることの問題点のかずかずを抽出して、それを論理の糸の上にのせて、その因果関係を考えるという知恵を身につけてしまったときかrあ、人は社会を複雑に織りこむことに専念した生物だということができます。
 それでいて、その考えかたは、瑣末な現象を理解することに駆使されて、大局と個のかかわりあい方を考える場合、基本を忘れて個の問題を正当化したり糾弾したりすることを恥じることなく行なうようになりました。
 ですから、全体として人間の行為をみるとき、支離滅裂なものの累積したものにみえることが往々にしてあるのです。
 そのような心と感性の上にのっとってつくられた人類の歴史が、旧世紀時代の人の進化の歴史だったといって良いでしょう。
 それはまちがっていたようだ。本来、人は、もっとふっくらとしたものでじゃなかったのか、と想像するようになったのは、この宇宙で唯一命を生むもの、地球が瀕死の病に犯されて、その再生も難しくなってからでした。
 人類は、種として英断をくだしたときがあったとすれば、この地球を救うために、地球を破壊しつくした自分たちが地球からはなれて、地球に一万年の安息の時間をあたえるべきである、と決断したときだったでしょう。
 その決断が国際連合でくだされて、それを実行にうつしたとき、世界中で膨大な抗争事件が起り、国家間、文化の違いによる地域間の大量虐殺事件も、枚挙にいとまがありませんでした。
 しかし、国際連合は、それを悲しむ心は安易なヒューマニズムであって、人の狭隘さの証明でしかなく、近代人のエゴイズムであると断定して、宇宙移民を強行しました。
 巨視的にみれば、そのときの国際連合の判断は、地球を汚染しつくした人類が当然支払うべき代償であったことは、まちがいありません。
 スペース・コロニー時代に足を踏みいれる決断をしたときの人類は、ようやくにして、大地にたいする謙虚さをもてたのです。
 しかし、人は、親があって子につづくものです。このときに起った惨事と栄光の双方の面から生まれた禍根は、宇宙時代(スペースエラ)に引き継がれてしまったのです。
 しかし、スペース・コロニーに人類の大半が居住して、ユニバーサル・センチュリーも一世紀あまりを過ぎれば、人類が宇宙に暮らせる習性を身につけられたことを、神に感謝をしても良いという考えもうまれました。
 地球にしか住めないと信じられていた人類が、宇宙に住めるポテンシャリティ(そのものが持つ内的力)を持っていたからです!
 しかし、スペース・コロニーが当然の世界の在りようと信じられるようになたときには、人は、また旧世紀時代に犯したと同じ過ちを犯すのです。
 なぜなら、人が生物である限り、親を忘れることができない宿命が為さしめることでありますから……。
 だから、ここに、新しい家の捏造も生まれるのです。

 その論理と結論の間の跳躍的思考を楽しんでください。これこそシャーマン的な発想。


宇宙世紀語り――『Vガンダム』の場合

2008/12/15 23:49|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:0
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■宇宙世紀語り――『逆襲のシャア』と『閃光のハサウェイ』の場合


これはVガンダム第1話のナレーション:

地球を汚染させてしまった人類が宇宙に移民をして、それに十分なじむ時代となっていた。しかし人類はこの宇宙でも地球上と同じ様に戦争の歴史を繰り返していた。それは、自らの愚かさを直して、新しい環境に適応しようとする人の本能がさせていることなのだろう。こんな人類でも宇宙に暮らすことが出来ると信じなければ人の歴史はあまりにも悲しい。



これは第2話のナレーション:

地球を汚染してしまった人類が、宇宙に移民をする時代になっても、地球上と同じようにに戦争の歴史を繰り返していた。それは、新しい環境に適応しようとする、人の本能がさせていることだと思いたい。

 全体は前者として大差はありませんが、ニュアンスが微妙に違ってるところを注目してほしい。


 一歩、これは小説版『Vガンダム』の序。



 宇宙歴の時代、宇宙に移民した人類が、その刻(とき)に十分なじんだころ……。
 そんな時代になっても、人類は地球上でくりかえしたと同じように、抗争の歴史をくりかえしていた。
 なぜなのだろう?
 生物のもともとの習性から、ひとつの集団を構成すれば、そこにうまれる仲間意識が、他者を排斥する衝動をもつ、という説明で納得するのは簡単なことだ。
 しかし、文明を獲得したと自負し、科学技術を行使することを自明の理とした人類は、生物としての本性をすてることができないという内的矛盾を解決しないままに、現代という時代をむかえてしまったことに、不幸の源があったのだろう。
 だから、抗争はなくならないのである。
 しかし、宇宙時代の抗争は、歴史のくりかえしではなく、人類が、次の人類に成長するための陣痛であると信じたい。
 地球から宇宙という異なる環境に出ていかざるをえなくなった人類は、次の時代には希望をみいだしたいと願っているのだ。
 みずからの生が、永遠であると信じられなければ、今日という命は、あまりにも寂しいものだろう。
 次にあるべき人類の姿?
 それは、宇宙そのものを生息の天地とすることを可能にした子供たちであろう。
 その子供たちを生みだすためには、どうしょうもなく矛盾するものをもったみずからを矯正しなければならないのだ。
 そのために、自己変質をするための抗争をつづけていかなければならないと、われわれの本性と理性が知っているのだと信じたい。
 だから、少年と少女の物語のなかに、ひとつの希望をみようとするのは、大人たちの無残さをみることではあっても、未来の絶望をみることではない。

 これを読んで、ウッソというキャラがいかにテーマと密接することが伺える同時に、ウッソというキャラはいかに重荷を背負ってるのも分かる。


 忙しいのでここまでしか書けなかったし、内容を語る時間もありません。全部書き終わったら、まとめて話したいと思います。というわけで、明日はファーストとZ、あるいはF91。


宇宙世紀語り――『逆襲のシャア』と『閃光のハサウェイ』の場合

2008/12/14 00:08|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:2
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 最近の富野ファンサイト界は、囚人022の避難所の囚人022さんの一連の豊かな読後感のおかげで、すっかりプチ「バイストン・ウェル」ブームに陥っていました。


 『ファウ・ファウ物語(リ・ストリー)』 これは富野由悠季の重要な小説です!

 富野由悠季が作中で描いた『Hotel California』

 富野由悠季の「物語」再考・・・『ファウ・ファウ物語』「あとがき」から


 これらの記事は、自分が今まで曖昧としか持ってなかった考えを、より具体的で強固な言葉にしてくれるだけでなく、富野ワールド以外の様々な視点や思考も入れて、本当に色々タメになりました。皆さんもぜひ一通り読んでください。

 これに触発されて、ここで富野のもう一つ得意なジャンル、つまり「ガンダム」シリーズについて見たいと思います。ガンダムと聞いて、顰蹙を買うかもしれませんが、ここで見るのは設定とか話とかのじゃなくて、もっと広い何か、つまりバイストンウェルシリーズみたいな、もっと人が抱えてる普遍性とか、環境との関わり合い方とかについて、少し語りたいと思います。
 が、これは簡単なことではありません。何せ富野由悠季という作家がほぼ半生をかけて作り上げた一大サーガなんですから、そこに含んでいる要素やものが膨大に渡っており、読み解くのは、決して生易しいことではない。
 そこで、神の視点から攻めたいと思います。神、つまり超越的な存在。ガンダムシリーズにはそんなのあったっけ?という人もいるかもしれませんが、それに似てるものが、一つあります。それは、ナレーションです。一番有名なのはもちろん最初の『ガンダム』の「人類が増えすぎた人口を宇宙に移民させるようになって、既に半世紀が過ぎていた……」ですが、ほかにも色々面白い「語り」があります。今日は小説版の『逆襲のシャア』と『閃光のハサウェイ』から、その序を紹介したいと思います。



人類の大半が宇宙(そら)に住んで、一世紀近くになろうとしていた。
しかし、人類は、宇宙に水々しい姿を浮かべる地球の存在ゆえに、
まだ、安逸をむさぼる他者の存在を許していた。
その中で、一度は、敵同士として戦い、つぎに、味方となって戦った二人の男がいた。
彼等は、一人の女性に取り込まれた男たちだった。
刻が経ち、二人の男は、それぞれに、己れの意思にかられて宇宙(そら)に住んだ。
そして、三度、見えようとしていたが、それは、運命が二人をそのように導いたからではない。
二人の意思が、そのように働いていたからである。
しかし、それは、予定されていたことでもなかった。
二人の意思に、変化する事態のなかで、
次々に新しい局面に対処してゆけるフレキシブル性があったからだ。
一点にこどわり、一点の意思に縛られていては、
窒息していしまうという恐れが、そのような習性を身につけさせたのだろう。
しかし、人は、一個の肉体しか持たない存在である。
その身体の深奥に集積された記憶は、感情というものとない交ぜになって、
現在のあるべき彼等を縛っていた。
だからこそ、変化に対しての憧憬を抱いて、彼等は、刺激し合おうと欲望するのである。
もし、彼等は、彼等以外の刺激し合える他者に出会っていれば、
二人は、このように対峙することはなかったはずだ。
しかし、不幸にして、彼等は、その周囲に、新たなニュータイプを見つけることは、
できなかった。

                              富野由悠季

 これは1988年2月20日出版される『機動戦士 逆襲のシャア ブルトーチカ・チルドレン』の序ですが、ポジティブとネガティブが同時に存在してる人の心性について、遺憾なく発揮している名文です。宇宙世紀というバックグラウンドについて、あまり言及されていませんが、このような雰囲気は、間違いなくある時期のガンダムシリーズとガンダムワールドに存在してることは、お忘れなく、覚えてください。




 刻(とき)が忘却をくれるとは、誰が書いた言葉だろうか?
 それを言い出した人は、楽天家であったか、真実、絶望の恐ろしさを知っていた人たちだろう。そのどちらであろうとも、言葉というものは、多重性と曖昧さをもって、真実を伝えることはない、といえる。
 しかし、言葉を使って語ろうとするこの物語は、いくつもの時代で語られた物語でありながらも、なんどでも語りつぐ必要があるとおもえる、
 人の世の悲しみ、人の世があるからこそ作り出してしまった哀切……。
 それが生まれる原因は、人の存在そのものであるという恐ろしいまでに、単純な構造をもって、我々にせまる。幸せでありたいと願いながら、幸せを取り逃がすかたちを作ってしまう人の間とは、悲しいものだ。
 それから解脱し、解放されるのはいつの日かと夢想するだけが、この物語りのなかに登場する人びとのできることであるとするならば、それは人の悲劇だ、と叫びたい衝動にかられる。
 刻は宇宙世紀(ユニバーサルセンチュリー)にいたり、人類は、幾度かの世代をかさねて、月軌道圏までを生活圏としている時代……。
 生活空間の拡大は、いったんは人類によって汚染された地球を、救済する道を拓いたかに信じられ、地球は再生しないまでも、その余命を伸びしつつある徴候をしめした。
 しかし、生活空間の拡大は、宇宙の広さに比べれば、劇的に矮小なものであるにもかかわらず、人類は、さらに卑小な種の内部にあって、階級闘争と種族闘争と地域闘争をやめてはいなかった。
 むしろ、生活空間を拡大しえたと錯覚した人類は、各層、各地域、各思想により部内対立を深めることに狂奔しているようにみえた。
 むろん、地球時代は、生活空間が限定されていたために、その末期には、人は、地球の危機的な逼塞状態をしって対立をやめ、内部分裂を共存するおだやかなフラストレーションの時代を体験していた。
 しかし、宇宙移民いご、人類は、圧殺されていた対立と闘争の本能を思い出したかのようだった。テリトリーの拡大が、新しい闘争の芽を内包していたと見るべきであろう。
 人は、宇宙に出て、その本能をよりのびやかに開化させたのかもしれない。
 歴史は、逆転したのである……。
 人は、かくも愚かななのだろうか?
 フラストレーションが頂点にたっすれば、対立相手を創造し、攻撃性を爆発させるテロリズムが発生するのは当然であるという倫理がある。
 それは不条理だと断定できるのだが、そんな言葉が、人類という種のフラストレーションを解消させることなどはない。
 言葉は、おおむね宇宙(そら)に拡散するのだから……

                              西暦一九八八年十一月五日
                                                著 者

 『逆シャア』のと比べて、極めてネガティブな序ですが、なんと富野の47歳の誕生日当日が書いたものである。こりゃ欝に入らないほうがおかしいですな。しかし、ここの見所は、やはり宇宙世紀の歴史そのものより、人類という生き物の性についての悲嘆のほうが遥かに強いっていうこと。これは富野ガンダムの一大特徴であり、ガンダムシリーズを貫くテーマでもある。これはガンダムがガンダムという所為と同時に、ガンダムが非凡な原因でもある。これがなくては、(出来はどうであれ、)みんな偽ガンダムと、はっきり言いたい。

 で、ナレーションと言われても、小説なら時々まるで富野本人が出てくるように突然XX論に入ることもあるのですが、ここではもっと全体的なものを語っているため、序だけに留まるつもりです。アニメ作品に関しては、また別の記事で。


富野喜幸VS安彦良和(下)

2008/12/12 23:09|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:0
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前回。今回はもちろんその続き。

安彦 日本人ってのは、ホンネに対する信仰が強すぎるのかもしれませんね。ホンネは、大変崇高で、哲学的なもので、シリアスだという考え方があるけど、向こうでいうホンネは、一番自分の好きな事とか、興味のある事とか、もっとフラットな事なんじゃないですか。
 話の成り行きで言わざるを得ないんだけど、そろそろ富野さんもゲリラの親分じゃいけないんじゃないかと(笑)。もう少し正直に作っていいよって客観情勢が出て来たわけだから、もうからめ手じゃなくて、割と真正面から応えるものづくりを、スタンバイして欲しいな、と思うんですが……。

富野 だけど、それは仕事に村する基本的な考え方の違いがあって、僕の場合はむしろ永遠にマイナーで、永遠にゲリラ屋の方が性に合っている部分があるし、そう簡単にはふっ切れないですよ。それと僕は、身体を動かしてないと何も出て来ないんです。まずキチンと出せるものがあれば、今カッコ良く身をひいてね、あとは好きなものだけ出していけるけど、やはりそういう状況はないと僕は思うし。これは『ガンダム』のテーマにもなったけど、僕の場合は生き残り論しか考えてませんから……安彦さんと違って、僕は直接的な表現方式ってのは持ってないから、与えられた場は最終的にそれを利用するという発想しか持ち得ないんです。

安彦 だけど、それはやっぱりアニメ・ディレクターという立場を卑屈に考えすぎてますよ(笑)。

富野 ただ、一般的にTVアニメのディレクターは、たえず仕事をやらなければ食っていけないから、仕事を好みで選ぶなんてとんでもない話で、とにかくやらなければいけないという状況が続いていたのは、経済的にも作り手の立場でも自転車操業になっていくTVアニメの現場というもののせいだったと思うんです。TVアニメの世界で、絵描きもの書き含めた上で、いわゆる”作家”という人たちが出て来なかったのは、それが集団作業だから、という事だけじゃないんです。仕事に対してのシビアーな、各スタッフの個性に対する突き詰めみたいなものが、ないからなんですね。

安彦 大変おこがましい言い方だけど、やはり皆さん処世術が下手だと思います。食わんがために仕事をやらなきぃけない、というのはわかるんだけど、ただそれで100%あきらめがつくってものでもないし、つけちゃいけないわけですよ。2歩前、3歩前の問題ばかりじゃなく、もう少し長い射程をもって考えたら、絶対ほかの処世の仕方って、あると思うんです。

富野 それは、安彦さんがいわゆる安彦キャラクターを持っているから言えるんですよ。実際にルーカスや実写の人たちは、つくり屋としては、生々としてマメでしょ。だから、アニメの演出家が絶対にまっとうにやっていけないかというと、そんな事はないと思うんですけど。

安彦 汚れ仕事を逃げておさまっている人と、すりへって疲れたなァっていう人と、極端なんですね。アニメできれいな仕事をしている人は、あくまできれいな仕事をしていると。やっぱり奇形的な世界って気がしますね。
 でも、よくスポンサーつき、局つきという事が言われるけど、小説家や劇画家、作曲家にしても、ニーズのない所で勝手にものを作ってるわけじゃないでしょ。だから、そういう所でアニメって、あまり特殊化したくはありませんね。

富野 僕だって、そう思います。たとえばスペシャルものの作品条件は、大変ゆるいわけです。だけど、過去のアニメスペシャルものの中で、名作といわれる作品の中に何があるか……本当にホンネ言っていいんだよ、好きに作りなさいと言われた時に、自分のスタイルなり方法なりを持ち合わせていないと駄目なんですよ。要するに”作家”の問題です。
 それより、ものを創るという事に関して言うと、僕はアニメだから、という考え方はしてませんし、所詮は作家性の問題ではないでしょうか。つまり、如何にものを創造(クリエイト)するか、という骨格論を、わかるかわからないかの問題でしかないと思いますね。究極的には、”奴はいったい何者なんだ”って突き詰けられた時に、”俺は俺だよ”って言えるか言えないかで、作家であることが決まると思います。やはりそういう意味での、オリジナル性を含めた自意識を持ちうるか持ちえないか、だけじゃないかよ……。

安彦 この前、ある人から仕事を持ちかけられたんですが、現場仕事はいいから、ホワイトカラーとして、ブレーンとして参加してくれないか、と言うんです。それ聞いて、いや、違うんだ、アニメを作ってる人間は、みんなブルーカラーなんだって答えたんです。全部が全部つくりごとの世界だから、自分も実作業者の一員として、物理的にもやって行かなかったら、最後のアガリまで責任持てないんです。だから、アニメの演出家不在だ、というので実写の監督を連れてきたところで、その人は実作業者になれない。これはその人の責任じゃないんですよ、わからないわけだから、やはり4年なり5年、あるいは10年ねりの経験をつまないと、原画の良し悪しや、撮出し……音の問題などわかってこないし、そういう事の絶対的なハンディを考えると、アニメのリーダー=作家は、アニメ屋の中からしか生まれないというのは、絶望的なくらいははっきり言えるんじゃないでしょうか。

富野 そうとしか言えないからなんですよね。
 これ以後のアニメを考えた場合、この10年ぐらいに発生しているビデオ文化を含めたトータルな映像文化における位置づけが、そろそろちょっと違ってきています。そして当時者としては、その辺まで見透かした上で、ものづくりをしなければいけないんです。日本のリミテッドアニメという世界中どこにもないジャンルが、将来どうなっていくかという先達者意識をもっと現場の人が持って、いろんな形での作り方をしていって欲しいですね。要求がなければフィルムなんか作れるわけないですから、もう局やスポンサーといったかくれミノを使うのは、やめていただきたい。本当の意味での”作家”が出なければならないんですよ。

安彦 それに関していうと、大変長い付き合いをしているアニメ好きの方が、イタリアを雑誌を訳して送ってくれたんです。それで面白かったのは、海外から見ると、日本のアニメ産業は、日産、トヨタじゃないけれど、かなり脅威になってるらしいです。日本には厖大な数のアニメ技術者がひしめいていて、圧倒的な生産基盤があるというのが、向こうの一般的な認識で、一体何をやらかすやら、と固唾を飲んでいるんですね。ところが、それに応えるような状況は、日本には何もないわけですよ。とめどもなく卑屈な精神しかない。よく我々は、アニメブームは現象だけで、浮かれちゃいけない、なんて言ってますが、もうちょっと大きなスケールで、自身をもって世の中変ってるんだなって認識を持って欲しいですね。

富野 ひょっとして世界の期待も日本に向けられているかもしれないから、これから10年、我々もまたがんばりましょうね(笑)、という所でおしまいにしましょうか。

―― どうも今日は、お忙しいところ有難うございました。御二人の今後の御活躍をファンの方々と共にお祈りしております。

          ~昭和55年7月8日高田馬場BⅠGBOXリーズルームにて収録~
          (司会/藤田純二、文責/キングレコード制作部)




富野喜幸VS安彦良和(上)

2008/12/11 22:57|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:0
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この対談は1980年9月5日発売する『交響詩ガンダム』のライナーに収録するものだが、
意外にも、これはなんと30年以来、唯一の富野と安彦の両方対談だそうです。
今回はその前半。


対談 (原作・総監督)富野喜幸 x (作画監督)安彦良和

―― 本日は「交響詩ガンダム」のジャケットのために、わざわざお集まりいただきましてありがとうございます。「ガンダム」については言いつくされ、書きつくされた感じがありますが、富野さんと安彦さんが対談されるのは、初めてだそうで、珍しいお話が聞けるのではないかと、期待しております。特に安彦さんは御病気のあと実作業からは離れていらっしゃった訳で、そのへんのところからお話を始めていただければと思いますが……。

富野 入院してから後も、『ガンダム』の最後の方は、何本か見たわけでしょう。当事者としてではなく、外から見ると、問題点が非常によく見えるから、まずその辺を聞かせてくれませんか。要するに、安彦さんの立場に立ったときに、どういう所が一番違うなって思いました?

安彦 やはる、ヒフ感覚ですね。普通TVアニメは、外見だけとりつくろって行けば、それで通ってしまうんです。しかし、『ガンダム』の場合は、各キャラクターからにじみ出してくるヒフ感覚が、非常に重要な位置をしめていたわけです。ところが、それがそうでなくなってくると、見てて大変つらいんですよ。
 たとえばララァというキャラクターは、描き始める時に、ニュータイプというアプローチが普通のキャラと違っていた事もあって、僕はあまり好きになれなかったんです。だけど大変大事なキャラクターだから、何とかして好きになる手がかりをつかもうと、富野さんに色々立ち入った事を聞いたし、逆に富野さんも色々コンテ上の操作をして、大丈夫だよ、うまくやって行けるよ、と言って下さった。一種のお見合いですね(笑)。それで何とか好きになれそうだって感じになって作画し始めたらダウンしたんですが、画面に出て来ているララァをお客さんとして見ていて、やっぱり好きいなれなかったんですよね。

富野 それは、僕もそうなんです。ララァってのは結果論として好きになれるキャラクターじゃない。だけど、最終的に絵で表されるはずの、あたたかさとかやさしさとかいうヒフ感覚が、もう少し出てくれれば、ララァってもうちょっと少女らしくなったと思うんです。その辺を伝えていくうえでの適確な絵というものを考えた時に、安彦さんが倒れた後は、演出者の場合上、泣くに泣けない気持ちでしたね。

安彦 もうひとつ41話で、キシリアとシャアが会話を交す長いカットがありましたね。ただイスに座っているだけで、セリフは起伏に乏しい、おまけにマスクかぶってて顔は見えない(笑)。普通、あんなカットが出されたら、リミテッドアニメでやってきたアニメータは芝居なんか出来やしないんです。だけど、あの後、最終回でシャアがキシリアを殺したりするのは何故かって事を考えた時には、コンテが不備であろうが、セリフが不都合であろうが、作画的にねじまげてでも何か含みを持たせた芝居をさせなければいけない、という事が暗黙の要求としてあるわけですよ。今までアニメータが、ヒフ感覚とかそういった芝居を要求された事がなかったから、とまどってしまうんですね。大変キツイ課題だったとは思いますが、それでも何とかしなければという考え方をしていかなけれな、いけないんじゃないでしょうか。

富野 そういう事を考えると、『ガンダム』という作品は、一つの時代の流れの中で、結果的に間違いなくラフスケッチでしかなかったんですよ。本来、作品というのは、少なくともその時点での完成品でなけれなならないわけで、それがそうでなかったというあたりが、視聴者に対して申し訳ないと思いますし、僕自身、一番つらい事なんです。だから、これを丸々一つやり直す時代が、もう一度来るぐらいにして行かないと、駄目だという気がしますね。
 もう一つ問題があって、いわゆる漫画映画の延長としてのアニメーションと、今の日本のリミテッドアニメという分野から出てきているアニメーションというのは、そろそろいろんな事が違ってきている、という仕分けを、いずれ現場の人間は絶対につけなければならない、という事なんです。

安彦 それに類する事を、この間「ガンダム記録全集3」に書きましたが、言わなきゃいけない事なんですよね。

富野 そうんあんです。今、手塚アニメに対する信仰が、対外的な所であるとすれば、明らかにこれは権威主義ですよ。そして、これは本来現場の人間が、一番避けなければならないものだと思うんです

 80年代のこれから10年間、作品のあり方が、そんな意味で曲がり角に来ているのは事実ですし、去年から今年にかけて様々な作品がありましたが、単純にこういう状況がこのまま後へ続くとは、思えません。支える現場が、自分の携わっている映像媒体を、まだまだ本気で考えているようには見えないんですよ。その辺は、休んででどう思いました?

安彦 はっきり言って、作り手の心情が問われるという事は、とにかく大変いい事だと思いますね。今までは、権威の上に立たないと、より以上のものが出来ないと、みんな卑屈にあきらめてたんです。実際は、心情あふれるものは、この技量でもできるわけで、そういう所に見方が設定される状況は、まさに待ち望んでいたものです。『ガンダム』なんかは、テクニックとしては無残なものだけど、心情の次元だけは、自分のタッチした部分に誇りを持てますね。それはシャレた言い方をさせていただければ、自分の生き様に関わってくる問題ですから。富野さんにしても僕にしてもね。

富野 ただ、これは作り手側の大変な反省なんだけれど、『ガンダム』みたいな作り方をすると、損だなァとは思いますけどね。本当はあまりホンネは出しちゃいけなくて、もう少しタテマエ論ですいすい行った方が、ああ楽だばって気がして(笑)。

安彦 でも、こういう同業者からもバカにされるロボットものというホンネと一番縁遠い所から、ゲリラ的にホンネを忍ばせた作り方をした作品が出て来たという事は、皮肉だし、面白いですね。これがもっと正面から、ホンネでものづくりしてごらん、みたいな持ちかけられ方をしたら、多分できないと思うんですよ。身構えて、ホンネ自体を見失ってしまう……。大半の作り手は、そうだと思うんです。

富野 これは日本人の体質かな、ともよく思うんですよ。僕は日本の映画界で、正面きって本気でやんなさいよ、と言われて作った作品で、うまく作れた作品ってのは、まずないと見てるんです。黒澤監督でさえ、そうでしょ。ところが、『スター・ウォーズ』の第2作はお金も充分あって、好きにやれると言いながら、ちゃんと娯楽作品に徹して作られていると言うあたりに、ジョージ・ルーカスという若い才能の持つ凄さがあると思います。日本人だったら、すぐコッポラみたいな行き方しちゃうでしょ。




ガンダム30周年――ガンダムで世界名作劇場

2008/12/11 00:10|未分類TRACKBACK:0COMMENT:2
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 なかなか発表しないので、自分で勝手に妄想します。

1.パン屋奮闘記で世界名作劇場:
 前半は流れ者の若者キースとアンパンマン娘ベルレーヌが惹かれ合う話で中心。後半の主軸はキースとベルレーヌの出稼ぎ話。

2.新米新聞記者奮闘記で世界名作劇場:
 前半は新聞記者志望の少女フラン・ドールが新聞社で四苦八苦する話(+先輩との恋)。後半は謎の山師の弟子との絡みが増える。

3.飛行機屋さん親子で世界名作劇場:
 主人公はラダラムという飛行機屋さんと、モンチッチ娘の娘のメシェー。基本的は天真爛漫の娘と親バカのパパの愉快な物語(後半はなぜか彼氏が出てきたりする)。

4.凸凹コンビで世界名作劇場
 ヤコップとブルーノというチンピラ未満の2人があちこちドタバタをやる話。パシリにされたり、ドンキーに噛まれたり、お仕置きにされたりしますが、それでも2人の理想を実現するため、明日も旅をする。

5.旅行僧の放浪旅で世界名作劇場:
 自分の記憶を失った僧侶コレン・ナンダーが旅をしながら自分の記憶を探す。白いヤツを見るとおかしくなる。

6.ブーーーーーンお嬢さんで世界名作劇場:
 なんか川で体を洗うと、妙な人が(ry。お姉さんに嫉妬したり、飛行機を乗ってたりする、大忙しいお嬢さんの物語。途中宇宙刑事ギャバンとかいう軍人さんも出てくるが、やっぱり気になるのは月に叫ぶあいつなのよね。

7.ダンスも好きけれどお嬢さんで世界名作劇場:
 イングレッサの御曹司との恋は叶うかな?使用人とか妹とかルジャーナのお嬢さんとかは出てくるけど、秘書の私なんか負けられないわ。

8.ポゥで世界名作劇場:
 罪を犯した兵士ポゥが、いい女になるための修行。いつのまにか山師になってたりすることもあるが、そこは気にしないのがポゥクォリティーだ。

9.御☆曹☆司の☆恋で世界名作劇場:
 ローラ。ローラ。ローラ。ローラ。ローラ。ローラ。ローラ。ローラ。


 そして、せっかく30周年なので、オムニバス形式で、作品ごとに監督を置く。そして、総監督はもちろん御大。プロジェクト名は「ビッグパンプロジェクト」で、シリーズ名は『∀Ⅱ』か『新訳∀』。
 で、機械人形は出てくるかといえば、MSとして出てきません。あくまでオモチャとして出てきます。しかし、日清のカップヌードルのFREEDOMみたいに、ただの背景の一部じゃありません。登場人物ごとに好きなMSを設定する。たとえばロランならホワイトドール、ソシエならカプル、フランならゴトラタンとか。これによって、MSもカバーする。キャラもメカも同時に楽しめる、一粒で二度おいしい。

 しかし、改めて見ると、∀は戦争の背景を除くと、本当に世界名作劇場してるよな。


台湾版ガンダムエース休刊決定

2008/12/10 01:31|未分類TRACKBACK:0COMMENT:0
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今月をもって台湾版ガンダムエースは12月号を最終号にして終わります。




























別にどうでもいいけどね、私にとってはな。
だって、『教えてください。富野です』は載ってくれなかったし。
それに、あまりこうして言いたくは無いけど、ここの翻訳のレベルが低い。
『リーンの翼』のオウカオーなんか、素直に漢字で「桜花王」と訳すればいいのに、
「欧卡」とかいう普通じゃモンスターの「オーガ」に使う訳わからん名前を使っちゃって。
こんないい加減な雑誌なので、別に潰しちゃっても驚かないよな。
(勘違いしては困るけど、仕事態度の問題を言っています)
そういえば、ニュータイプも3年近く、富野記事を載ってくれないよね…。


ふわふわなストーリー ――― ファウファウ物語

2008/12/09 22:10|未分類TRACKBACK:1COMMENT:4
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■富野由悠季が描きたいファンタジーはどういうものなのか。何故バイストン・ウェルという形で表してるのか

 ここ数年、あまり本格的にガンダム以外の富野小説を論じてる文章が見かけませんが、囚人022さんが、こんな面白い記事を書いてくれました。
『ファウ・ファウ物語(リ・ストリー)』 これは富野由悠季の重要な小説です!
 バイストンウェルもの全体を論じつつ、身体性、表現論やオタク論もカバーしてる、なかなか興味深い切り口です。非常にオススメな記事なので、皆さんもぜひ一読を。自分が書いた記事からの引用も多くてちょっと恥ずかしいのですが、他人のインスピレーションになれれば、こっちも嬉しいです。


 さて、僕はメタ論とポストモダン論に疎いのですが、囚人022さんが言ってたいくつかの部分については、少し自分の意見を述べます。囚人さんの仰るとおり、この『ファウファウ物語』もバイストンウェルの一員の原因は、じつをいうと、ファウファウというミ・フェラリオが存在してるんだからというより、ファンタジーでありながら、現実へ肉薄する物語だからっていうほうが適切かもしれません。これは何もファンタジー系だけでなく、SF系の富野作品でも見られる現象なので、ある意味もう富野作品の特徴ですから、いまさらビックリする必要もありません。
 しかし、もう一方は、まさに囚人さんの仰るとおり、このファンタジーはじつに妙なものでした。というか、一旦「富野作品」というカテゴリから放り出してると、その意味性はグンとわかり易くなります。

 富野由悠季の“バイストン・ウェルもの”の特徴は、ファンタジーでありながら、現実世界と背中合わせの異世界ということに尽きると思います。ファンタジーなのだから、もっと自由奔放でいいじゃないかという問いかけは当然あるでしょう。(中略)
 例えばエミコと出会ったばかりのファウ・ファウは、生まれたばかりなので裸なのですが、雑草の葉でいきなり怪我をします。半裸の少女がそのまま飛び回れば怪我だらけになるということをちゃんとやるのが富野由悠季なのです。(他にも、グダちんさんも書いておられましたが、ファウ・ファウの羽の付け根はよく見ると気持ち悪い、というのが妙に繰り返されるのも面白いところです。)

 身体性やオタク論については、囚人022さんに任せたので、ここで論じるつまりはありませんが、しかし、たとえば富野が『うる星やつら』を気になることや、Nishinomaruさんが囚人022さんのブログのコメント欄で指摘した当時の妖精ブームから見れば、まわりとはまったく無関係ではありませんね。ということは、ファンタジーは富野監督にとって、ひょっとしたらフィクションなんけれども、一般的なフィクション(アニメとかマンガとか小説)よりリアルに傾いてる富野世界をよりフィクション(嘘八百なせ界)に近づくするための舞台設計と言えるかもしれません。もちろん、現実にグリップする力が必要なため、基本は抑えている(富野監督にとって、その抑えるべき基本は人の気分)。
 では、よりフィクションして、何かを描きたいといえば、それは分かりません。前はそれらしいという記事を書いたが、実はこれはかなり論理的に切り取った一部なので、一体バイストン・ウェルは富野監督が何を書くために創作されたのか、感覚的にはひどく曖昧しか感じません。
 しかし、分からないけれども、とても重要だと感じます。

■ファウファウ物語あとがき

 解読力が低いせいもあるかもしれませんが、言葉にすると、非常に曖昧なものです。しかし、今でもこれのどこかに何かを感じています。果たして人のあらゆる要素を支えてるものは何なんのか、もしいつかこの文章のバイストンウェル語りを分かれば、ファウファウが教えてくれるかもしれません。


 それと、もう一段面白い部分があるのです。

 この作品のテーマはまさにこういうことで、「繰り返す物語」というのは、“バイストン・ウェルもの”全体にかかる言い方のような気がします。ですが、特にこの『ファウ・ファウ物語(リ・ストリー)』には、表現上の裏テーマとして「物語についての物語」、メタフィクションとでも言いたくなるような性質があるような気がします。
 “ファンタジー”であることの楽屋裏が、しばしば作中で読者向けにあからさま以上に語られてくることを私はそう思うのですが、これがあくまで子ども向けの体裁を保ったままで、一目でメタフィクションと分かるような小難しげな様相を示してはいないところが、むしろ秀逸だという気がします。

 なんとなく意味分かりますが、ここの「物語についての物語」という言い方はとっても面白い。メタかどうかは知らないけれど、僕から言えば、この『ファウファウ物語』はこの観点からみれば、むしろそのあからさま以上に語る部分でさえも、現実の一部です。それはフィクションとしての現実か、現実としての現実かどうかは知らないけれど、その口調はまさに「物語についての物語の物語り」(これぞ日本語の曖昧さ。大好きじゃ)。考えてみてください。小さい頃、ママが我々にお話をするとき、我々子供が一番よく訊いたのはなんだ?
 そう。「なんで?」「どうして?」です。で、屁理屈でワケ分からん冷めてる訳で説明してくれる親もいるでしょうが、おそらく我々が一番よく聞いた返答は、「変だとお思いでしょうが、あるのですから、仕方がありません」というもの。そう、この本で出てた「語り」と同じような返事。ここで、現実としての現実とフィクションとしての現実はまさに渾然一体となって、もう切り分けられません。そういう点から見れば、メタ構造はやはり無意識的に作り上げられていますね。
 あと、傷づくとか、現在の言ってる夢のような物語じゃまずありえないことですが、本来童話や神話といったものは、元々そんな生易しいものではありません。童話、おとぎ話に限れば、やはり生と死が纏わる話が非常に多かったのです。となると、ファウファウ物語は実に原型のグリム童話とかに似てるじゃないか。


 とかとか、以上の話みたいに纏まってない考えばっかりですが、気になるので、書いちゃいました。あと、このバイストンウェルファンタジーについては、突然富野監督がよく言ってる言葉を思い出しました。「想像力を想像する」という、非常に不思議な言葉です。


高橋良輔と富野由悠季

2008/12/08 21:00|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:4
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 ひびのたわごとの子犬さんの一週間に渡るオリジナルの肝 Vol.11シリーズが終わったので、少々自分の感想を述べます。子犬さん、ご苦労さまでしたー。

オリジナルの肝 Vol.11 富野&良輔対談(1/5):サンライズの思い出話
オリジナルの肝 Vol.11 富野&良輔対談(2/5):物語と身体性
オリジナルの肝 Vol.11 富野&良輔対談(3/5):映画と劇構成
オリジナルの肝 Vol.11 富野&良輔対談(4/5):さすらいのコンテマン時代に学んだ仕事論
オリジナルの肝 Vol.11富野&良輔対談(5/5):上井草の雷親父


 僕は高橋良輔監督のファンじゃありませんから、作品は『ボトムズ』、『ガサラキ』、『火の鳥』、『FLAG』、『いろはにほへと』しか見たことがありません。彼の発言を積極的に注目することもありません。でも、ここんとこ日経でのボトムズ連載とか、サンライズ30周年の高橋プレゼンテーターがやってたウェブ連載も、東映アニメーション研究所の講演も一応一通り読んでたから、ちょっとだけ話します。
 じつをいうと、僕はあまり高橋監督が好きじゃありません。作品が合わないというか、その自分の出し方にやや気になります(そのかわり、井上伸一郎氏がおっしゃった『文芸のセンス』は十分すぎるほど味わったけどね)。自分を出し切ってない作品作りは、制作スタイルからの違いも承知してるが、僕から見れば、ある意味逃げてるに見える。そのせいか、高橋作品と見えても、高橋という作家の作品には見えません。そのため、自分のアニメ歴からいえば、サトジュン程度に達していても(それでも十分すごいが)、富野や押井レベルには行ってない人という感じが強い。
 それと、発言の面から見れば、何故だか知らないけれど、いつも逃げてる発言しかしてないイメージがあります。もちろん僕のことですから、富野絡みの発言は一番注目するわけですが、やはりいつも激情家の富野に対して、適当に合わせているという、余裕というか子供をなだめるか玩ぶという大人の感じは、読んでで常に感じます。また、いろんなところで富野を褒めてるが、正直、2人の境遇を見れば、なんとなく慇懃無礼に聞こえないこともない。あくまで個人の感想ですが……。
 でも、これを読んで、ちょっと見直した。いや、見直すというより、なんだ、高橋監督は富野の前でも本音を語れるんだ、と、ちょっと意外だったっていうほうが適当かもしれません。正直、煽てに弱い富野の前で、いつもいい大人振る舞いをしてるから。ズバリいうとね、富野発言を見てるとき、いくつかの注意点に用心しなければいけないのと同じ、とにかく高橋監督が自分は富野より才能がないとか、自分が怠け者とかいうのを信じちゃいけない。たとえば客観的に見ればそうだとしても、自分語りには何の作用をしてないから。で、今まで自分語りがあまりない高橋監督にはちょっと合わないですが、この対談には、そういう嫌味が感じられない。語れば語るほど、高橋良輔という人を見つめられるから。まあ、人当たりがいいという最大の武器を持ってる高橋と、どう見ても厳しすぎる富野との対比なんだから、バカなオレが嫉妬するのも無理はないですね。
 てか、この人を見ると、時々富野監督がバカに見えます。「なぜこうもバカ正直なんだろう……」、と。これは高橋監督が東映アニメーション研究所の講演ですが、そのなかにはこんな一文があります。

 35歳辺りまでは、一定の条件さえ満たしていれば仕事に困ることはありません。その条件とは、手が早くて締め切りに遅れることがなく、製作会社やスポンサーの方針に対して不満を口にしないことです。

 「方針に対して不満を口にしないこと」……。どう見ても富野由悠季です。本当にありがとうございました。てか、こう言いたくはないけれど、どうやら富野はいろんな方面で、ついつい反面教師になった気がしないでもないですね……。いやな言い方ですが、商業面、ビジネス面でいえば、いまだに利用価値が残ってる富野監督が(少なく押井監督などより)、干されてるというか、出崎みたいな便利屋か、高橋みたいそんなに作品作りが上手いわけでもないのに、やたらとあちこちに呼ばれてる助っ人にならないのも、ひょっとしたら口が災いの元のせいなのかもしれませんと、バカなオレがついつい妄想してる。

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気力がない…

2008/12/07 23:14|未分類TRACKBACK:0COMMENT:0
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ここ数日ゲームばっかりやってるせいではないと思うが、
いま全然ブログを更新する気力がねえや。

思えば最近チェックしきれなかった富野情報が多いってこと。
手塚治虫アカデミーのトーク(なかなかレポを書いてくれる個人やニュースサイトが少ない)、
日めくりタイムトラベル(NHK-BS2のため録画ところが、見るのでさえ不可能)、
先日WOWOW千住明紹介番組の富野コメント(同じく日本の番組のため見れなかった)。
情報知ってるのに、中身が見れなかったのは正直ツライ。
まあ、全部追っかけってのは無理だと承知してるけど…。


で、さらに今月のアニメ雑誌のフラゲもやはり富野情報なし。
となると、ここんとこ一ヶ月の楽しみといえば、
1.「まちづくり上井草」のフリーマガジンVinci第2号「アニメの杜」特集号の富野インタ

「まちづくり上井草」ではフリーマガジンVinciの第2号「アニメの杜」特集号の編集を進めています。
この第2号のメイン記事になるのが「機動戦士ガンダム」富野由悠季監督へのインタビュー。
今日は地元にお住まいの富野監督にgenro & cafeにお越しいただき、そのインタビューを行いました。
辛口の「富野節」のはしばしには地元への心配りも。
延々2時間にわたるお話をどうまとめるかが編集部としては苦労のしどころです。

2.12月17日発売の新・大人のガンダムの富野インタ

新・大人のガンダム 12月17日発売
>★特別企画:富野監督インタビュー
>ガンダムの生みの親である富野監督が、ブルーレイなどの最新技術で改めて
>旧作を視聴することで、どのように感じるか…など、30周年を目前に、
>これまでの歩みや今後新たに挑戦したいことなどをインタビュー

3.アニマックスの新年特番

CSのアニメ専門チャンネル「アニマックス」を運営するアニマックスブロードキャスト・ジャパンは
2009年1月1日午前0時から午後9時30分にかけ、アニメ「機動戦士ガンダム」全43話を一挙に放送する。
同社によると、同アニメの全話一挙放送は史上初。

 番組では、総監督の富野由悠季(よしゆき)さんや、
キャラクターデザインの安彦良和さん、メカニックデザインの大河原邦男さんらのコメントも放送する。
また、番組のウェブサイト(http://www.animax.co.jp/gundam/)では「私とガンダム」のテーマでガンダムファンからの投稿を受け付け中。

>各話の冒頭では、富野由悠季総監督や豪華クリエイター・声優陣からのスペシャルコメントや
>ここでしか観られない貴重な映像を放送。また、「私とガンダム」企画で視聴者の皆さんから寄せられた
>「機動戦士ガンダム」にまつわるコメントやエピソードなども番組内でどんどん紹介していきます。

とかなどなど、ゴージャスなスケジュールといえばゴージャスだが、
なんだかアニマックスの企画を初め、なんだか距離感を感じさせるものが多くて、
最近の感触がいまいちcomfortableじゃないな。


20081208追記:昨日書き忘れましたが、あとこれ。
4.オトナファミ2009年February

225 :通常の名無しさんの3倍:2008/12/05(金) 11:05:55 ID:???
12月20日発売のオトナファミに富野さんの何らかの記事が載るっぽいけど詳細不明
広告にはただ「富野由悠季」としか書かれていないのでインタビューなのかその他の特集なのか

最近のチェックは忙しくなるぞ。


まあ、最近の生活ペースは乱れてるのは、自分も知ってることだが。
『映像の原則』は相変わらず読んでるけど、タメになるなーこの本。
文句ばっかりように見えるけど、その一つ一つの項目は細かく噛んでると味が出る。
まある意味、日本語スラスラ読める人たちにとって、ちょっと無理な読み方かもしれないが、
アニメ後進国のわが国にとって、まさに貴重な一冊だといえますね。


富野由悠季が描きたいファンタジーはどういうものなのか。何故バイストン・ウェルという形で表してるのか

2008/12/06 23:43|富野由悠季関連TRACKBACK:2COMMENT:4
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 まとまった話じゃないですが、一応書く。

 きっかけは子犬さんがお書きになったテラビシアにかける橋のレビューです。

ファンタジーってのは辛い現実から逃れるための手段であることは間違いないんだけど、
そこから現実を生きる力を得ようとせず、閉じこもって現実から逃げたままでは本末転倒。
そういったことに気がつかせてくれる。

そこでの体験(ぶっちゃけ「ごっこ遊び」の妄想なのだが)を現実世界にチャレンジする勇気に変えていく。
そういったファンタジーの持つ本来の力を感じさせられた。
富野には申し訳ないが、そういう点はバイストン・ウェルの物語よりも、
構成的にも上手くできていたと思う。

 個人はじつをいうと、あまりこの話が「ファンタジー」だと思わないのですが、このファンタジーの定義に大いに賛同しています。
 で、そこから浮かびあがる疑問があります。そもそも富野監督が考えっているファンタジーはナンなんだろう。何故バイストン・ウェルという形として世に出てるんだろう。

 いろいろファンタジーの定義を調べたいが、面倒くさいからやめた。が、富野監督にとって、自分の理想的なファンタジーは、おそらく一般的なエンターテイメントみたいなファンタジーじゃなかった。
 2005年12月のアニメージュ。

――本作は現代日本の問題意識が反映された硬派な内容ですね。

湯川(淳) 当初は王道のファンタジー、『ハリー・ポッター』とか『ロード・オブ・ザ・リング』のような方向を目指す、とかいってらしたのに……(笑)。

 ……という話ですが、そのなかの『ハリー・ポッター』は間違いなく現代商業ベースに走った物語だから、その内容は面白いけれども、実際あまり深いテーマとか思想を持っていない。単純に児童文学のエンターテイメントとして優秀なもの。で、『指輪』みたいなエピック・ファンタジーとかハイ・ファンタジーとか定義なんてどうでもいいけど、『HP』と比べて明らかにスケールも語る何かも上だったため、より大人の閲読が耐える物語となった。でも、まったくの異世界で異種の者が出てきて、正義と邪悪が魔法と剣で戦う物語なんかは、今でも王道だけども、離れすぎてる感じがないこともない。

 バイストン・ウェルをみると、いかにそれらみたいな正統から離れてるのに苦心するのが伺える(時間順から見れば明らかにおかしい記述だが)。
 1.魔法がない。剣と弓がメインの攻撃武器。火薬とか麻薬とか火器とか強獣とかオーラバトラーが出てるが、基本的に摩訶不思議な力が出てこない。代りにオーラ力(ちから!)があるが。
 2.神がない。宗教もない。世界や種族に階層や上下の関係はあるらしいが、基本的みんなが信じてるのはオーラ力(ちから!)。
 3.種族の分別はあるが、じっさいガロウ・ランとコモン人とチ・フェラリオだったらあまり差がない。やることは基本的同じ(セッ○ス)。
 4.日本人が出てくる。ショウも迫水もエミコもジョクもクリスも鈴木くんも日本人。ハーフは結構あるが、みんな日本人。

 ここまで書いて疲れたので、できるだけ短く書く。4はおそらく一番重要なもので、富野監督がバイストンウェルにおける一番描きたいものでもある。つまりバイストンウェル物語を通じて、日本人の心性を見つめるという、極めて壮大的である同時に、極めて限定的な理想でもある。
 心性を見つめるという、もちろん非常に壮大的なものですが、実際、ある時期まで、バイストンウェルという概念はニュータイプ、イデに続く人の意識というかあらゆる根源を考えるテーマとして、厳然に富野のなかには存在していた。現在はどう思うのは知らないが、『それがVガンダムだ!』のなかでは、

あの時点(注:『F91』の時)でいえば、一応サイボーグものに触っておくというのは、SFというジャンル論として面白いだろうという考えは、僕の中には明確にありました。僕は決して本格的にSF好きではなかったんですが、ミーハーなSF好きとしては、こういうものは面白いんじゃないかなという気持ちは持っていました。そういうことが、自分にとっても芸を広げることになるんじゃないかなとも思っていました。そうすると、『ガンダム』があって、サイボーグものがあって、バイストン・ウェルものがあて、という展開になるのです。

と、少なく2004年までは、依然にバイストンウェルを書くあるべきジャンルだと考えていた様子。NTとかイデはどっちかいうとSF調で語られているが、バイストン・ウェルはむしろ現代より後退してる閉鎖の世界に、新しい変化、つまり変革が入って、世界が変わりつつある形で語られている(その点ファウファウは例外だが)。
 では、何故限定なのかというと、富野監督にしては全人類ではなく、「日本人」に絞った話。入り口として日本人は有効なのかもしれませんが、ただの入口として作用するならば、最新のBW物語である『リーンの翼』は、明らか日本人向けの話になる必要はどこにもないです。じゃあ、何故日本人だからというと、それは富野監督が日本人だからだけでなく、日本人が明らかに世界中でも堕落している人ですから(ごめんなさい。富野監督のなかでは、とのことです)、という日本人を叩きなおしてやるみたいな意図も入っているじゃないかな。実際、小説であろうとアニメであろうと、再三現代人と日本人の甘さや限界を衝撃する事態が起こしてるあたりから見れば、これも間違いないと思う。
 最後、これは物語の構造論ですが、かならず二つの世界の行き来が見られる。どうしてかというより、どういう意味があるのかというと、一番先に考えられるのはジョセフ・キャンベルの神話論ですね。『千の顔をもつ英雄』か『神話の力』か忘れたけど、その旅程については詳しく説明してありますが、方便のため、松岡正剛氏の千夜千冊から引用

 キャンベルの功績はそのくらいにして、本書のテーマである英雄についてであるが、ルーカスが『スター・ウォーズ』に適用した世界の英雄伝説に共通している構造というのは、単純化すると次のような3段階になる。
 (1)「セパレーション」(分離・旅立ち)→(2)「イニシエーション」(通過儀礼)→(3)「リターン」(帰還)。

 英雄はまず、(1)日常世界から危険を冒してまでも、人為の遠く及ばぬ超自然的な領域に出掛けるのである。ついで(2)その出掛けた領域で超人的な力に遭遇し、あれこれの変転はあるものの、最後は決定的な勝利を収める。そして(3)英雄はかれに従う者たちに恩恵を授ける力をえて、この不思議な冒険から帰還する。

 これにフォローするのは、まさに『スター・ウォーズ』という安手のスペースオペラが成功するわけですが、物語論としては極めて単純なもので、バイストン・ウェル物語は、さらにその一歩を進んで、世界構造からこれの再現を企んでいるのが見えます。つまり、安手の王道成長物語に落ちないためにも、表現を高めてもっと深層なものを描くためにも、どうしでもバイストン・ウェルの舞台自体をそう設定しないわけにはいかない。松岡氏はさらにキャンベルの論をこういいましたが、

 キャンベルはまた、神の造形はあらゆる民族に共通する「欲求」にもとづいているという原理を提示し、どんな神の造形も解読可能であることを示した。さらには「神話の力」を現代に通じる言葉であらわした。すなわち、神話には集約すれば4つの力があって、それは、①存在の神秘を畏怖に高める力(これはルドルフ・オットーが「ヌミノーゼ」とよんだものに等しい)、②宇宙像によって知のしくみをまとめる力、③社会の秩序を支持し、共同体の個人を連動させる力、④人間の精神的豊かさに背景を与える力、というものである。

これは明らかにスターウォーズが詰め込んだモノなんかより遥かに深いモノで、バイストン・ウェル物語が意欲的に取り込んでる部分も結構見られるので、これはつまり富野がしたかったのは「神話の再現」だったからではなかろうか。
 だから、富野にとってファンタジーは、ただの別世界の原理に支配される物語ではなく、人類全体の心性に踏まれるものでなければいけない物語。そういう意味から見れば、NT、イデが先にあったため、結果的に尾を引く「壮大でなければならない物語」になったかもしれませんが、少なくともアイデアとしては、大変面白いものだと思ってます。






 と、ここまで書くと、前の文章がまったく意味がないと気付きましたが、せっかくだから消したくないから、このまま置いとく。結論は実際下の3点しかないのにね。

1:(BW世界と人に通じて)「変化」の「変革」と「変質」の両面性を描く。
2:(主人公に通じて)汚染された現代人の心性を洗いなおして、単純に生きるための気力と心構えを描く。
3:(物語全体の流れに通じて)神話の構造を描く。



あの人の話を聞きたい いくつかのこぼれ話 高松信司、出渕裕、若本規夫

2008/12/04 22:16|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:0
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 『アニメージュ』の小黒祐一郎氏の『あの人の話を聞きたい』から富野監督に関する話を纏めました。チェック範囲は一応2005年3月から2008年10月で、ガンダムファンとかイデオンファンとかザンボット3ファンとかいう人はいっぱいありましたが、本を買ったわけじゃないから、さすがそこまでカバーできないので割愛。


 これは2008年7月号の出渕裕。

―― 世界観を意識してデザインするようになったのは『戦闘メカ ザブングル』や『聖戦士ダンバイン』の頃?

出渕 そうですね。あの当時、メカ物でそういう事を志向していたのは富野(由悠季)さんぐらいしかいなかったんですよ。富野さんは『(機動戦士)ガンダム』の後に『(伝説巨神)イデオン』をやるじゃないですか。その後に『ザブングル』『ダンバイン』を作る。作品ごとに世界を変えて、作品のフォーマットを変えようとしたのは、富野さんぐらいだったんですよ。

―― 変な聞き方になりますけど、『ザブングル』や『ダンバイン』に参加できて楽しかったんですか?

出渕 楽しかった。最初は、世界観を作るような事はできてないけど、それまでと違ったアプローチでロボットをデザインできたのが楽しかった。それから、俺は『(海の)トリトン』が好きだったからね。そういえば富野さんが『ガンダム』を作っている時に、俺は『ダルタニアス』をやっていたんですよ。同じスタジオの別の階で『ガンダム』を作っていてね。「あっち、やりてー」と思った事もあった(笑)。だから『ザブングル』で接点が持てたのは嬉しかったし、一緒にやって「この人は、今までの人達とはやはり違うな」と感じましたね。

 この人、いつも思うのですが、なんか親友の氷川とまたクリエーターに対する別ベクトルなコンプレックスを持ってない?まあ、ある意味捻くれないとトミノコじゃないですから別にいいですけど。


それから、2007年2月号の若本規夫。

―― 『ダンバイン』が印象的だったのはなぜですか。

若本 画が綺麗だったね。生々しい戦いではなく、夢のような世界で戦ってるみたいなね。

―― 若本さんはナレーターをおやりでしたが、ナレーションが重要視された作品でもありましたね。

若本 そうそう。ナレーションで、有名なくだりがあるんですよ。「バイストンウェルの……」だったかな。今でも他の仕事で「あの感じで読んでください」と言われる事があるよ。

あ、あれ?なんか富野と関係ないけどまあいいや。


最後は2007年6月、我らのガンダムW後半、Xの高松信司。

―― 最初のお仕事が『装甲騎兵ボトムズ』の制作進行ですね。制作として数本のシリーズに関わった後、『機動戦士Zガンダム』で設定制作に?

高松 『Zガンダム』は大変な仕事でした(笑)。途中からの参加で、私が入った頃には、もう1話の作打ちをやっていました。その段階で膨大な設定があって、しかも、前の『(機動戦士)ガンダム』から引き継いだ設定もいっぱいあって。とにかく『ガンダム』をずーっとビデオで観て、記録全集とか読んで勉強して。何か大変って富野(由悠季)さんの相手が一番大変だったんですけど(笑)。みんなに聞くと、一番、富野さんがエキセントリックな時代だったみたいで。『(機動戦士)Vガンダム』の頃になると、スタジオの制作とかが気軽に富野さんに話しかけているんですが、私たちの頃はそんな事はできなかった。富野さんがスタジオにくると、スタジオがピリピリして。

―― 怖かったんですか。

高松 いつも怒ってましたからね。「なんで怒ってんだろう」って思ってたけど、自分が監督をやるようになってから、富野さんが怒っていた理由がなんとなく分かりましたが(笑)。

―― 設定制作の仕事って、文芸面の作業と、デザインの管理があると思うんですけど、デザインのおっかけもしてたんですか。

高松 そうですね。それまで設定制作が2人いて、文芸とデザインを分業している場合が多かったんですけど、なぜか分からないんですけど『Zガンダム』は、私1人だったんですよ。だからライターのセティングから、デザインの発注まで全部やってたんで、フル回転でしたよね。アニメ誌もいっぱい取材にきて、私が思いつきで言ったような事まで、オフィシャルの設定になっていたりして、ちょっと冷や汗ものなんですけど(苦笑)。

―― 『Z』では、妻方仁の名前で演出もやられていますよね。

高松 急に1本だけ演出をやる事になったんですが、設定制作が本業だったので、2つの役職で名前が出てるのもどうかなと思って、匿名にしたんです。オフィシャルには『(機動戦士ガンダム)ZZ』のプルの出てくる話が、私のデビュー作という事になっています。そこから、演出としてローテーションに入れてもらった感じですね。結局、『Z』や『ZZ』をやっている間は、富野さんに怒られっぱなしでした。

 ここらへんのスタジオからの「恐怖!トミノを見た」みたいな直接観察は、『ブレンパワード』のときの連中や、2003年のサンライズ30周年ウェブ連載の『アトムの遺伝子、ガンダムの夢』(高橋良輔監督が聞き手を勤めてたアレ)の若手の感想を比べて見ると、富野監督のスタジオ経営の変わり姿が見られます。あと『裏トミノブログ』の河口Pも『Vガンダム』の時の感想を残っているし、『ガンダム』、『イデオン』、『ザブングル』の時は、記録全集のなかにいっぱい感想が残っていたから、ひょっとしたらこれでまた別の記事を書けるかも。


富野由悠季論は自分にとっていったい何なんの?

2008/12/03 19:45|未分類TRACKBACK:1COMMENT:6
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 上原マリ男さんのブログでは、この一文があります。

富野作品と富野本人の評価を分離することが目的

 何時見ても、なるほどなー、と感心してるモットーなんですね。

 僕が言うまでもなく、富野由悠季監督の大ファンですが(自分が自分を信者と呼ぶのはちょっと抵抗感がありますね)、できればできるだけにファン目線で富野作品を見たくないなー、というのが最近の考えです。どうしてかというと、それは、やはりバイアスがあると、他人に説得できなくなるでしょう。前はできの悪い別の信者を罵ったこともありましたが、自分も、こんな盲信者になりたくはありません。はっきり言って、富野由悠季という日本のアニメーションの演出家は絶対世間が大絶賛してやまない宮崎駿監督とか押井守監督とか、あるいはアニメ素人向けの出崎統監督とか杉井ギザブロー監督(ほかの凄腕監督もあるでしょうけど、ここで省略させて頂きます)と比肩できる演出家なんだから、正面きって彼の作品演出や作品分析をしてもいいと思いますし、ロボットアニメというルックスを取ったからって、別に自動的にジブリ作品とか世界名作劇場よりワンランク落ちることもないから、富野由悠季という人格者を見つめる以外には、純粋な作品論も、したい、ですね。
 それと、はっきりと言葉としてその好きな原因を語るのも重要だと思います。何故富野由悠季監督が好きなのか?何故富野作品が好きなのか?数知れぬ魅力が秘めているのは事実ですし、ほかの作品では見られないものが一杯ありますが、それらも、言葉にすることが、できます。他人に伝えます。このまま、自分の心のなかの宝にしても、大した意味がないですから。だから、いつか「富野由悠季の演出はこうだ。だから富野作品が好きだ」とか、「富野由悠季が使ってる手法はああだ。だから富野監督が好きだ」と人に伝いたいですね。(あと、これも玖足手帖のグダちんさんが仰ってる「思考プログラムは富野語をマクロっぽく組み合わせて処理速度と情報圧縮率を上げてる感じ」通り、これも一つの訓練になれますね)。

 それと、原因はもう一つあります。富野監督は頑固にファンやマニアを拒絶するのは皆の知ったとおりですが、自分も一度このような発言に困ってた時期があります。「ファンで何故いけないだろうか……好きになったからファンだというのに、何故こうもファンと一般人を分別するだろうか……」という。でも、今となって分かるような気がします。ファンと一般人の違いのありところは、評価の仕方にあります。
 これは映像の原則のなかの一段ですが:

 マニアやオタクといった観客は、好きなものには底知れない優しさをもっていますが、ふつうの観客は正直で怖い人たちですから、平気で真実をいい、欠陥をついてきます。

 僕もできるだけ正直者になりたい。だから、いま僕の目標というか、このブログの方向性は「一般人の目線とファンの熱愛を同時に持ってる」としていきたいと思ってます。なので、前回なんかも手法だけに絞って語ってたが、昔はわからなかった部分も、今じゃなんとなく分かるような気がします。
 『イデオン』の最後。富野によると、あれはまったく作家性なんて無いもので、すべてはヤケクソで力技で風呂敷を畳むようなものだけ。昔これを読んだとき、「何もそこまで自分を卑下しなくたって……」と思ってたが、今じゃ、なんとなくそれが分かるような気がします。あれをやるのに、実は作家性なんていりませんよねって(もちろん、多少要りますけど)。
 だからといって、アレが他の誰かを連れていけばできるのかというと、絶対にできない。あの人間の描き方、あのドラマの詰め方、もう富野しかできないし、客観的にアニメ全体から見ても、非常に凄い作品といえます。
 だから、もっと富野監督本人、富野作品、富野の方法論と富野の演出を見つめるために、なお作品と本人の評価を分離しなければいけない。そのための分離です。
 もちろん、そのためには囚人022の避難所の囚人022さんのような時代の目が必要ですし(世代論はもちろん、単なるレビューもその差が出てきますゆえ、本当に大変収穫あります)、ひびのたわごとの子犬さんほど資料を読む必要がありますから(今さら言う必要もなかろう、札付きの富野信者である)、まだまだ精進せねばいけないですね。

 で、理想的でいえば、もちろんネット上ではすでにいっぱい素敵な富野作品とかガンダム論はありましたけれども、最近自分のお気に入りというか、個人にとっての穴場はここです。
HIGHLAND VIEW 【ハイランドビュー】
 素晴らしすぎる!ここの管理人のTOMMYさんの富野論は、どれもものすごく面白くて、最終決定版みたいなものばっかりで、読んでるだけでも幸せになる気分です。これこそ僕が書きたいもの!自分もできるだけ無駄な記事を書くのを避けたいですが、この方はまさにそれを体現している……!僕はこの人に勝ちたい……!(いや、勝てるわけないけど)だから、しばらくはここを参考して記事を書くかもしれないのです。長文を書く気力も一つの作品を論じる胆力もありませんから、通論でお茶を濁してる僕ですが、一応頑張りますよー。

▽続きを読む▽

ガンダムエース2009年1月号入手

2008/12/02 22:46|未分類TRACKBACK:0COMMENT:0
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1週間のディレイがあったのですが、僕もつい1月号を手に入れました。
で、さっそく1月遅れの『トミノの出来方』を探してみました。
お、「その2」になってる。なんで?と思ったら、
「前回は生誕から大学卒業までの子供とは思えない、恐るべき創造性を紹介し、
業界内外から大反響があった。」という。
なるほど、なんか嬉しいな。ガンダム村(というか、ダムエーの編集)の褒め言葉でも。
虫プロの就職から、さすらいのコンテマン時期を飛ばしてトリトンに入って、
またライディーンをスルーして、いきなりザンボット、ダイターンに入るのは
いかがなものだと思いますが、
まさかファーストまで、つまり次回で終わるじゃないだろうな。
こんな見ごたえある企画は今のダムエーには他が無いもん。
月4ページじゃなくて、10ページ20ページでもいいよ。
資料が多いほど良いし、文字起しが間に合わないのならボランティアを探せばいい。
というのは、欲張りすぎ?でも4ページは確かに足りないよね。

それにしても、よかったな。
話す内容自体は特に新しいことじゃないだが、
今の時点でもう一度当時を振り返るのが見て、本当に嬉しかった。
こんな単純でシンプルに青年時代の歩いた軌跡と想いを述べるのは、
たぶんこれははじめてなんじゃないのかなとさえ思っている。
普通に若い人に励ましてくれる話にもなってくれるし、
このような貴重な人がいるからこそのガンダムだなと、改めて確認しました。

あと、対談のほうですが、なんだかいつもと違って、
イマイチかみ合わないというか、感触がないというか、弾んでないという感じはあります。
やはり富野にとって科学屋はやや苦手な人間だったからかな?
文科人間や技術屋なら大体すんなりと進めるよな。


『映像の原則』から見る富野の演出と、『ポニョ』語りから見る富野の手法

2008/12/02 01:15|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:0
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今日は『映像の原則』を読んでいる途中、突然この部分に惹かれた。

 演技というのは、記号にちかい性質もあるのですが、もともとは人間の感情を表現する技術です。
 演出の仕事とは、ひとつひとつの役柄(キャラクター=人物)を創造し、その感情の流れを的確以上に表現できる手法をそれぞれの役者にあてはめていき、そのうえで、いくつもの役柄をドラマ・ラインにそって、複合的に構成して、物語の語り口の方向性をさだめていくことだといえます。
 すべからくの流れを見極める仕事となります。
 役者は、それを個々の問題として意識して、劇中に身を投じます。そこには静止感覚は皆無です。
 しかも、その情を人格としてとらえて表現させようとすれば、千差万別の感情のラインを想定しなければなりませんから、役づくりにはトメ(静止)はあり得ません。

 これがまさに富野作品の一番の特色ではないか。
 要は演技の繋ぎ方をどうするべきかのことである。
 で、富野が探し出したのは、キャラの感情は常に動いてるものだから、一瞬とも止まることなんてありえないということ。

 そりゃ、アニメだから、映像作品だから、何かを表現したいとき、表現そのものはやはりどうしても「画面」と「動き」に経由しなければならない。
 だからといって、「画面に出てこない」というのは、何も「動いてない」を意味することではない。
 一つの世界を想定した時、画面以外でも、キャラが常に動いてるんだから、それらの描写をするときは、画面のなかのキャラの動きだけでなく、画面外の「キャラの動き」も一緒に意識しなければならない。
 だから、一つのキャラが持っている情は、決して画面で示したものだけじゃなく、画面以外に厳然に存在する劇世界のなかで養ったものもちゃんと含んでいる。こうしても見れば、富野作品と一般作品の差異が明確に見える。

 一般作品の演技の繋ぎというのは、「(キャラの)前回の演技」に繋がっているもの。つまり、その情緒は前回の登場した時の演技の情の終わりに繋ぐと想定している。
 それに対して、富野作品の演技の繋ぎは、「前回の登場も舞台の後(画面の外)でコソコソやっていること考えていることも含めて、今の時点で(キャラが)やろうとしていることの演技」という一見前回の登場とまったく繋がらない描写であること。でも、上で言ったとおり、キャラそのものは物語の語り口を待っているギミックじゃなく、画面の外でも動きまくるものだから、常に変化しているのも当然のこと。
 これが富野作品のキャラが時々「豹変」と評される所為。
 でも、情がちゃんと繋がっているから、描写の飛ばし方も、芝居と芝居の間の見えないところ(画面の外)の見せ方も、情のドラマ・ラインにのっとる限り、絶対消化できるものになれる。
 これこそ『映像の原則』で言ってた「情の流れを見極める仕事」。
 この飛び演技があるから、富野作品はひと味違う。

 だから、富野作品が「生々しい」と言われるのも、おそらくそこから出てるものと言えます。シャアとララァがオ○ンコをしてるところは画面ではどこにでも出てこなかったのに、観客が2人を見てるだけで「あ、こいつらがどこかでイチャイチャしてたに違いない」と感じられるのもそのため(もちろん、富野の男女の描き方はまた別の問題)。
 演技の繋がりというのは、「画面に出てる演技」を繋ぐものではなく、「情」を繋ぐものである。傍証……にはならないかもしれませんけど、『新訳Z』を作る前の富野はテレビZについて、こう言いました。

十年もしないうちにあの作品のラストシーンは、ファが車椅子に乗ったカミーユを押しながら、『あれがお月様よ。カミーユ、わかるでしょう?』『・・・月・・・月か・・・』という会話をするシーンだったという妄想が芽生えて、その妄想のラストシーンは、ぼくのなかで現実的な記憶として定着して、十年ちかい時間が堆積していった。

これはまさに富野のなかでは、シーンでキャラを掴むのではなく、情の推移でキャラを掴むことではないか。出来の悪い作品ほど、こういうRPG式の「魔王は何もせず、最初から最後まで勇者の成長(あるいは自分をやっつけるの)を待っている」状態が出てくる。




 ついでに、「アニメ昼話 ポニョとハヤオを語りたおす! in ロフトプラスワン」というものを思い出した。
 冒険野郎マクガイヤー@はてなさんはこれについて、非常に素晴らしいレポートを載せていましたが、これはそのレポートです↓。

アニメ昼話 ポニョとハヤオを語りたおす! in ロフトプラスワン その1
アニメ昼話 ポニョとハヤオを語りたおす! in ロフトプラスワン その2

 その2には、富野監督に言及した部分と、あと二つ気になる部分がありますので、ついでにここで書きます。

 一つは「宮崎アニメには「幸せ光線」とでも呼ぶべきものがある。」というくだり。個人としては、今のジブリ映画では、二つのフィルターがあります。ひとつは「ジブリフィルター」。つまりジブリならなんでもいいというブランド志向みたいなもの。ふたつはここで言ってた「幸せフィルター」という、宮崎駿の目を通して見るフィルターともいうべきもの。これは場合によっていいものにも悪いものにもなりうる。
 宮崎監督の劇作法はいまさら論ずるつもりはないが、要は感情ラインを物語レベルでコントロールしないで、作画レベルでコントロールしようとしているまでのこと。合理性とは置いといて、ほかの(富野由悠季を含む)大勢の監督は「この物語の流れはこうだから、こうだよね」とすれば、宮崎は「こういう動きの流れがあるから、こうだよね」っていうこと。でも、かつては大変な掟破りで必要な革命かもしれませんが、今となってもう宮崎ハヤオのルーティンワークにしか見えない。だから、評価できるかできないかは知らないけど、少なくここ数年の宮崎アニメのマンネリといえる。

 そのほか、気になるのはここ:

魚形態のポニョなんだけど、皆が金魚だというから金魚だということで理解していたのに、トキ婆さんが「ゲッ、人面魚!」などと言う。それは言っちゃいけないことなんじゃ(笑)?リアリティのレベルが二つある。
これは富野由悠季がよくやる、「∀ガンダム」における「ヒゲガンダム」発言に代表されるような、予想される観客のツッコミをあらかじめ入れ込んでおいて受け入れやすくさせるやり方とも違う。

 ここはおそらく氷川あたりが言ってたことだが、はっきり言って、富野監督を舐めないで頂きたいと言いたい。
 なるほど、リアリティが二つある『ポニョ』という視点は、劇中では感じないこともないです。でも、これはまさに■ときめく1句(3)で私が書いた「視線の曖昧さ」だということ。その曖昧さはどこから来たのかというと、やはり宮崎ハヤオの恣意的にやってる作りからのものほかない。劇の主線のリアリティ、つまりこの映画の見せ方は厳然存在している。それは人面魚を見ても驚かないというリアリティ。これがすべて。別にリアリティがいると言われても、結局そのもう一つのリアリティはまったく劇中ではまったく作用していなかった(もっといやらしく言うと、そのリアリティの敗北)。だから、そこらへんの言葉だけに引っかかって、リアリティ二つあると言ってるような人は、いかがなものだと思います。
 そして、『ターンエー』については、「予想される観客のツッコミをあらかじめ入れ込んでおいて受け入れやすくさせるやり方」はあくまで極めて表面的なことしか語ってない。
 リアリティというご大層なものじゃなくて、すべからく手法の問題だけです。それでも、あえてリアリティという言葉を使うと、それはもうたった一つのリアリティしかいないでしょう。それは劇世界基準のリアリティ。
 確かに、富野作品には、どう観客の現実のリアリティと劇世界のリアリティの間を埋るような悩みが一杯あります。そして、観客にすんなりとそのリアリティを受け入れてさせるために、こういう「転移」の手法を用いるのです。
 「ガンダムにおヒゲがありますか?ありません!」「まあ、大きいのにブサイク!」「ちょっと違うじゃない?古っぽいもの」(さらに、「なるほど、シャイニング(ry」みたいな遊び)に代表するような、明らかに観客の目を意識するものを、劇中の語りによって消化される同時に、観客の目をこっちに引き寄せる。しかも独善に陥ることはなく、両面から語る。これは『イデオン』第1話のべスとシェリルの会話でも見られる。
 覚えていますか?シェリルがあのマッカマッカな車?3両を遺跡と言っちゃう時、観客の大半はおそらくべスと同じような気持ちになるはず。「あれが遺跡?ぷぷぷ」みたいな。しかし、シェリルのその話を聞いて、べスはどういう反応をしたのか?大笑い。しかも超がつくほど大げさの大笑い。観客が「あれが遺跡?ぷぷぷ」程度のものならば、べスは「あれが遺跡?ははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」みたいなもの。非常に嫌味が入ってる。これは明らかにべスの「遺跡だと信じない」という反応に対する故意な描写で、目的はもちろんべスという嫌味十分の態度によって、観客を「あれが遺跡?ぷぷぷ」から「なんだよ、そんなに笑わなくたっていいじゃない。遺跡が車だっていいじゃない」に転移させるため、このような手法を用いるのです。つまり、どう「転移」という手法を使って、観客の目線を劇世界の目線に融合するための演出なんです。
 注意すべきなのは、これはまったくの手法であって、そのなか、作家性なんて一片もありません。でも、シリーズが進むのと共に、その目線が深化してると、観客も自然にすんなりとその外面的な見方を内面化してくれる。これはツッコミうんぬんというレベルのものじゃなくて、明らかにその両面さを同時に意識しつつ、時間によっての発酵をあらかじめ計算した上のものです。前の「ヒゲ」で例にすると、単に「ほら、ぼくは先にヒゲと言っちゃうんだから、もうヒゲとは言わせないよ」みたいなことじゃなくて、シリーズに通して「ヒゲ」を固有名詞化と愛称化することによって、「ヒゲ」を徹底的に劇世界で消化する。劇中でヒゲに「重さ」を与えたのです。だから、突っ込めば気がすむのは、もうとっくに『ザブングル』の時で終わったのです(これにしたって、ツッコミ待ちの受身じゃないってのは自明のこと)。

 しかし、作家性がないと言っても、こういう外在の問題を内在化するという部分は、まさに富野作品の一大特徴。自分の苦悩、社会の問題とか、何か人間と社会の問題に言及しないとすまないという富野の性(小説もそう)は、特にZ以降が顕著になっていた(もちろん、ガンダムばっかりと無関係ではない)。それらの作品はまさに富野イズムのありところで、『映像の原則』で言ってた「パーソナルなフィルム」と「広いフィルム」に融合するような、私小説的にも公人的にも似てるような不思議なもの。
 だから、結論は何かというと、それは富野由悠季という作家がすごい!ということです。主は前項の「情の流れを見極める」部分を示す。パヤオについては、あくまでついでの話ですから、どうか気になさらないでください。


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