富野由悠季監督とその作品をひたすら語るブログ

TOMINOSUKI / 富野愛好病
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『イデオン・ライナーノート』から見る亜阿子さんと社会にアニメを認めてもらいたかったという富野喜幸の心意

2008/11/30 21:22|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:5
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フランスアニメーションを書く気分じゃないので延期。

「安彦さんとあなたでは、見え方が違いすぎるのよね。スタッフが同じようにバランスとっていかないといけないわ。浮き出しちゃったらスタッフに嫌われるよ? そうしたら、あなたの仕事がやるにくくなるってことまで考えてみた? 何度、同じこといわせる?」
「考えているから、やっているんじゃないですか。慣れないスーツも着てみせるんじゃないの? なんで、メジャーっぽくみせているかわかる?」
「あなたの魂胆はわかってます。でもね『ガンダム』だって『イデオン』だって、マイナーから発生したのでしょう? そういうファンがいたから成功したのでしょう?」
「成功はしてません。大当たり、というのは、『宇宙戦艦ヤマト』みたいなのをいうの。『イデオン』についていえば、未知数のものだから判定はできないんだ。だからって、ぼくが『ガンダム』の人気に浮かれてシャコタンのアラン・ドロンの真似をしてみせているのはね、なにもファンを切り捨てようとしてやってることじゃなんだよ」
「なによ。そんな大義名分あるの?」
 ノーマルな亜阿子は冴えてくる。
「大義!?」
 とんでもない言葉がとんでくる。
「大義名分がなければ、他人はあなたを認めないわ」
「そんな国家的なものは……」
「個人の大義名分よ。人としての節度よ。はしゃぎすぎの男はいけないわ。うすらみっともなくてサ」
「人はだれだって目立ちたがり屋だろ? 認められたいだろ? そう思うのはいけないのか?」
「信義がなくて認められるだけといのは、お調子者のやつことよね。いまのあなたは浮かれピエロね」
「……」
 やれやれと思う。亜阿子は、ぼくらテレビ・アニメの世界の人間がいかに卑屈で、いじましく行きつづけてきたかという痛みを知らないのだ。
 テレビ・アニメの世界から成功をし、財を成した人がいたとしたら(そういう人はいないけれど――)そういった人というのは、現場のアニメーターでなければ、演出家でも、シナリオ・ライターでも、美術(アート)ディレクターでも声優でもないのだ。これらスタッフは永遠にスタッフであって、陽の目をみることができない。
 そりゃ、こういうアニメ専門誌のおかげでぼくもこういう連載をさせてもらっているし、他のスタッフの露出度(世間に顔をみせていくことをこういうらしい)が多くなってきている。これは、いいことなのだ。鬱屈して本当の自閉的生活を送るよりも、人の精神衛生上は大変いいことなのだ。
 けれど、それらのことはあくまでも付帯的な表れ方しかなくって、アニメ世界の人々の正道ではない。
 アニメーターで、ライターで、アートで、演出家で、と一般的に認知され、職業として文化人として世間が認めてくれるようになり、その部分で一人前といわない限り、アニメは正業になどなり得ないのだ。
 そのためには、露出の仕方をやってみせなけりゃいけないでしょ? そうしないと目立たないのだから……。そうしたって、世間はアニメの、でしょ? というのだ。 
 結局、アニメの世界の人なのね、という特殊フィルターをかけられて、日本の中の、大人の世界の中の特殊地帯として見られていったら、これは正業にならない。
 アニメの人だから、子どもなのです。だから、あの程度のバカやるのですね、といういい方で40男が判定されてごらんよ。大人として認められていないことじゃあないですか。そのためには、スーツを着てみせるのよ。
 アニメ世界の人らしくみせていたら、アニメの人なのですねぇ、で終わってしまう。
 ぼくはね、前にもいったろ? 大人になったねと両親からいわれたいんだ。あの弱虫のへっぷり虫(小学校のときのぼくのアダ名)が、大人になったね、って。だからさ、アニメを隠れ蓑にしたくはないのだよ。
 まして、衣々子と耶々子という2人の娘の父親になった。物理的に子どもがいるから、父親さんなのですね。というだけの認知のされ方はいやなんだよ。
 男は、やるんだ。できるんだ、とか、生きたのですね、とかさ、いわれたいんだ。そのいわれたいって部分は、見栄ですよ。目立ちたがり屋です。なんでもいって下さい。だから、やってるんだってこと、それは『だから僕は…』を読めばわかるでしょ?

前も言ってたが、僕は所詮当時の人間じゃないから、
そういう世代的というか時代の議題については、どうしでも理解しきれない部分があります。
なので、ここで言及したアニメ現場の矛盾さは、分かってるつもりでも、
当時のファンがそれをどう受けていたのが分からない。
僕にしてみれば、昔から現在まで一貫してる富野ですから、
概ね賛同してるし、まさにこういった悪アガキがあったからこそ、
多少アニメ村に少し変化をもたらしてくれたと思いますが、
世間が昔に比べて多少にアニメ界を認めてくれるようになってるのは事実だが、
その間、ファンはその動きというか流れにどう反応しているのか、
やはり知る術もありません。日本でもあまりこういう検証をしなかったらしいから。
なので…だからといって、別に大したことじゃないが、つもりそういうことだな。
別に富野のこういった心意を批判しても構わない。
でも悲しいことに、その気持ちを理解すらしてない批判が多いってこと。
富野由悠季という個人のエゴだと罵ってもいいです。
でも、そういう業界全体をそも飲み込めそうなハングリーは、
世間に対して言ってることだけでなく、アニメ業界そのものに対して言ってることでもある。
世間よ!私たちに目を向かせよう!アニメだってこういう描写ができるぞ!
アニメの人間だって大人をやれるぞ!
業界よ!こんな富野が嫌いだったら、オレを黙らすような作品を作れよ!
という気迫は、ファンの間では、現場では、果たしてどれだけの人間に伝えたのか、
おそらく本人も分からないが、でも、こういうのをやれずにいられないのが富野だ。

なんだか偉そうに言ってたが、別に大したことじゃないです。
富野由悠季という人はそういう人なんだから。
仕事がないと溺れちゃう鮫のような人。常に仮想敵がいないと気がすまない人。
こういう人だけのこと。


台湾アニメーションのこれから

2008/11/29 21:39|未分類TRACKBACK:0COMMENT:0
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昨日は、二つのところに行ってた。
一つはここで会社を構えてる日本の方々に向ける昼食会で、
もう一つはフランス文化協会が催したフランスアニメーション講座。
ふたりの場所ではともにとてもいいことが聞けて、本当に感激しました。


昼食会のほうは今台湾発信の国際ブランドについての紹介と、
これから国内外での戦略展開とか、
とにかく構えがとてつもなくデカイの話なんですから、
僕とまったく無縁な話ですけど、
それでも自分の国の文化産業を一つのコンテンツとして売り出してくれるのが、
非常に有意味なことだと思いますので、これからも見守っていきたいと思います。

で、そんなの実はどうでもいい。僕とかけ離れてる話ですから。
この話終わった後、ある年輩の参加者方がアドバイスする時の発言こそ、
今日の一番僕に衝撃を与えてくれた話である。
彼曰く、
こういう文化事業にも兼ねるビジネスは大変素晴らしいので、ぜひやってもらいたい、と。
そこで彼はいくつかの日本のビジネスモデルを挙げてくれました。
(台湾の年配の方、よく日本を見本にしてるから)
その挙げた模範産業の一つ、なんとアニメーションだったとか。
富野監督の話の洗礼の影響のため、アニメを過信していいのか、と、
僕はさすがに日本のアニメ界を尊敬しながらも疑ってるが、
まあ、何事もゼロに近い台湾産業にとって見習いすべき業界ってのは間違いない。
で、彼はさらに彼が釜山映画祭を立ち上げた経緯を述べてくれましたが、
(この方は台湾広告業界の草創期から関わってきてる大ベテランで、
電通とも非常に深い関係を持っていらっしゃる、
台湾広告業界におけるゴッドファーザーみたい人である)
そのなかでも特に面白いのは若手に向けてのコンテスト。
まあ、簡単に言っちゃえば日本のメディア文化庁芸術祭みたいなものだが、
ご存知の通り、釜山国際映画祭は日本と違って総合映画祭だけど、
その成長し続ける原因は、まさにこういう若手育成に注力する背景があるからという。
で、この年輩の長者は、彼はいまでも毎年審査員の一人をつとめて、
若手アーティストのストーリーボードをしっかりとチェックしてると仰っています。
これはすごい!まさか(←なんか失礼な言い方ですが)台湾でもこういう方がいるとは!
本当に感動しました。

で、昼食会の後、僕はちょっとした機会を得て、彼にアニメの話を持ちかけていみましたが、
そこで聞いたのは、台湾のアニメ業界が何故いけないのかというと、
それは、台湾が欠けてるのは、ほかでもなく、「物語」である。
も、の、が、た、り。歴然とした日本語の「物語」です。
(こういう日本の教育を受けた年配者は、大抵日本語が喋れる若い人が好き)
日本のアニメが盛んでいるのは、まさに大量の物語が後ろに支えているため他ないという。
……まあ、今ははたしてこういうアニメが存在してるかどうかはちょっと疑問だが、
それでも(日本の)外から見れば、本当に日本の文化資産の豊かさに感服している。
だから、台湾のこれからやるべきなのは、台湾固有の「物語」を発掘、
いや、その「匂い」を話のなかに取り入れるとも仰いました。
これはまさに僕もいつも考えていることだけど、視野が遥かに遠くて高い方の話を聞き、
改めて再確認できるのは、本当によかったと思いますし、
なんだか迷いがようやく取った感じもしました。
本当にこの長者の智慧に感激しました。

物語の話以外、彼はもう一つ重要なことを仰ってくれました。
台湾は「ストーリーボード」が必要だ!、と。
これを聞いたとき、誇張なく本当に涙を出かけた。
考えてみてください。80近いの長者の口から
「ストーリーボード」という言葉が聴ける自体、もう十分ありがたいことじゃないか。
ともあれ、勉強すべき方向もみつけたので、本当によかったと思います。


ということで、フランスアニメーションは明日。


富野由悠季の「萌え」に対する4つの発言 その2

2008/11/29 00:41|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:14
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今のところ、富野は「萌えアニメ」については、4つの発言があります。1番目は2005年11月23日デジタルハリウッド大学院で行われた「萌えてはいけない」というトークイベント。2番目はこのアニメージュ2006年7月号富野に訊け!!の質問。3番目は竹書房2006年12月で出版した『機動戦士ガンダム 連邦SIDE』のなかのインタビュー。そして4番目は「電撃PLAYSTATION」の2007年9月14日号の付録「Re:Play VOL.9」の特集「ACEの証」に収録されている富野監督のインタビューです。ここでは、その2番目を紹介します。

富野に訊け!!第45回

美少女たちが賑やかに活躍するアニメ作品は、多くのファンに支持されていますが、中にはこんな風に感じている人もいるようです。それでは富野監督、よろしくお願いします!!

QUESTION 49
富野監督は「萌えアニメ」をどう思いますか?
福島県/クリームカレーさん

 富野さん、初めまして。
 悩みというより疑問に近いのですが、気になることがありハガキを送りました。
 私はアニメやマンガが大好きなのですが、どうも「萌えアニメ、萌えマンガ」 というものにあまり感心しないのです。萌えアニメなどにありがちな過激なお色気シーン、下ネタや、大人数の美少女キャラクター、あざとい脚本など、もはやオタクの人たちにしか受けないアニメなどが最近多いと感じました。なんだかそういうアニメは、オタクの人たちの人気をとるためだけに作品を作っているように思えます。もはや商品展開が見え見えな作品自体が、ただの「商品」に思えてきました。こんな風に言えるのは、僕自身が以前かなりの美少女オタクだったからです。18の若造が偉そうに言ってしまったのですが、富野さんはどう思いますか?
 ぜひ意見を頂きたいので、どうおぞよろしくお願い致します。


 まず最初に、僕が美少女アニメをどう思っているか?という答えからお話しましょう。 クリームカレーさんの文章には、正しい意見が書かれていますし、僕もまったく同じ思いを抱いています。そしていわゆる「萌えアニメ」の問題点も、この文章に書いてありますから、今更僕が何かを言う必要はありません。
 では、何故こういう風に「商品」しか作られないのだろうか、ということをお教えしましょう。こういった問題は、僕自身も幼い頃から考えていました。以前もお話ししましたが、僕は小学生の時『ゴジラ』(編集注:昭和29年公開の第1作)を観て、「せっかくの怪獣映画なのだから、もっと怪獣と人間を絡めたドラマを作るべきなのに、何故それをしないのか」と大変腹が立ちました。そして中学くらいの時に、その事について自分なりの内容を手に入れたのです。つまり、「この映画の作り手たちが、<子供が観る怪獣映画なのだから、この程度の内容でいいだろう>と考え、手を抜いたのではないか?」と。そうでなければ、あんな変な薬品ひとつで怪獣を消してしまうなんてラストを思いつくはずがありません。
 今の話と同じで、結局萌えアニメを制作している人たちは、クリームカレーさんの様に美少女オタクだった経験がないのではないでしょうか。そのために、「商売になる」という理由で作品を作ってるだけの話なのです。本当に「美少女アニメが好き」とか、そういう要素が自分の中にあると自覚している人は、それで商売をすることに恥や照れを感じたりするし、真性のオタクならばそれを隠すでしょう。オタクでないからこそ、商売として割り切って美少女を扱う作品を作ることができるのです。
 ここからの問題は、それを自覚した上でクリームカレーさんが未来に向けて、何をどうしていくかということです。18歳の若造……と自分で思っているかもしれませんが、あなたはもう立派な大人です。これからそういう大人たちに混じって仕事をすることになりますから、どうせなら自分が勝つことができる、もっと売れるものを作ろうという努力をすべきです。先の話の通り、『ゴジラ』に不満を持った僕は、「あのシーンはこうしたらいいんじゃないか?」とあれこれと考えましたが、思えばそれが今の仕事につながっていると思いますし、荒唐無稽なものと現実の人間を結びつけるドラマということを意識した結果が『ガンダム』であるということも言い切れます。
 さらに言うなら、もしあなたがこういったクリエイティブな仕事をしようとする時には、かつて自分が美少女オタクだったことを武器にすることができますので、それを活用することを考えてください。そういうセンスはとても大事なのです。例えば、バイセクシャル嗜好で考えてみましょう。「完璧に男性と女性は分離している」というのは、実は男性社会の迷信だと思います。一般のお客さんはバイセクシャル的の嗜好を誰でも持っていますので、中性的な――男性だったら女性的な面を持つ、女性だったら男性的な一面を持つ――キャラはかなり好きです。一世を風靡した『ベルサイユのばら』のオスカル。あれは男装の麗人という極めて中世的なキャラが受けているという要素があります。また、鉄腕アトムというキャラクターは一見少年ですが、実に女性的なキャラクターです。他にも、それに当てはまるようなキャラクターを、あなたもたくさん思い出せるでしょう。
 そして何より、バイセクシャルな視点を持つことができれば、男性なら自分の男らしさ、女性は自分の女らしさを客観視でき、より多角的に物を見たり考えることが可能なのです。そういう日常的なことも含めて、将来のことを考えるにあたって、あなたも自分の性癖を認めていって、それを日常の中に、仕事の中に、勉強の中に活用して頂きたいと思います。
 当然クリームカレーさんは自分が美少女オタクだった照れや恥があるでしょうし、その部分だけで仕事を進めたら、あなたが書いているとおりの狭い範囲のお客さん向きの商品しか作れないでしょう。しかし、あなたは「それは恥ずかしいぞ」と思っています。その感覚をベースにして100万人が喜ぶ作品を作ろうと考えればいいのです。
 クリームカレーさんの10年先、20年先を見通した企画や作品を是非見せて頂きたいと思います。


現在の「萌えアニメ」に対する疑問や不満があるならその熱い想いをモチベーションに変えてあなたの力で変えていこう!

こんなところでもクソ真面目で志が高い返答は、さすがに富野としか言いようがありません。しかし、別にこれに限った話じゃないけど、どうも富野のなか微妙に「オタク」を褒め言葉として使うような気がしないでもありませんな。平安貴族とかをもオタクと例えちゃうあたりは、なんかもう「ある方面をマスターした人間」としてオタクという言葉を使うよな……。

あと『ベルサイユのばら』についてですが、これはどうやら富野の長女さんと次女さんが幼いころ読んでたマンガらしいですが、実際富野も読んでいる様子。まあ、マンガはともかく、アニメの監督はあの2人ですから、チェックしないはずがないですね。

押井守とそのルックス

2008/11/28 23:39|未分類TRACKBACK:0COMMENT:0
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今日は久しぶりに押井厨に遭遇したので、非常に不愉快であります。
(押井オタという呼称でさえ褒め言葉になるような最悪な連中です)

しかし、不思議なのは、押井は哲学的と思う人は何故こうも多いだろう?
あの哲学的なルックスは、ある意味もう押井の趣味なんですからどうでもいいけど、
そのルックスに騙されて(念のため、押井監督を貶すつもりじゃない)、
「押井作品は深いだおブヒヒヒ」「押井作品は哲学だおブヒヒヒ」というようなヤツ、
ルックスだけで嵌るようなヤツ、
ある意味、萌え豚よりタチが悪いと思います。
もちろん、押井監督自身は本当に才能ある人だと思いますし、
押井ファンだって一杯まともで有意味な討論をしてくれる方がいますから、
今日の豚みたいな連中はきっと特例だと思います。

それにしても、
富野監督が言ってる「ルックス」の意味、今更、分かるような気がした。


『イデオン・ライナーノート』から見る芸能と亜阿子さん

2008/11/27 23:56|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:0
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今日はだからtominoは・・・(富野由悠季御大将を何かと愛好する会)の充実のため、
また文字起しをする。
………というのは嘘で、本当はネタ思い浮かばないよー。
明日から新しいネタを考えなくちゃいけないのな。

 と、ここでぼくは突発的に思いつくことがある。
「亜阿子! イデオンって大きいだろう? そのイデオンの上で、コスモとギジェがチャンバラをやるってアイデアでしょ? こういう場面でしかできないことだ! 1枚の画として凄くいい! これは、やりますよ」
「なぜ、チャンバラやるの? その理由づけぐらいしてくれるでしょうね?」
「素晴らしい画に、理屈はいらないよの。映画とかテレビって娯楽なのよね。もっといっちゃえば芸能一般! 何の理由がいるものか! SFって理屈の積み重ね。芸能は、おたのしみ! 僕がいいと感じたら、それでいいのよね。作り手がいいと感じなかったら、視聴者は楽しめないものね」
「でもね。そりゃ、芸能を甘く見すぎているわ」
 妊娠とわかってからの亜阿子の物いいは、なにかこう貫禄さえついてきたから恐ろしい。
「なぜです!? われわれアニメ屋、映画屋! バカにしているヒマなんてありません」
「芸能ってジャンルの作品だって、1つの世界を作らなくっちゃならないのよ。その世界の規範は、小説でいえば1行目を書いたときに、フィルムなら1カット目……本当はショットっていうんでしょ? その1ショット目を描いた瞬間に決まるのよね・そのワケをこえて制作者の気分でシチュエイションが作られたりなくなったりしてはいけないのよ。おわかり? 総監督さん」
「凄いのね。あなた……」
「ロボット物でSFができるわけないじゃない。芸能としての作品世界をお作りなさい!」
「高千穂先生と同じことをいうのね。あなた」
「他人の批評にオロオロしているうちは青二才ですねェ。頑張って、芸能世界をお作りなさい。オロオロ父親を持つ子どもがかわいそうよ」
「はい……」
 と、いいつつも……ぼくはやる。

大して面白くない話ですが、これは自分が知ってる限り、
富野が一番最初に「芸能」という言葉を使っていたところ。
芸能といえば『ターンエー』以来の富野だから、いまいちピンと来ないかもしれませんけど、
その話の内容をよく見ると、ここで言ってた「芸能」は白富野の「芸能は祭り」と違って、
むしろ「芸能は劇世界」という意味が読み取れる。
しかも、面白いことに、これは富野の妻の亜阿子さんの口から出てる言葉(とされてる)。

一見フィクションなので、うかつに信じちゃいけませんが、
この亜阿子さんはこの本以外、ほかの富野やスタッフ発言から見る限り、
やはりかなりの趣味人で、演劇も音楽もいろいろ触れてるようで、
もしかしたら、2人の娘さんもその影響で演劇界とダンス界に行ったのかもしれない。
あと、個人の観察で言えば
亜阿子さんは本当に富野に容赦なく突っ込んでくる人らしいだから、
現実でそういう場面が出てきても、正直ある意味、意外なことではありません。

富野は仕事を家庭に持ち込むような人じゃありません!と言う人はいるかもしれませんが、
これだけは覚えて欲しい。世の中では、
自分の作品の原画の仕上げのアルバイトを妻にやらせる総監督さんもいるってことを。
……そう、ガンダムの頃のことだ。


ニュータイプ2005年12月富野由悠季ZⅡ、ZⅢ、リーンの翼に関するインタビュー

2008/11/26 22:06|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:0
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今日はただの富野記事です。

水の星のファンタジー
劇場版「機動戦士Zガンダム―恋人たち―」と「リーンの翼」
その2つをつなぐ線はどこにあるのか、富野由悠季総監督に聞いた



Zガンダムはそれなりに出ればそれでいい!?

――第2部「恋人たち」がついに公開となりました。もともと「Zガンダム」は中盤以降のエピソードが散発的なので、映画としてまとめるのに苦労があったのではないですか?

富野 もちろんです。TVの構造のままではとてもダイジェストはできませんでした。そこで「恋人たち」というタイトルのとおり、いろいろな人々、さまざまなカップルがいるというところに絞り込んで、余分なところを外していくという方法を取りました。それは、もしかすると映画としてほめられるようなまとめ方ではないかもしれません。でも、見た目の力押しでしかまとめられなかった若いときと比べれば、それなりにまとめることができたと思えます。実際「恋人たち」は「星を継ぐ者」以上に、見た人の反応がバラバラなんですよ。でも、単純に「おお」とか「悪い」とかいう一方の評価に触れるのではないという点では、第3部への単なる中継ぎだけにとどまらない、さまざまなおもしろさを感じていただけているんではないかと思います。

――「恋人たち」で印象的なのは、人間味を感じさせる場面が、TV版よりもずっと増えていたことです。

富野 これはガンダムの映画ですが、ガンダムはそれなりに出ていればいいんですよ(笑)。もちろん構成をいじって、メインメカであるZガンダムをもっと目立たせることは可能です。でも「恋人たち」をひとりでも多くの人に見せるためには、ガンダムものとしてベタベタにはしたくなかったんです。というのは、「Zガンダム」のファンも今や20代、30代なんです。その年代の人がモビルスーツだけを見ておもしろがっているとは到底思えないんですよ。そういう年代の人が「ああ、その感じわかる」と思ってニヤッとできるような場面があれば、それは立派な大衆娯楽になると思うんです。

――それはたとえば、会議の最中についミライたち家族の動画を見てしまうブライトの姿などですよね。シャアについても、人間味あふれる場面がさりげなく挿入されていました。

富野 そうなんです。それだけでもないんですよ。ブライトのシーンはこうです。まず映画を再構成するうえで、シャアが地上から帰ってきたという客観的な描写が必要というのが出てきました。その一方で、シャアとブライトの関係が見えていないし、ブライトがどんな人間かという人間のボリュームも見えてこない。本当はそこで2人が何かについて語り合う場面があればいいです。でも上映時間を考えると、そんな余裕はない。そういう要素を全部満たすために考え出したのが、あの新作シーンなのです。ああいう場面を考え出すということはつらい作業ですが、戯作のおもしろさでもあるんですね。実感しました。シャアについては、単に20年前の僕が下手くそで、あのように演出することができなかったというだけです(笑)。

絵空事としてのスペクタクルと世代交代

――20年前の自分にリテイクを出してるようなものなのですね。……そこでうかがいたいんですが、「ガンダムエース」に掲載された、「リーンの翼」の予告で富野監督は「『ガンダム』も『リーン』も同じファンタジーにくくられる作品なのだが」と書かれています。これは劇場版「Zガンダム」と、最新作「リーンの翼」が似通った性質を共有しているという意味なんでしょうか?

富野 いや、そういう意味はないんですよ。アニメ「リーンの翼」の前日談にあたる小説版「リーンの翼」には、そもそもオーラバトラーは出てこないんです。そこにオーラバトラーを出せと言われたときには、腹も立ちもしたんです。でも、この20年間のロボットもの、異世界ものの認知が広まったことを考えれば、絵空事のスペクタクルを描くには、そういうアイテムはあたほうがいい。それは「Zガンダム」をまとめていく経験に通じて体感したということです。ただ……人間というのは容量が小さい生物でして、そうして尋ねられると、意識しないうちに「Zガンダム」で考えたことが「リーンの翼」へと反映されている部分があることに気づかされました。

――というのは?

富野 世代交代という題材ですね。まず、元特攻兵でバイストン・ウェルに飛ばされ、一国の王となった男、迫水がいます。彼はいわば明治から昭和20年までの約60年にわたる歴史について、体感をもっている男です。そういう実感がもつ男が、中世かそれ以前の文明にある異世界で、国を興そうと思うのはむしろ自然なことでしょう。では、そこに現代の青少年をぶつけてみたらどうなるか。それによって「星を継ぐ者」で触れた世代論をもった深く展開できるのではないかということです。この振り幅の中で、ロボットものという決め事にとらわれない、もうちょっとリアルなものを感じさせる作品が描けるのではないかと思えてきたんです。こういうふうに思わせてくれた若いスタッフに感謝もしています。

――「リーンの翼」に登場する「王殺し」という題材は、過去いくつかの富野作品にも隠れしていますが。

富野 いえ、「王殺し」そのものは「∀ガンダム」のときにちょっと調べた程度なんです。むしろ僕が一貫して意識しているのは、権力者が組織をどこまでコントロールできるのか、ということです。その組織はどこまで理知的に組織され、どこからその管理からこぼれてしまうのか。物語をつくるときは、むしろそういう部分を意識しています。

――第2部でジャミドフがそれに通じることを漏らしますね。ということは、王たる迫水に注目すると「Zガンダム」と「リーンの翼」の共通点が見えてくるかもしれませんね。では逆に「Zガンダム」に戻って、第3部の重要人物であるハマーンとシロッコはどうでしょう。彼らは組織のトップに立つカリスマ的権力者です。

富野 シロッコとハマーンの描写はTV以上に明確にはしていません。劇場版「Zガンダム」は物語を俯瞰にすることはしないで、あくまでもカミーユがサバイバルしていくことを描くことで、カミーユが自立していくという物語に収めています。第3部に向けて戦闘は激しくなります。ですがTV版のようにカミーユは追いつめられません。劇場版をつくってひとるわかったことがあるのは、人は圧迫感をもって問題提起をされると、そこで思考停止してしまうんですね。だから、そこでちょっと息を抜いてあげるということが作品として大事になっていくと思うんです。

――第3部のサブタイトル「星の鼓動は愛」がロマンチックなのもそういう意識の反映でしょうか?

富野 当初のサブタイトル「三つ巴」に若いスタッフから反対があったんです。要は「Zガンダム」で「三つ巴」って予定調和すぎるということです。それを聞いて僕自身、無意識のうちに「ガンダム」的なところにはまっていたんだと思い知らされました。ですからサブタイトルを改めるにあたって、通俗なものにしようと思いました。ラストシーンが、本当に通俗なハッピーエンドなので。ただあんばい難しくて、そのことばを探る作業はちょっと作詞に似た感覚でした。それにしても、そういうことを僕に言ってくれるスタッフがいるサンライズの7スタで仕事ができたのはうれしいことでした。

さて、インタビューはここまでですが、12月号の富野記事に関しては、
書こうとしることはこれだけじゃないです。
詳しくは明日のお楽しみとしておこうなので、今日はここまで。


安馬クラスチェンジ

2008/11/26 17:52|未分類TRACKBACK:0COMMENT:0
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大関になるのはいいけど、
日馬富士(はるまふじ)ってのは無いだろ……
安馬っていいだろ?競馬のアレじゃないだし、アマって単純明快でかっこいいよ。

それにしても、白鵬を勝たせてほしかったな、最近の朝青龍は不甲斐ないし……


『イデオン・ライナーノート』から見る決してカリスマになれない富野喜幸

2008/11/26 00:23|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:2
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「偉そうなのよね。そういう語り口ってさ」
 これは長谷川プロデューサー。
「知ってます? 声優さんが6月だかにデモやったの? 10月からギャラが上がったんですよ」
「知ってるよ。起きて、万国の労働者。いいじゃないですか」
「そうです。小生も労働者。おたがいに裕福にならなけりゃ、アニメ界の進歩なんてありませんからね」
「亜阿子もそういってる。幼稚園に入れなくっちゃならないし」
「はい、はい。で、ね? わかるでしょ? 予算があって物を創っているってこと」
「承知してますよ。アマチュアじゃないんだから……いや、アマチュアならもっと予算がきびしいか?」
「だから、キャラクターの数、減りませんか? はじめの話と違うじゃないですか。ぜんぶ殺す、順々に整理するっていっていたでしょ? それがどうですか? ちっとも減りゃしない。10月からデモのおかげで声優のギャラ・アップで予算わくを超えてんですよ。なぜ、1度のアフレコに20人の声優がいるんです? ゲスト出てくりゃ数がふえますわな?」
「はい……キッチ・キッチン出して、まずかった? 鵜飼るみ子ちゃん好きなんだよね」
「そういう私事の好みが入るから……。殺してください。つぎつぎとね」
「そりゃ、はじめっからの予定です。殺します。コスモも殺しゃあいいんでしょ?」
「そうスよ。だいたい、おかしいんだ。なぜ、ギジェが生きてんです? シェリルとひっつくなんて……」
「その話、嫌いなの?」
「好きですよ」
「じゃあ、死なないじゃありませんか」
「ハルルは、もう出ないんでしょ?」
 と、形勢不利となるとまた話を変える。
「死んでませんから、出ます」
「なぜ、ダラムと心中させてやらなかったんです。ミスですよ。ミス!」
「ああ、やりたかったんだよね。心中道行きってのはね……30話代に入ったらつぎつぎとやるからさ……」
「えー、お話中……総監督」
「はい!」
 無精髭の石崎くんはこちらの具合いに構わずにちょっとひっかかることがあると聞きにくる。すごくまめな人なのね。
 こちらも、シビアー長谷川の追及を逃れるためにはたいへんに幸いと話にのる。
「このゲル結界の光のパターン、こんなもんでいいのでしょうかね」
 と、カット袋からつぎつぎと原画を持ち出して見せてくれる。
「あ、前の話での処理は……」
 こちらも、いかにも仕事にかかったぞってポーズをとると、さすが長谷川プロデューサーも口とがらせながらも引き退ってくれる。
 それを眼のすみで追いかけて、
「まかせる、まかせる。好きにやって、石崎くん」
「えー、ですが、総監督のイメージをいただいたほうがよろしいかと……」
「しつこいのね」
「はい」
「……ぼくにイメージがあると思うの?」
「ハ?……ご冗談を……」

どうですか、この愉快犯っぷりは。
共に自分を書く(描く)のに、
『だから僕は…』みたいな超真面目で一片の偽りも無い本を書いた一方、
こういうチャラチャラしたものをも書いてた。
一つは真面目で我慢強くて謙虚な演出家。もう一つはだらしなくていい加減な監督。
でも、どっちも富野喜幸という同じ人。
同時にこのまったく違った二面で自分を描けるその自己コントロールの良さと創作力に、
本当に脱帽するほかない。
でも、それゆえに、彼は決して世俗がいう「カリスマ」にはなれません。

上の文章を読んでいただいて、おそらく分かると思いますが、
世の中、どこにこんなにぶっちゃけ言うカリスマがいるのかしら?
世の中、どこにこのようなわざと自分を凡俗でバカと描くカリスマがいるのかしら?
確か富野の意図とおり。その内容は非常に面白い。
半分ウソ、半分真実を混ぜてるような語りで進むその書き方に、
読者たちはまるで本当の現場を知ったような錯覚に陥って、
その内容すべてを事実として受け入れてる。
その証明に、この連載は最初からフィクションと断ってるにも関わらず、
一旦妊娠話が出ると、大量な赤ちゃんのための物資が出版社に送られていた。
つまり、手法としてはたいへん成功でした。
しかし、内容が信じられるため、その作り上げたチャラチャラした印象も、
不本意ながら、その手法と共に、読者の心に届いた。
ある岡田斗司夫と唐沢俊一と池田憲章が出てたトークショーでは、
三人が口を揃ってこのようなことを言ってた。

池田:ぼくは、あの人が謎の人でいればね、もっと……(唐沢に遮断された)。
唐沢:それはありますね。あれだけカリスマを持った人間は、逆に「正体を見せない」という……。実際の声を聞いたことある人が少ないというのがありますね。
岡田:(ひたすら頷く)

でも、それがどうした?正体以上表してもいいじゃないか?
どうせ実際に実力あるし、別にその実を損することにはならないからいいじゃないか?
確かにそうです。が、もっと大きいな問題があります。
それが、そういうぶっちゃけ言いすぎ人間は、
商品として売るのに決定的に都合が悪いってこと

そう。確かに富野は実際のアニメの演出力がある。その言動も魅力がある。
でも、どれも売れるのに決定的な要素にはなれません
宣伝というのは、とどのつまり都合がいい部分だけ全力でプッシュして、
都合が悪い部分は全力で隠すというズル賢い大人のやり方。
(すみません、自分も今これをやってるが)
こういうやり方は、皆さんもご存知でしょうけど、富野の拳動と徹底的に相性が悪かった。
特に、あとはまた別の記事で紹介してるけど、
この連載の担当編集者はほかでもなく鈴木敏夫という人のため、
連載中、彼に徹底的に富野という素材を観察するチャンスをたっぷりくれました。
そして、富野のそのぶっちゃけ言いすぎる性格が仇になって、
鈴木に商品として失格と見なし、また別のターゲットを探しに行った。
それがもちろんパヤオのことである。
現に日テレビの物量攻撃にしか見えない宣伝の波に出てるパヤオは、
そりゃもうほとんど都合がいい面しか出てないよね。
彼をサンタみたいやさしい長者と思う人は、それはそれはもう一杯いるよ。
怒ってる場面が出てきても、それは求道者としての厳しさ。
不機嫌で八つ当たり(に近い)場面が出てきても、それは創作の苦しみ。
パヤオの今までの言動から見れば、彼自身はそれほどの修養があるとは思えないから、
こういう宣伝の仕方は、ひとえあの人・鈴木がコントロールしているのはほかない。


結局、岡田が言ってるのは正解かもしれません。
富野をうまくプロデュースする人はなかなく出てこなくて、
結局、富野をプロデュースするのも富野本人しかない。
つまり、富野の作品創りも富野本人のイメージも、
結局富野一人がコツコツで築き上げるものなんだ、と。
だから、何が言いたいのかというと、決して商品として売れないのが富野という人だから、
結局いつもいつも作品自身で勝負するしかない勝負師の宿命を背負うしかない。

でも、本音をいえば、やはり富野を売れる本当のプロデューサーに出てほしい。
素材自体は大変いいものだし、やりがいあるものだから。
(サンライズのP?あれは論外)



富野作品のオープニング、エンディングと絵コンテ(7)

2008/11/25 02:03|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:0
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関連記事:
■富野作品のオープニング、エンディングと絵コンテ(1)(トリトン~ダイターン)
■富野作品のオープニング、エンディングと絵コンテ(2)(ガンダム~ザブングル)
■富野作品のオープニング、エンディングと絵コンテ(3)(ダンバイン~Zガンダム)
■富野作品のオープニング、エンディングと絵コンテ(4)(ガンダムZZ~Vガンダム)
■富野作品のオープニング、エンディングと絵コンテ(5)(ブレンパワード~∀ガンダム)
■富野作品のオープニング、エンディングと絵コンテ(6)(キングゲイナー)

今更ですが、先日『映像の原則』について皆さんに願いをしました。
じつをいうと、それは単なる好奇心だけでなく、ある用途のためにしている質問ですが、
あくまで個人の用事なので、ブログ主のたわ言と取ってもいいのですが、
そのどうしょうも無い記事はなんとシャアニュースさんがリンクしてくださった。
なので、この場を借りて、いつもお世話になっておりますシャアニュースさんに感謝の意を。
Randal Stevensさん、本当にありがとうございます。

さて、ついに本当の本当の最後ですが、ここでは年代順を飛ばして、
富野作品以外の富野オープニングとエンディング絵コンテを紹介します。
まずは誰でも知ってる有名なこれです:



ママは小学校4年生
オープニング・ストーリーボード:富野由悠季

これに関して、昔は■ママ4のオープニングと富野という記事に書いてたから、
ここでは特に何も言わないが、簡単にいうと、このOPが主に働いた役割は以下である。
1.みらいちゃんへの愛情
2.みらいちゃんのキャラ付け
3.現代と未来をリンクする
4.家族との絆
詳しいシーンの分析など上のリンクを参照してください。
関係性や世界観を描く部分は本編以上の表現もあるこのOPを見る限り、
いくら富野本人の作品ではないにしても、テーマさえ固めれば、
作品の補強までになる”演出”は富野にとって、決して難しいことではありません。



次はややマイナーで、知る人ぞ知るコレ。
新世紀GPXサイバーフォーミュラの編集オープニング
ご存知の通り、これは監督がスケジュールを遅れて、スタッフ皆が頭を抱えてるとき、
ちょうど手が空いてる富野がスタジオにいたから、そのまま第1話のフィルムを使って、
ツギハギ編集オープニングになったということだ。
このオープニング、現在のパッケージではどこにも収録していませんが、
本放送では、冒頭の何話も使ってたそうです。今でも覚えてる人もいるかもしれません。

では、百聞は一見にしかず、この編集オープニングを見ましょう。

冒頭の1分54秒まではオープニングです。

一歩、これは正規オープニングです。

二つを比べてみて、どうでしょう?

さすがに完成度は正規オープニングのほうが高いし、
ツギハギもリズムが乗ってるとはいえ、やはり辻褄が合わないところもチラチラ見える。
それでも一つ、ツギハギのほうが正規に勝るところがあります。
それは主人公の顔見せが徹底的に正規版より早かったってこと。
ツギハギは30秒で明確に主人公が車を乗ってるのに比べて、
正規版は主人公の顔が出るのは46秒のときで、
60秒でようやく初めて主人公が車を乗ってるシーンが出てる。
こういうのは明らかに演出の一つ大きな欠点といえます。
ほかには、ツギハギのフィルムの描き方は正規版より多少に広かったところとか、
正規版のあの主人公のマンセー気味とかも見えるけど、まあそこらはどうでもいいけど。

それでも、福田の絵の見せ方はやっぱり気持ちいいね。でも、それだけ。
というのも、ついでにサイバーフォーミュラのOVAのほうをも覗いてみたけど、
この時の福田の(人物の描き方は別に)絵の見せ方は結構好きなのに、
何故ああもなったんだろう…。いや、理由は知ってるけどね。



以上は『富野由悠季全仕事』でも乗ってある、皆さんがよくご存知してる部分ですが、
それだけじゃありません。もう2つあまり知られてはいないOPED絵コンテがあります。
超電磁ロボ コン・バトラーV
オープニング、エンディング(推定)
超電磁マシーン ボルテスV
オープニング、エンディング

これをみて、「え?」と思える人もかなりいると思いますが、本当のことです。
これについて、氷川竜介氏は以下の発言をした。

富野が総監督に返り咲いた77年の『無敵超人ザンボット3』は、ボルテス後半と同時期の作品だ。『ライディーン』降板後も、富野は長浜監督のもとで、『コンV』『ボルテス』に、絵コンテマン・各話演出として参加している(主としてペンネーム)。『ボルテス』などは重要な第1話やオープニング・エンディングも富野の担当だ。長浜監督の作業と考え方を吸収する機会も多かったのではないだろうか。

つまり、あの超王道な『ボルテス』(場合によって『コンV』も)のOPとEDは、
実は富野の手によるものなんです!これはすごい!
ちなみに、氷川氏が明言してないにも関わらず、『コンバトラーV』も入れてみたのは、
『コンバトラーV』と『ボルテスV』のOPとEDの描き方は非常に近いものだし、
絵コンテ数を見る限り、富野の『コンV』の参与度は『ボルテス』よりかなり高いため、
そういう判断を下したのです。もちろん根拠一切ない。
(ただ、富野らしい演出がチラチラ見えてる)

じゃあ、『闘将ダイモス』は? 時期から見れば十分可能ですが、
絵コンテでは少なかったし、さほど重要の話数でもないので、
作品の参与度は前2作と比べてかなり低かったため、
おそらく担当する可能性があまり無いと思う。

さらに、放映開始時間を見れば、『ライディーン』は75年4月4日、
『コンV』は76年4月17日、『ボルテス』は77年6月4日、『ザンボット』は77年10月8日、
『ダイターン』は78年6月3日、『ダイモス』は78年4月1日だから、
『コンV』と『ボルテス』のOPは実際『ライディーン』と『ザンボット』の間に制作されたもの。
これが分かれば、富野色があるとはいえ、やはりロボットアニメしてる『ライディーン』から、
なぜ一気に富野濃度120%の『ザンボット』に変異したのかという疑問も解ける。
おお!ミッシングリンクはついに見つけた!、と生物学者なみの喜びも思わず。

……と、言いたいが、あれを見て、今一ピンと来ない人もかなりいるはずなんです。
「本当にあの富野がやってたものなの?」、という。
それもそうだ。
オープニングでは、何のひねりもないただひたすらアクション。人間はほとんど描かない。
■富野作品のオープニング、エンディングと絵コンテ(1)で言ってた
1.タイトルをいじる
2.手の表現
3.合体のバンクシーンを入れる
4.最低限の顔見せ(武器を含めて)
5.何かの対比か描写でスケール感を作る
6.どこか王道から一歩ずれる作り(富野作品限定のため、ここでは除外)
という富野オープニングの特徴のなか、共に満たすのはなんと1と3しかない。
2は『コンV』の人物出るシーン自体すら少ないからXだし、
『ボルテス』も多少に人物の演技が増えてるとはいえ、やはりキャラを描いた感じはない。
4はオープニングの尺がほとんど戦闘シーンに費やしたため、もちろんアウトだし、
5という富野一番拘ってる描写でさえ、無い。
あと、エンディングはオープニングに比べて、人間の描写に偏っていて、カットも多いけど、
ほかの富野エンディングと比べれば、やはり雑乱でやや散漫な印象が強い。
描写全般はアクション以外、『ライディーン』より退化してるといわざるを得ない。

じゃあ、『ボルテス』(と『コンV』)の絵コンテは一体なぜああなっちゃったの?
そして、それらは一体どういう(富野的の)価値があるの?
前者は、考えられるのは3つの理由がある。
1つ目の理由は、富野が下手だから、ああしかできなかった。
2つ目の理由は、スポンサーの要求のため、仕方なくああいうやり方をした。
3つ目の理由は、総監督である長浜はああしたかったから、ああになった。
で、1つ目は、さっきで言ってた通り、後ほど成熟してないが、
『ライディーン』のときはすでに富野の方法論を踏まえて作ったから、ぶっちゃけありえない。
2つ目は可能性としてあるし、実際ああいうのはCMとして最適だから、
スポンサーはさぞ喜んでただろう。でも、だからといって、「人間を描くな!」
「ロボットだけを描け!」という注文をわざわざオープニングに発注するとは思いません。
彼らが気になるのはあくまで全編としてのCMであって、OP単体の功能ではありません。
じゃ、3つ目はどうなるの?
なるほど、アクションばっかりだが熱気溢れる雰囲気は、いかにも長浜監督らしいが、
これを読み解くために、さらに『ダイモス』と『ダルタニアス』のを見なければいけない。
『ダイモス』。富野を外してからの作品である。そのオープニングを見て、
人物の出番は増えていたが、やはりそういったキャラの描写というか象徴性が見れない。
『ダルタニアス』。人物はさらに増えていたが、やはりどこかポーズ的な部分しか見えない。
長浜の富野参加作品と富野参加してない作品の共通点はこれだけ明らかだから、
やはりその作風が長浜の影響が一番大きいといわざるをえない。

あと、富野的に価値はどこかにあるのかというと……うん、悩むな。
今のところ『ライディーン』と『ザンボット』の間にいる絵コンテとしか……。
だって富野が『コンV』と『ボルテス』がやってた演出と絵並びは全然継承してないし、
『ママ4』のと違って、特に優れてるって訳でもないから、
少なく今の時点では、僕個人は高い評価を下さないのが事実。


というわけで、ついにこの一連の記事を書き終わった。
このシリーズについてどう思いますか?できれば、コメントは寄せてほしいな。
富野のOPED絵コンテは、時期によって功能や意味も違ってるが、
その短い時間で作品を語りつくせるのは、もうロボットアニメどころが、
全アニメジャンルの作品のなかに放りこんでも、全然遜色しないものだと思います。
こればかりが、決して富野信者のバイアスじゃないと確信する。


富野作品のオープニング、エンディングと絵コンテ(6)

2008/11/23 11:40|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:0
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関連記事:
■富野作品のオープニング、エンディングと絵コンテ(1)(トリトン~ダイターン)
■富野作品のオープニング、エンディングと絵コンテ(2)(ガンダム~ザブングル)
■富野作品のオープニング、エンディングと絵コンテ(3)(ダンバイン~Zガンダム)
■富野作品のオープニング、エンディングと絵コンテ(4)(ガンダムZZ~Vガンダム)
■富野作品のオープニング、エンディングと絵コンテ(5)(ブレンパワード~∀ガンダム)


一気に完結したいが、今日は忙しいのでキンゲだけ。

OVERMANキングゲイナー

オープニング:コンテ―富野由悠季、演出―森邦宏
ここに至って、いままでの富野と一番違うのは、富野にしては何のひねりも無い。
本編もそうだけど、このオープニングの映像と歌詞が特にそう。
歌詞もそのまま感じを出てる感じで、
『イデオン』とかと違うのは、『コスモスに君と』そのものはドラマなのに、
この『キングゲイナー・オーバー』はドラマじゃない。全然ドラマをしてない。
なので、富野オープニングの一つの到達点と言えるかもしれません。
残念なのは、この作品以後まだ新しい富野テレビシリーズがないため、比べようがないが、
それでもかなりパワフルで単純明快、非常に面白いものだと思う。

さて、前の記事でも言ったが、
白富野のオープニング(=映像+歌詞)の一つ大きな特徴は、
世界観を触れずに、方向付けだけに特化するところ。
で、このオープニングでどういう方向付けをしたのかというと、
もちろんモンキーダンスは決定的な役割を働いたが、
ゲイナーの成長話だってことも前半で遺憾なく発揮していた。
ところが、後半はモンキーダンスと共にコミカルになってあげく、
最後はまるでキングゲイナーこそ
主役(主役ロボットであらず)のようにピックアップして終わるのが、
あえて整合性を捨ててもそのはっちゃけっぷり(荒唐無稽)を表現したいのが見える。
かっこいい部分も注目すべきなのだが、
このOP本当の価値は、やはりそのコミカルなところなんだろうなといわざるを得ない。
(タイトルの下で踊るキンゲとバッハ・クロン、いっぱいなモンキーダンス、ゲイナーとサラ、
敵味方両方手を挙げるとか)

あと、もう一つ特筆なのは、このオープニングの演出処理は森邦宏氏が手掛けること。
演技そのものは大まか富野コンテからのものだが、
エフェクト、細かいタイミング合わせなどが森さんによって作られたもの。
おそらく前のOPEDも別の演出があると思うが、まあクレジットしてないから知らないが。
このオープニングについては、『キングゲイナー エクソダスガイド』では:

――OPの制作は第1話よりも後なのですよね?

森(邦宏) 第3話と並行して作業した記憶があります。内容は富野監督のコンテ(笑)に従うだけですけど、ああいう内容なので逆に真面目に作ったほうが面白くなると考えました。ただ背景はコンテにあまり細かい指示がなかったので、迷いながらも自由にやった部分です。サラとゲイナーが踊る最初のカットは河口(佳高PD)さんのアイデアをもとに背景を林にしたんですが、次のカットはコンテに銀河と支持されていたんで、そこがうまくつながるかどうかがちょっと心配で、BG(背景)をO・L(オーバーラップ)させようかとも思ったんです。でも、動きがつながっていたので、ラッシュを見たら違和感なく見れました。そういう意味では、アクションでカットうぃつなぐ富野フィルムのエッセンスが凝縮された部分といえるかもしれませんね。

――モンキーダンスはインパクトありますね。タイトル画面でも列車が踊っていますし。

森 列車が動くところは、よく「森がやった所だろう」と言われるんですけど、あれはちゃんとコンテに指定があったんですよ。「タイミング合わせて伸び縮みアクション」と。だから、あれは僕の仕業じゃありません(笑)。それからあのモンキーダンスには、参考用のビデオがあるんですよ。シナリオの淺川(美也)さんとその知り合いの方が踊っているもので、それを参考に真面目に作りました。あと、手を伸ばすカットは、最初はみんな一斉に手をあげていたんですが、吉田(健一)さんと相談して、それぞれバラバラに出すことにしました。中でも、ケジナンはやる気なさそうに手をあげるんじゃないの? と打ち合わせで指示をした記憶があります。

――第1話はシリアスなムードが全面に出ていますが、その後の明るいノリには戸惑いませんでしたか?

笹木(信作) 富野監督が第1話のラッシュを見てキャラクター一人一人に「こいつバカだねぇ」って笑ったりしていたんです。僕はそれが今ひとつ理解できなかったんですが、富野の監督の中ではすでにキャラクターの中に潜んだコメディのニュアンスがあったのかもしれません。(中略)第1話の作業が終わった頃かな?富野監督から「今回の参考になるので演出の人はぜひこの舞台を見に行ってほしい」という話があったんです。そこは「六本木金魚」という有名なショーパブで、歌あり、踊りあり、仕掛けありのショーをやっているんです。で、富野監督曰く「『キングゲイナー』はこんなふうにやりたいんだ」と。「こんなふうに言われても、どうやるんだ?」と思ったんですが、OPのコンテを見て「はは~ん」と納得しました。富野監督は人に説明しながら自分に言い聞かせているようなところもあるので、この頃は富野監督自身もシフト・チェンジしようとしていた時期なんだと思います。

――『キングゲイナー』は第3話以前と以後で雰囲気が違いますね。第2話の作業はどうでしたか?

宮地(昌幸) 第2話の作業がスタートする頃にOPの絵コンテが出来上がってきたんですけど、ぶっちゃけて言って、最初は失笑というか、「これでいいの?」という印象でした。ずっと第1話の作業を勉強を兼ねて手伝っていたんで、頭がかなりシリアス寄りになっていたんです。そこで頭の切り替えが早かったのは吉田さんでした。


御覧の通り、このオープニングはスタッフに与える衝撃もかなり大きいのようで、
この部分から見れば、実に『ブレンパワード』のオープニングに通じるものがある。
つまり外部(観客)への功能も内部(スタッフ)への功能も一緒に内包してるような作り。
もしかしたら、これこそ白富野が黒時代の若手育成と一番違うところかもしれません。


エンディング:斧谷稔
これは珍しく富野自身が演出処理を行うもので、成果は見ての通り、
使いまわしのカットとトメ絵だけで、あれだけリズムに乗ってるテンポがあるものが作れる。
どういう意味があるというと、おそらくまったく無いと思うけど、
とにかくかっこいいだろう^^? というようなエンディングでした。


さて、これで富野作品のオープニングは全部完了ですが、
富野のオープニング絵コンテはそれだけではありません。
そう、まだ「アレ」と「アレ」と「アレ」と「アレ」があります。
え?「アレ」と「アレ」はおそらく「アレ」と「アレ」だが、
もう二つの「アレ」はいったい……?というのは、明日の楽しみ^^。


富野作品のオープニング、エンディングと絵コンテ(5)

2008/11/22 23:32|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:0
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関連記事:
■富野作品のオープニング、エンディングと絵コンテ(1)(トリトン~ダイターン)
■富野作品のオープニング、エンディングと絵コンテ(2)(ガンダム~ザブングル)
■富野作品のオープニング、エンディングと絵コンテ(3)(ダンバイン~Zガンダム)
■富野作品のオープニング、エンディングと絵コンテ(4)(ガンダムZZ~Vガンダム)


さて、今回は5回目。一見簡単明快な白富野作品ですが、
実際オープニングを語ると、意外に難しいだな、というのは今回の感じでした。
なので、前ほど語れないかもしれません。


ブレンパワード

オープニング:富野由悠季 
富野のオープニングは3つの種類に分かれる。
1つ目は歌詞で世界観を作る。2つ目は映像で世界観を作る。
3つ目は歌詞と映像を一緒で世界観を作る。

1つ目の例はほとんど見られません。
だって富野は映像作家だから、わざわざ映像を演出しない理由はありません。
Zガンダムの前期OPは辛うじてこのカテゴリに入れる。
(2、3つのカット以外、大した意味を持ってないから)
2つ目、富野作詞じゃないオープニングは大体このカテゴリに入ってる。
映像作家だから当然なことといえる。
そして、3つ目はおそらく一番多いパターン。
井荻+富野という、ある意味一番強固な組み合わせ。
もちろん、ブレンパワードは、2つ目に属する。
で、ブレンパワードの『IN MY DREAM』はもちろんかなり印象深い曲ですし、
語るテーマ(情熱)も物語に合って、かなりいい歌だと思いますが、
全編の方向付けになるのは、やはりオープニング映像だと言っても過言じゃない。

『ブレンパワード』のオープニングの「世界観を作る」が特異なのは、
『ザブングル』『ダンバイン』『エルガイム』らと違って、
映像が全部流しても、果たして劇中の世界どういうものなのが、まったく分からないこと。
でも、本編を見てるうち、直接な意味はやっぱり分からないけど、
なんとなく伝えたいことが分かるような感じが浮かび上がる。
それが白富野時代のオープニングの特徴。
つまり、直接な「世界観」を触れずに、象徴、つまり方向付けに尽力する。
言い換えると、スタッフに対しての内面的な部分と、
観客に対しての外面的な部分を同時にディレクトする。
のちで『キンゲ』でも見られる手法である。
(こういうのはある意味、東映の演出制と近いといえるかもしれません。
つまり総監督、チーフディレクターはあくまで物語の初めの「方向付け」にすぎない。
実際の内容は若手に任せるというやり方だから、東映が演出家を輩出するのも頷ける)

で、肝心の映像内容ですが、じつをいうと、ぼくも上手く説明できません。
タイトルはDNAみたい。メカはほとんど出ません(それでも最低限の顔見せは済んでる)。
世界各地の歴史遺跡、自然の背景と一緒に出てる裸の女の子たちがメインの映像構成。
オルファンもノヴィス・ノアも1シーン。主人公に至って手だけ出演。
となると、このオープニングが一番重視するのは言うまでもないことだろう。
その通り、富野が描きたいのはまさに女の子の裸…じゃなくて、生命力だ。
DNA、歴史遺跡(しかも多くは深い意味あり)、自然、女性のありのままの姿。
これら意味ありげなものを散りばめてるような映像は、一体なにを意味するのか、
まさに「考えるな、感じろ!」ってことだが、僕自身が感じたのは生命力ですね。

で、この部分は、
どうやらいのまたむつみ氏のキャラに触発されるところが大きいのようで、
富野自身も『イデオンという伝説』のなかでこう言いました。

富野 (前略)この補充説明(注:安彦キャラと湖川キャラついての)でいえば、今回の『ブレンパワード』のいのまたむつみさんのキャラというのは、嫌いなタイプのキャラクターなんです。実際いじってみて、それがはっきりわかりました。けれども、まわりの何人かのスタッフの、特に女の子の意見を聞いて分かったことがあるんです。具体的にいうと、いのまたさんはときどき、キャラクターシートの中にその人物のセミヌードを描いてくる。ヌードを描かないと衣装をつけたキャラクターが作れないんです。で、なぜいのまたさんはこういう絵を描くんだって聞いたら、ある人から「キャラクターを作るときに、付属物から考えてないんでしょうね」という答えが返ってきたときに、ああ、そうかあ!と思いました。いのまたむつみというクリエイターはまず骨格から考えていって、この子のオールヌードのときはこうなんですよって、きちんと組み立てている。背骨やらお尻の尾てい骨やらがあって、それに対する肉付きはこうなんだと。そういうきちんとした体を考えてデザインしている。しかし、イラストにするといのまた絵になってしまう。
>なら、アニメではどう扱ってもいいんだなって確信したんです。「要するに、このキャラの、それこそオールヌードの後ろ姿を見せても、これがこの子だっていうことが分かるよね」って聞いたら、「きっと分かります」ってレクチャーしてくれた方が教えてくれました。そういわれたときに、『ブレンパワード』のオープニングをああいうふうにすることが決まったんです。

───女性キャラのヌードばかりで、皆がびっくりしたという……。

富野 初めは裸を見せる予定じゃなかったんです。でも、そうか、だったら見せちゃっていいんだと思って、ああいうふうにしてみたのです。それは『イデオン』のラストの絵ざまをもう一度再現しようとしたわけではなくて、キャラクターを作る上で、実は肉体が見えてないと服なんか着せられないぞということと、裸が好きだから裸を見せてるんじゃないんだよということが、いのまたキャラを導入することによって見る人に分かってもらえると思えたのです。

こういった絵の感触によって絵作りの感性が発動したのは、
富野の中でもいのまたのほか、安彦の『ガンダム』、湖川の『イデオン』、
逢坂の『Vガンダム』、安田の『∀ガンダム』しかなかったので、非常に貴重だと思います。
あと、
服を着てるほうが逆にすごくエロくて強烈な個性が感じるのも、たぶん、勘違いじゃない。
だから、説明なんかを読むより、まず、または、もう一度、映像を見てください。
そして、考えるのじゃなくて、感じろ。

あと、ものすごく今更ですが、
1分強のオープニングのなかでは、ヒメちゃんはつい服を着てなかった。
ほかの皆はちゃんと着てるのに、ヒメちゃんだけは裸のままであちこち飛び回ってる。
うん、こういうのもなんだかヒメちゃんらしいじゃない?


エンディング:富野由悠季
次話予告も流す、花がいっぱいなエンディングでした。
花は生き物、ときには女性の暗喩にもなれるということだけが分かって、
ほかはもう完全に僕が理解できないものなので、富野の発言の引用するだけ。

──エンディングについてもうかがいたいんですが、荒木惟経さんの写真を使われたのが新鮮な驚きがありました。

富野 荒木さんはご存じの通りのカメラマンですが、写真を撮るっていう技能を先天的に持ってらっしゃると思ってるんです。そういう作品を、実を言えば一度側に置いてみたかった。それだけのことです(笑)。僕も20歳の頃にカメラマンになりたいと、思ったこともあったし、かなり意識してカメラやってみたことあるんですよ。で、僕にはできないということがわかったんです。シャッターを切るのがいつも5秒遅いんです。それで、写真になるフレームが採れないんです。 一度新宿で、荒木さんがカメラを持って歩いてるの見たことがあるんです。その時にも荒木さんの写真の撮り方、タイミングを見て、俺にはできないなと思ったんです。荒木さんが、パッと見て写真にしちゃうっていうことは、つまり、見たときに絵になるっていうことを見通せるっていう、あの感度はなんなんだろうって思います。 エンディングに使わせていただいた花の写真は、逆の意味でショックだったんです。パッと見て撮るというのではなく、ここまでフィックスしていった場合に、今度は光に関しての感度が素晴らしかった。一度会いたかったというのが、ホントの話で、お願いにあがったんです。

……『スパイラルブック』のこの発言は、なんだかすごくロマンチックじゃないけど、
まあ花の演出も見て感じてくださいというだけのことです。

そうだ。この部分は富野大先生のふざけた話より、歌詞のほうが分かると思う。

愛し合う心を 育てていった あなたが
その腕(かいな)を枕に お眠りと 耳にささやく
昼の言葉など 忘れていいから
聞いて free fly free fly 果てなく

父とその母が 歌えなった唄が
弾む free fly free fly 愛をまさぐる唄
信じあって 語りつげば もっと心 滑らかになる

欲深なまどろみ 身を任せて 夢見る
子供たちの心の 灯になって欲しいと




∀ガンダム

前期オープニング:富野由悠季
ついにヒゲさんですが、この一番の見所はまず黒歴史の断片、
つまり過去のガンダム作品の映像が太陽のなかに飛び込むところ。
このような捨てるにも重ねてるにも取れる映像に

刻が未来にすすむと 誰がきめたんだ
烙印をけす命が 歴史をかきなおす

だから、ガンダムファンならきっと誰もかその意味性を考える。
劇中がそのようなものが触れるのはゴレンを初めての一部のムーンレイスだけで、
真相が明らかになるのは4クールに待たなければならないけど、
(でも、結局やはり劇中のドラマを押す以上の意味がない)
ちゃんと「劇中の世界のどこかに存在してるものかもしれない」として、
毎週(話)毎週観客に提示する。
ほかは歌の始めのコーラス、銀河系、太陽とかもその壮大さを伝えようと作用する。

あと、象徴的な人と人の対比。人の関係性、それから目線。
これらも『ブレンパワード』のときに言ってた通り、匂わせる程度の意味しか持てない。
なぜこう言うのかというと、ハリー⇔ローラ、キエル⇔ロラン、グエン⇔キエルなど、
一見まだ路線が固まってないときで作ったものだけど、
キエルとディアナがダブるところは、明確にこの二人の間には特殊な関係が展開するのと、
ロランがこの二人に巡って動くのを示したので、
キエルとディアナの「とりかえばや物語」はすでに出来ていると考えられる。
ディアナとキエルの部分は、このときはまだロランの視線の先として受動的だけど、
後期オープニングになると、二人もOPのテンポに載って能動的になるのが見える。

このオープニングについては、富野は『ターンエーの癒し』では:

 今回のオープニング『ターンAターン』の仕事は、『寺内貫太郎』の舞台があるのを承知で小林亜星先生にお願いした。ぼくにすれば、構想が『∀』なのだから、オーソドックスにいくしかないと考えて、小林亜星という権威を指名させてもらったのだが、ほかの候補が提案されてなかったのは、音楽関係者もガンダムの呪縛がかかっていたからだろう。
 芝居があるおかげで、音楽をうけとるのが、オン・エアの二週間前というおぞましいスケジュールになるとわかったので、オープニングの画面づくりでは、とんでもないことをやった。ふつう、音楽は音フィルムにとり、曲の各フレーズの秒数をだしてから、コンテをきって作画をするのだが、作詞が自分のものだったので、概要の見当がついていたから、先に作画にはいって、音楽を待つことにした。
 また、先生に依頼した段階で歌手の候補はなかったのだが、これも、関係者の仕事をしては極度におそい。
 それが、小林先生から西城秀樹に歌わせたいという提案をうけることになり、ぼくにしてもコンセプトにあうので、知らない新人に歌ってもらうよりは良いと判断した。

そして、このつながりで、『月下美人』という劇中曲を獲得しただけでなく、
亜阿子さんもめでたく西城秀樹に抱かれた女になった。


後期オープニング:富野由悠季
前期と後期がある富野作品のオープニングには、一つの特徴がある。
それはなんとなくつながりが見えて、もう一ステップに進んでるようには感じる。
どういうことかというと、
意図的に前期の終わりの部分の映像を、後期の始まりの部分に置いてる。
言い換えると、もう何十話も見てた前期の印象を、
後期OPの初めのところの(前期から)流用したカットに封じ込めて、
その上に、後期OPの雰囲気を出す。
これによって、よりつながりを出せるし、「新しいステップに入ってる」という暗示にもなる。
『エルガイム』『Zガンダム』『Vガンダム』のオープニングがそう。

そして、この『∀ガンダム』には、流用したカットは無いのだが、やり方は同じ。
前期の(歴史なるものの)断片は太陽のなかに放りこむのに対して、
後期の断片は地球から噴出して、ロランの手のひらに通し光になる。
ここらへんはまさしくつながりである同時に、もう一つ前に進むステップになるわけ。
つまり映像は一新しようが一新しまいが、その繋がりが機能する限り、映像の機能が働く。
うん。我ながら映像の原則っぽく書いてるな。

と、自画自賛はおいといて、
この後期は前期と一番違うのは、なんといっても「色」が違う。
まずキャラの動き、つまり演技は前と比べてもっと柔らかくなってる。
ロランの黄金色の落葉を受け取る姿、ロランとディアナがとんでる姿、ディアナの踊り、
ディアナとキエルのふれ合いみたいな交感、ディアナが手を出してロランと絡むところとか、
前と比べて、非常に躍動感があって、ブライトな雰囲気が出てる。
色使い、歌声、テンポも前期に比べて明るいため、その開放感が非常に感じられる。
こういう前と比べて、壮大さを強調しないで、もっと皮膚感覚的なフィーリングでいくのは、
そのつながり感で壮大さの帰着を描くほか、
宇宙に上がってからの作品の補強という功能もあるかもしれない。
いまいち評価が低いこの曲(とオープニング)らしいですが、個人は非常に好き。

ただし、このオープニングには一つの欠点があります。
それは最後の部分がだらしないと感じる。
この部分について、訳があります:

 あげくのはてに、外部から突然、『∀』の新しいオープニング曲とエンディング曲をつくりたいといってくるから、ますます変になる。
「レコード会社にもペイしなければなりませんからねぇ」
「そんなに売れていないの? ぼく、気に入っているんだけど」
 音楽に関しては、サンライズの吉井社長からも、別の方法だってあったんでしょうに、といわれたのだけど……。
 小林亜星さんと西城秀樹さん、谷村新司さんにだって悪い。といっても、ぼくがCD百万枚を買うわけにはいかないから、暗澹たる気持ちになる。
 そうなれば、と、旧来のやり方なら、オープニングの画面にだって、ターンエー・ガンダムのデザインを例えばマークⅡにする必要があって、翼をつけるとか、強力な兵器を搭載したランドセルぐらいは背負わさなければならないとおもいつく。
 が、そんなことを疲れきっているミードさんに頼めるわけがない。時間もない。
 どうするの?
「オープニングには、ターンXとバンデッツをだせばいいんですよ。それで勘弁してもらいましょう」
 こういうときの富岡プロデューサーは、賢くも冷静である。

こういう場しのぎのやり方だから、ターンXとバンデッツをパッと出して、
最後でチラッと違う方向に向かうところなんかは、意味性としては分かりやすいけど、
全体から見れば、やはりあまり締りの無い映像と言わざるを得ない。
こういう部分に関しては、すごく惜しいだと思います。


前期エンディング:富野由悠季
非常にシンプルかつ緩やかな映像構成なんだけど、
一貫してロランとキエル・ディアナの関係性を描くものでした。
ほかの意味性は……じつをいうと僕にも良く分かりませんので、ご想像に任せます。


後期エンディング:富野由悠季
このエンディングが特別なのは、実は1カットで構成してるところ。
普通1カットで構成するものは変化に乏しいことになるわけだが、
ここは背景(宇宙)を流れることと、ディアナのメタルフォーゼによって、「変化」を描く。
つまり、長くて変化がないカット(時間の長さを感じさせるもの)と、
ずっと流れる宇宙の景色(空間の流れ)で羽化はより強調される。
で、蝶は何を象徴するものか、ディアナとどういう関係なのか、
エンディングですから、オープニングが何かを提示するのと違って、
逆にその観後感を求めるものになってる。
だからどういうことかというと、やはりご自分の感想に任せますとしか言えない。

最後の地球―月―光ってのは、『ターンエー』のテーマだけでなく、富野一貫の手法。
ただ、昔は光は太陽という強烈なもので、今回は月光蝶の光に取って代わる。


長く書いちゃったので、元々『キングゲイナー』まで進みたいのだが、次回でまとめて書く。
しかし、はじめて書いたとおり、白富野のOPEDの分析は難しいだな…。


『イデオン・ライナーノート』から見る富野喜幸、亜阿子さん、井荻麟、斧谷稔、湖川友謙

2008/11/21 22:29|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:2
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富野が書いたもののなかでも、おそらく本人が一番黒歴史化したいもの、
それが『イデオン・ライナーノート アニメの作り方を教えます』。
その一部から当時の富野のはっちゃけっぶりを見ましょう。

――うるさい連中

「オールド? ホワイトでいいですよ。ホワイトで。奥さん」
 井荻が亜阿子のことを”奥さん”というのははじめの10分内間だ。オン・ザ・ロックを1口飲んだ瞬間に、”あゝ子さん”に変わる。
「すみませんねぇ・この近くにはお店がないんです。これで……」
 えらくつっけんどんに亜阿子はいいながら、火燵の敷き板(テーブルといいたいが……)の上に置く。
「あ?」
 井荻はそのピンの首を反射的につかんで、蛍光灯に透かして中の量を調べる。
「大丈夫です。買い置きが2本あります!」
「だから、この家の隙間風がなおらんのだ。高い酒はいらんのよ。貯金して家の隙間風をなおしなさいよ。車だって10年同じのに乗ってさ」
 井荻はオン・ザ・ロックを作り始めながらいう。
「あなた、食事します?」
 亜阿子は井荻のことばを無視して、ぼくのほうに振り返った。怒っているのだよね。夜の10時過ぎに井荻麟を連れ込んできたのだから。サンライズのスタジオを出るときに電話の1本もすればよかったのだが、あのブロンソン髭の並木が、
「明日までには企画書の骨子とラフストーリーをあげていただきませんと……」
 このことばに、何が明日だ! 今夜は井荻と打ち合わせをするから書けないよ、と飛び出してきたというしだいだ。電話をかける気分になぞなれるわけがなかった。
 井荻麟。ぼくの中学時代のクラスメートだ。ぼくが関係した『機動戦士ガンダム』という作品の5つの歌の作詩をしてくれた。5年ぐらい前までジャズだが何だかのバンドのマネージをしていたのだが、何を思ったのか小田原の山の中、和留沢にひっこんだ。3キロも山を登ると箱根の強羅が見下ろせという、本当に山の中なのだ。井荻はそこで盆栽を作り、東京方面に流す仕事をやっている。
「こっちのほうが金になるし、足柄平野を見下して、星が輝くさまを見て暮らす。こりゃ、人間復活よ。東京は人の住むところじゃあない」
 で、ガンダムのときにやつのことを思い出して作詩をやってもらったわけなのだ。
「金はいらんけどね。こんどはオレの詩に手をくわえるのはやめてくれよ」
 スタジオに来るなり、こういったものだ。
「だったら、責任を持って録音に立ち合ってくれ。作曲家、録音ディレクター、アレンジャー、いろいろいるんだから」
「盆栽は生き物なんだ。半日がかりの録音に立ち合えるかよ」
 そして、彼はブロンソン髭と何やら話しこんで、ぼくは斧谷稔にも電話をして社を出てきたというわけで、亜阿子の気分なぞ想像する暇なんてまるっきりなかったのだ。
 火燵の脇から立つ亜阿子が、ぼくに険悪な眼を向けて”あなた”という。その目つきにぼくはおびえて台所へついて行く。
「前もって教えてくれれば支度したのに。何もないのよ」
「マグロのフレークのかんづめでいい。あとは白菜漬けか何か……。腹減ったらインスタント・ラーメンでいい。インスタント……」
「斧谷さん、口のおごった人だから……」
 で、チャイムが鳴る。
「こんばんわ」
 ちょっと神経質な斧谷の声がする。
「おう!」
 井荻が立って玄関のチェーンを外してくれる。
「相変わらず顔色よくないね、あんた」
「そうですか?……奥さん。しゅうまい買ってきました」
 斧谷はいいやつだ! ぼくはつくづくそう思う。もっとも、あののっぺりした頬のこけた顔で理屈をこねることがなければ、の話だが。
 大体、ぼくの頭の中に理屈はないんだ。映像がわいてくるんだから仕方がない。これは、ブロンソン髭にも井荻にも斧谷にもとめられるものじゃない。

*ソロ星の3つの月のうちの1つの近く(省略)

「お前さんはまじめじゃないから、画だけが羅列されるんだ。イデオンはいい。が、だ……なぜにロボットの名前がイデオンなんだ? なぜ、第1話からコスモって坊やが操縦できるのだ? 巨大ロボットもいいが、巨大ってどのくらいの身長なのだ? なぜ、イデオンが遺跡にあったのだ?」
 井荻がまくしたてる。ま、やつのいうことは正しいようだなと、ぼくだって思うさ。
「けど、番組の条件があるから……」
「でもね。いま、井荻さんのいった”なぜ”を物語の基本設定の中でつなげる作業をしておかないと、マンガもマンガ。ロボット・プロレスにもなりませんよ。高千穂って、若いSF作家いますよね? いまってますよ。レスリングにもなってないロボット・プロレスって……。とにかく、『ガンダム』のときみたいにコンテで帳尻合わせをしてくれなんて話、ぼくはイヤですからね」
 今夜の斧谷はよく飲んだよね。ぼくを肴に飲むオールドはおいしいらしい。
「そのへんがわかるようになったから、お前らも相談してんじゃないか……」
 ぼくは、ようやく抗弁するチャンスを得たと思っていった。
「遺跡の発想はいいね」
 井荻だ。
「ですけど、敵方の問題もありそうですよ。バッフ・クランっていいましたね? その当面の仇役のギジェ、どうするの? また『ガンダム』のシャアのようにマスクつけるんですか?」
「そんなことさせるな!」
 これも井荻だ。
「マスクはあたるんだぜ!」
 これはぼく。
「ワン・パターンですよ」
 と、斧谷。
「あゝ子! お前、先に寝ろ! こんな2人の面倒をみる必要なんかないぜ!」
 ぼくは本気で怒ったんだよね。亜阿子は、あくびをのみこんで、じゃあそうするわ、ごめんなさいね、と立ち上がった。
 そしたら、井荻の馬鹿がこういったんだ。いつかやつはブットバシテやる。
「お前がそうもキッパリいうのは心楽しいものだ。あゝ子さんは結婚以来、お前のその科白を待っていたのよね」
「ハハハ!」
 亜阿子が笑いながら階段を上がって行く。こりゃ、問題だ。
「キャラクター・マンは誰にするんです?」
 ぼくの怒りに燃えた表情に水をさしにくる斧谷の科白こそ絶妙だと思う。
「え?……」
 うかつに答えてしまって、しまったと思う。
「ギジェにしても、バッフ・クランの世界を決定づけるのも、これすべてキャラクター・マンの画しだい。このくらいのことはオレにもわかるよ」
 井荻はグラスをあおってから、三白眼をぼくに向ける。
「スケジュール的にはオーケーだって、湖川がいってくれた……」
「……『ダイターン』のときに敵方のキャラを作ってくれた人ですか?」
「うん。むずかしいやつだけどね。いいと思うんだ。やつは……」
「そうですか! よかった。湖川さんがやってくれるのなら、いいです。うまくいきますよ」
 斧谷の野郎! 本当に殴り倒してやる。湖川ならよくて、ぼくは手足まといなのか!?
 あの湖川も生意気なんだよね。竜の子プロの仕事のときに会ったのがはじめてだったと思う。『ポリマー』か『ゴーダム』か? 『キャシャーン』じゃないと思うけど……。髭を生やして偉そうに構えてたんだ。
「今回の原画をやります湖川です」
 といったやつの顔を見たとき、てっきりぼくより5つ歳上のアニメーターだと思ったんだ。キャリアのあるアニメーターは、ぼくにとって辛いのよね。歳負けするから……。で、あのときはぼくはすごくへりくだったんだ。
「よろしく……」
 って。
そしたらさ、去年の正月だよね。やつをぶっとばしたくなったんだ。あいつはぼくより歳下なんだ。冗談じゃないよ! 安彦より歳下なんだ! それだけじゃない! よりによって安彦の出た高校の後輩なんだって! あんな北海道の僻地! 網走のさきの高校なんだよ! なんでそんな僻地の人間がぼくのそばに出現するのさ! ぼくは小田原っていうすごく温暖な土地の出身なんだ! わざわざ寒いところの人間が2人そろって現れることなんて金輪際ないはずなんだ! それが、こうだ! 冗談じゃないよ! まったく!……あ、やや感情的……。
「あの方はいいですよ。女性が描ける」
 斧谷がとろんとした眼でいうんだよね。
 ま、ぼくにしても、湖川の”女”の部分がほしいと思ったから彼をと思ったんだけどね。しかし、あの歳下だったっていう絶望感。これはいまだに払拭できないことなのだ。
 が、冷静にいえることは、あの湖川ならいいギジェ・ザラルを描くだろうと思う。
 ナイーブでチャンバラも出来て、しかもジャジャ馬カララと所帯を持ちたいと思える優等生的キャラクターを……。

いま見ると、非常にシュールだといわざるをえない。
だって富野が井荻と斧谷と会話してるしwwwwww
斧谷は別の資料でも出てるからいずれに紹介するが、
井荻のあの設定は何なんのwwwww
盆栽wwww 山の中wwww
と、真面目に答えると、おそらく半分井上大輔氏の設定が混ぜてると思う。
ということで、この資料が掲載された時点、つまり1980年5月のとき、
言い換えると劇場版『ガンダムⅠ』の前にも関わらず、
富野はすでにある程度井上さんと連絡を取り合っていたと思われる。
で、前も言ってた通り、
富野が井荻麟の正体をバラしたのは『哀・戦士』の記者会まで待たなければならないから、
この時期は正直謎の作詞家と思われても仕方ないと思う。

これを見て、富野のなかにいくつかの人格みたいのようなモノが戦っているという言い方も、
ある意味ふざけることでもないと思う。
しかし、一番おもしろいのは富野はずっと井荻と斧谷に押されてたままという部分。
これはおそらくいつもの俗物vs分かる人という構図で、
他人を貶すことは富野の性に合わないから、わざと自分を俗悪の代表みたいに描いて、
本音は井荻と斧谷に頼むという方法だと思う。
こういうのを見ると、
きっと当時富野の周りにはギジェをマスクキャラにしたい偉い人がいるんだろうなと、
思わず邪推したくなるよね。

ほかには亜阿子さんとのリアクション、湖川に対しての評価や思いが見られて、
結構面白い一節だと思う。


30周年に向けての悩み

2008/11/20 19:29|未分類TRACKBACK:0COMMENT:0
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最近、悩んでることはいくつがあります。
30周年は新作があるかどうかは勿論一大事ですが、
僕の悩みといえばもっと単純で直接なものです。

これと↓、
日めくりタイムトラベル 昭和54年 平成20年11月8日放送

定点観測「ガンダム」 リポート:佐藤仁美

今なお熱心なファンに愛されるアニメ「機動戦士ガンダム」。しかし、放送が始まったこの年は、視聴率が5%に届かず人気は低迷。「ガンダム」制作現場は常に「打ち切り」と背中合わせの状況だった。そんな状況下で富野由悠季総監督は、おもちゃメーカーの宣伝用と言われるロボットアニメの状況を打開し、「大人も納得する物語」を作りたいと挑戦を続けていた。果たして、富野監督の思いは届き、「ガンダム」人気は得られるのか…「機動戦士ガンダム」死と再生の1年を追う!


これです↓。
ANIMAX アニメ見るならアニマックス : 機動戦士ガンダム 30周年記念特別番組

2009年はアニメ「機動戦士ガンダム」が放送開始されてから30周年目を迎える年です。
アニマックスでは、「機動戦士ガンダム」の放送開始30周年を記念して1月1日午前0時より「機動戦士ガンダム」のテレビシリーズ全43話の一挙放送を行います。

全43話(21時間30分)を3部にわけて放送します。

各話の冒頭では、富野由悠季総監督や豪華クリエイター・声優陣からのスペシャルコメントやここでしか観られない貴重な映像を放送。また、「私とガンダム」企画で視聴者の皆さんから寄せられた「機動戦士ガンダム」にまつわるコメントやエピソードなども番組内でどんどん紹介していきます。


どれもてんこ盛りのビッグコンテンツですが、ここには大きな問題がいます。

日めくりタイムトラベルはご存知の通り、再放送はほとんどしない番組のため、
一度見逃すと、もうなかなか見れません。しかし、私は見逃した。
アニマックスのガンダム一挙放送も
「各話の冒頭では、富野由悠季総監督や豪華クリエイター・声優陣からの
スペシャルコメントやここでしか観られない貴重な映像を放送」という憎い内容だから、
見ないほうがおかしいです。しかし、私は見れない。

録画できれば、あるいはなんとかなるかもしれませんが、
あいにく、海外じゃ録画どころが、そのチャンネルさえいませんというのは現実。
だから、今とても悩んでいます。なんとか見れる方法は無いのかな…。


▽続きを読む▽

月刊モデルグラフィックス2007年9月号シド・ミード寄稿部分

2008/11/20 18:47|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:0
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■月刊モデルグラフィックス2007年9月号富野発言部分
■月刊モデルグラフィックス2007年9月号富野インタビュー部分


今日はこのシリーズの最後だ。

          「モビルスーツガンダム:ターンエーエディションに寄せて」
『ターンエーガンダム』シリーズのための各種モビルスーツのデザインワークを手掛けた際、富野由悠季総監督やサンライズのスタッフの皆さんとの共同作業を楽しむことができたのは、私にとってすばらしい体験であり、いまなお忘れられない思い出です。

 このプロジェクトに参加すべく私が東京に向かったのは、1998年7月28日のことでした。ロサンゼルスから成田への機内でターンエー用のキャラクターのうち2体を描き上げたのを覚えています。成田に到着した翌日、バンダイビジュアルの渡辺 繁氏を軽い昼食をごいいしょし、さらにそのあとはアメージングな”サシミ レストラン”にも連れて行っていただきました。
 サンライズでの私のデザイン作業のパートナーを務めてくださったのは堀口 滋氏でしたが、同社のスタジオで午後の約4時間を過ごすうちに、私たちは共同作業に必要な信頼関係を築き上げました。それがこのプロジェクトを終始支え、新しいガンダムのキャラクターを生み出すという仕事をより快適なものにしてくれることにもなったのです。
 私の直接の仕事は、大河原邦男氏の”トラディショナル”なガンダムのデザインを踏まえつつディテールに変化を加えて、ひと目でガンダムとわかり、なおかつ、”ニュー ジェネレーション”なものであることが感じられる、まったく新しいキャラクターを作り上げることでした。サンライズの井上幸一氏から貴重な意見をいただいたあと、私は従来のガンダムを新しいビジュアルフォーマットに落とし込んだ、しなやかかつ強靭なルックスを持つ新ガンダムのデザインを完成させたのでした。

 今回、バンダイがリリースした最新世代のガンダムには大いに満足しています。私のオリジナルスケッチをより緻密にフォローしたディテールを満載されておち、自分のデザインワークの最終的な結論をプラスチックというかたちで手に取って確認できるときを私は待ち焦がれているところです。
 20年来、アニメーションの”イコン”であったキャラクターを自分の手法でデザインし直すというのは、確かにシリアスなチャレンジでした。しかし、サンライズのデザイン部門のスタッフ、富野監督、金型技術者の皆さんとの共同作業の結果、かつてのターンエー プロジェクトは、高いスキルを備えたプロフェッショナル同士のコラボレーションの賜物であることが改めて証明されたのです。

 また、大河原さんに氏の自宅でお会いできたのも、すばらしい想い出のひとつです。テレビ番組放映時、本シリーズは大変な興奮をもってファンに受け入れられたとのことで、いまなお私はターンエーのデザインプロジェクトが――もう一度申し上げますが――日本のトップレベルのデザイナーや金型技術者諸氏との得難いコラボレーションの機会であったと思っています。

2007年8月6日
カリフォルニア州パサデナにて
シド・ミード


Here are my recollections about working on the MOBLIE SUIT GUNDAM: TURN "A" Project at Sunrise.

MOBILE SUIT GUNDAM: TURN "A" EDITION

I remember very well the beatiful experience I enjoyed working with Tomino-san and the Sunrise staff while designing the series of robots for the Turn "A" series. On my first trip to Tokyo on this project on July 27th, 1998, I created two of the Turn "A" robot characters during the flight from Los Angeles to Narita. I arrived at Narita airport on July 28th. I had a light lunch with Shigeru Watanabe-san from Bandai on Wednesday, the 29th and dinner that night at an amazing Shashimi restaurant. During the afternoon, I met the President of Sunrise, Mr, Tomino and the Sunrise staff. My design partner at Sunrise was Mr. Horiguchi. In about four hours at the SUNRISE stuidios, we estabilished a working relationship that would last through the entire project, and make the job easier to design the new Gundam character. My job was to take Mr. okawara's traditional GUNDAM design and shift details to produce a "zero base" character instantly recognized ad GUNDAM, yet be a "new generation". After valuable comments from Mr. Koichi Inoue, I produced the new GUNDAM; a lithe, athletic looking design that abosorbed the GUNDAM tradition into a new visuak format.

I am greatly pleased with the latest generation of GUNDAM just released by Sunrise/Bandai. There are details that follow more closely my original sketches, and I am waiting to see the final result in my hands as a kit. Redesinging a twenty year anime icon was a serious challenge. Working with the Sunrise design staff, Mr. Tomino and the careful craftmen who make the molds proves that projects like GUNDAM: TURN A are a collaboration between many skilled professionals to produce the final result.

One of my great experience was to meet Mr. Okawara-san at his house and studio. The series was received with great excitement on TV, and I consider the GUNDAM: TURN "A" design project a great opportunity to once again work with some of the best designers and craftsmen in Japan.

SYD MEAD: PASADENA, CALIFORNIA: AUGUST 6, 2007

見てくださいよ、あのおっぱ…じゃなくて、どんなに純粋で愉快な方なんでしょう。
素直に自分や他人を褒めつつ、感謝の言葉を述べる姿は、本当に輝いていると思います。
富野はこれを見て反省しなさい(半分冗談なんです。半分)。

ちなみに、あの翻訳はかなりいい加減なので、真摯のミードさんが見たいなら、
下の原文を読むのがオススメです。


月刊モデルグラフィックス2007年9月号富野発言部分

2008/11/19 23:02|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:0
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■月刊モデルグラフィックス2007年9月号富野インタビュー部分


さて、今日はまたMGターンエー特集から文字起し。
解説文は前編と同じあさのまさひこ。

富野由悠季総監督が語る、「∀デザインの真実」とMGターンエーガンダムの存在意義
どうやら富野監督の目には、MGターンエーガンダムを通じて「見えなくてもよかったもの」までもが見えてきてしまったようで…

 ぼくにとってのシド・ミードさんとの出会いというのは、ミードさんが’60年代に描かれたイラストだったんです。そして、ミードさんを好きになったきっかけというのは、画描きとしてのタッチの部分でした。しかしデザインに関して言うと、造形としてそれほどおもしろくはないというか……つまりどういうことかというと、映画のフィルムやモデルに向けた造形とはちょっとシンプルすぎると感じていました。
 ただし、ミードさんデザイン参加した『ブレードランナー』(’82年)という作品にはああいった独特な世界観があったため、本来ミードさんのなかにはなかったかもしれない資質がひょっこり顔を出したように見えてしまい、ある意味、そこでミードさんのことを過大評価してしまったのかもしれないと思っています。
 そしてそのあと、『機動戦士Zガンダム』(’85年)用の宣伝ポスターを描いてもらったり、それとは別にミードさんがガンダムワールドのイラストを何枚か描いていたことを知っていたので、そうした仕事が画描きとしてそれなりによいチャレンジをしてくれていて、「あ、本気になって描いてくれているな!」ということがわかったから、それでターンエーの仕事を頼む気になったんです。「ここまでの画をロボットもので描ける人ならば、必ずや(歴代ガンダムにはない)新しいものが出てくるだろう」と思ったわけです。でも、完全新規でデザインしてもらったら大変なことになってしまって――というのも、最初のラフスケッチの段階ではまったく”キャラクター”になっていなかたんです。
 それをわかりやすく言うと、「けっきょく、ミードさんというのはやはりインダストリアルデザイナーであって、キャラクターデザイナーではなかったんだ」ということだったのです。
 じつを言うと、あれぐらいのレベルのアーティストになってしまうと、描き上がってきたデザインに対しぼくのような演出家からは注文を付けられないものです。基本的に、人選をした瞬間に覚悟を決めなくちゃいけない。デザインワークのなかでの変更やアレンジは、その人の能力に任せるしかないんです。
 ただし、その「キャラクターになっていない」というのをミードさんもじつは感じていたkら、そのあと突然”ヒゲ”を持ってきたわけです。そのことは画を見た瞬間にわかりましたから。
                         ●
 もちろん、ぼくのほうからも「このヒゲは撤回できないのか?」という話をミードさんにしました。
 だけど、けっきょくいまいったとおり、「インダストリアルデザイナーの資質のほうが強い画描きにとってのキャラクターの立たせ方」というものを考えた場合、ヒゲぐらい付いてないとキャラクターに見えない問題はありました。
 あと、ミードさんのラフスケッチで見るヒゲって、すぐくきれいなのよね、不思議と。だからその部分で半分はだまされたのかもしれない(笑)。ただしもう半分は、ぼくのほうの造形論に確固たるヴィジョンがなかったのかもしれないですね。
 さらに、ミードさんのインダストリアルデザイナーとしてのファインな線で見たときに、ヒゲが付いていないと、既存の日本人デザイナーによる歴代ガンダムのデザインに傾斜しているようにも見えてしまう。そして、それがミードさん自分とてもイヤだったんだろうなということも理解できたから、「じゃあヒゲで行きましょう」という話で了解したわけです。
 それと、あともうひとつ言うと――これはぼくがいつもやっていて、じつはいつも失敗していることなんだけれど、「新しい才能をとにかく見つけていきたい」と思う部分がとにかく大きすぎた結果、このデザインでOKしてしまったという……それは、旧来のガンダムファンに対して「こういうデザインもアリなんだよ」ということをカウンターとして見せておく必要があるだおると思ったからやったということでもありあります。
 もちろん、当時65歳だったミードさんに仕事を依頼したのは、多分にリスキーでした。その部分に関しては「まちがいなくまちがいだ」ということはわかっていました。それでもミードさんに頼んだのは、当時のアニメ業界で”メカデザイン”と呼ばれているものが完璧にひとつのものに固まってしまっていたんで、絶対に新しい血が必要だということでお願いしたわけです。
 そして、やはり総論としては、ミードさん――つまりは、65歳の外国人のおじいさんに頼んだということはまちがいでなかったということだけは、はっきり言えますね。
 というのは、ターンエーをやったことによって、それこそカトキハジメ事後の若いデザイナーたちがまちがいなく反旗を翻したというか、意義申し立てをした気分があるからです。
 つまり、あそこでああいう反面教師を立てて一度区切りを付けなかったら、あのままみんなズルズル行ってしまったんじゃないかと……ターンエーの前にあったほかのガンダムだけが続々と小プーされていって、「割れ鍋に綴じ蓋を与えないまま、さらに鍋が割れていく」みたいな感じでどうしょうもないものがどんどん溢れ出てきてしまい、当時から現在までの8年間という月日が持たなかったんじゃないかという気がするんです。
                         ●
 ただし、いまこういう話をした上で、改めて造形論という部分でターンエーを眺めて直して、今日、ぼくは「このデザインではキャラクターとして生煮えだな」ということがようやくはっきりとわかりました。やっぱりこれ、プロトタイプなんですよ。ヒゲガンダムのプロトタイプ。ここからもう2~3回手を加えたらもっといいものになったな、って――つまり、いま、このデザインの欠陥が見えて、どう直していったらいいかということもわかりました! う~ん……困ったなあ(苦笑)。
 このモデル(MGターンエーガンダム)を見ていると、「キャラクターを作っていくときにはランドセルというものの存在がすごく大事なんだ」ということが改めて確認できるし、そのあたりをデザインのなかでミードさんに拒否されてしまったことを、ぼくのほうできちんとフォローできなかったのもよくなかったと言えますね。それでいて、逆に、ここ(脚裏側のスラスターベーン)の処理なんていうのは、もう死ぬほど上手いと思うわけで、ここをもっとキャラクター化したいと考えます。
 つまりは、脚に関しては「外観から機能が見える」という原則をここまで見事にやっているのだから、「だったらそれは腕などにももう少しきちんと反映されていなくちゃいけなかったんじゃないの?」というバランスの悪さが問題なんです。
 ただし、そうした欠陥をはっきり意識させてくれたという意味において、ぼくはこのモデルを非常にありがたいと思っています。やはり、8年前のモデル(旧1/100キット)では、「ああ、オモチャよね」って終わりなんです。でもそのリアル志向のモデルからは、ターンエーの本質的な造形の問題が見て取ることができるのです。
 どういうことかというと、いろいろ意味でこのモデルが「よくできている」からだということです。ミニチュアモデルというのはじつをいうと元々、それを組み立てている途中に、1/1の実物が持っている造形の問題を教えてくれるものなんです。そういう意味では、「ここでようやくガンプラがミニチュアモデルと化したんだよね」とも言えると思います。
                         ●
 しかし……すごいねえ、このモデル。これを見て、改めて「サンライズの近くにいるスタッフはいい仕事をしてくれているのかもしれない」と思えてきたんで、ぼくはとてもうれしいです。そういう意味では、じつは信用していなかったんですよ、この企画。でも、この仕事ぶりは本当に捨てたものではないですね。
 で、すごいと同時に、これはやはり「日本人が第二次世界大戦後やってきたことをきちんろやっている」ということなんです。日本の自動車メーカーがアメリカのメーカーを追い越したのも、アメリカの技術を紐解して、そこから「自分たちは何を作りたいか」というのがはじまったわけだから。そして、今度はそうしたものが、これまで”オモチャ”と揶揄されていたようなレベルにまで振りできた。それゆえにこの世界はこれ以後、ワールドワイドなものになっていくんじゃないかと思いますね。ポケモンにずっと勝てないでいたガンダムが、もうちょっとだけポケモンの脇で大きく置かせてもらえるようなっものになるんじゃないか。
 つまり、ついに、この年代(=ハイティーン以上)向けのものを拡大していくインテリジェンスを手に入れたのかもしれないと少なからず思えるようになったと感じています。

前編のインタビューと同じ、正直やはり僕はこの文章が嫌いだった。
1年間何回も読み直しましたが、やはり合っていませんでした。
どの部分が違和感を感じたのか、ぼくも上手くいえませんが、
たぶん、富野の自己言及が多すぎる部分かもしれません。
ミードさんに対する発注や評価、デザイン論、キャラクター論、ビジネス論…とか、
様々の論点から論じても、どうしても富野が自分に対する反省しか聞こえない。
つまりある意味、富野自身がでしゃばり過ぎたと言えます。
もちろん、これは富野の発言だから、富野色があるのは当然といえば当然だが、
ミードさんの純粋たる熱意(∀の仕事に対しても、今回のMGに対しても)と比べれば、
正直富野の言い放題も浅ましく見える。

それと、造形論に関しては、
やはり日本からの視点に過ぎませんということも強烈感じました。
どういうことかというと、
いくら富野が広い視点を獲得しようと、いくら富野の感性がどんなに広いといえども、
それもやはり最大でも日本の視点、日本の感性としかなりえないこと。
だから、ある意味……非常に言いたがらない言い方なんでしょうけど、
それはやっぱり富野由悠季の限界かもしれません。

もちろん、さっきで言ってた通り、この人の柔軟性は半端ないし、
受け入れるものや、考えていることもおそらく、
そこらへんの業界の「プロ」たちを遥かに越えるものだが、
少なくこの手のメカやデザインに関しては、最大でも日本中だけで、
万世の普遍性まで行ってはなかったという感じがあります。
(もちろん、仕事に縛られている感じもありますが…)
ただし、ここ言ってた限界というのは富野由悠季という人の限界であって、
作り手としての富野由悠季の限界ではありません。
ここはきちんと分けて考えないといけません。
(当然、簡単に「日本」というカテゴリを持ち出すのも安易でいやらしいですが…)


というような仰々しいことを言いながら、結局、ぼくがこの記事嫌い一番の理由は、
おそらく僕自身は未だにこの内容を消化しきれなかったからかもしれません。
ここらへんはもっとじっくり考えさせてもらわないといけませんので、
これからも少しずつ感性を磨いてるつもりです。


富野作品のオープニング、エンディングと絵コンテ(4)

2008/11/18 23:32|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:0
このエントリーを含むはてなブックマーク はてなブックマーク - 富野作品のオープニング、エンディングと絵コンテ(4)
関連記事:
■富野作品のオープニング、エンディングと絵コンテ(1)
■富野作品のオープニング、エンディングと絵コンテ(2)
■富野作品のオープニング、エンディングと絵コンテ(3)


さて、今回は第4回ですが、このシリーズは全6回という予定です。
5回目はキンゲまででは時間順通りなんですが、
6回目はこれまで語った富野作品以外のOPED絵コンテということで、
時間順列を飛ばさせてもらった。


機動戦士ガンダムZZ

前期オープニング:滝沢敏文
……悪名高い「アニメじゃない」ですが、いざ検証してみると、本当に困ったもん。
何せアニメなのに「アニメじゃない」という、普通に意味を味う前に違和感が。
一応大人に対するカウンターとして打ち出して、テーマと合致する気がしないでもないが、
「アニメじゃない」のせいで、なんだかヤケクソになっちゃうようにも聞こえるので、
とにかくとても困るものなんだ。

さて、映像面ですが、やはり路線がまだ固まってないせいか、
ひどく概念的なイメージしか出ていない。
地球と宇宙の対比。人間、それからニュータイプの進化。ヤツの叫び
宇宙を俯瞰しながら進んでゆく。それだけしかなかった。
敵は誰?知らない。ほかの人や世界との関係性は?知らない。
映像を見る限り、ジュドーがいままでのニュータイプより一歩先という位置にいるのと、
シャアのアンチテーゼになるかもしれないということだけが分かるオープニングでした。
Zのカットの処理はかなりテンポがいいけれど、ずっと進むだけ。とにかく進む。
「進む」という意向は勿体無く表してるのが良いだが、
それ以外のものほとんど入れてないのはどうも…。
あと何気に珍しく人物で最後を締めるオープニングだが、
決めポーズという固まった部分は富野らしくない。

と思ったら、富野コンテじゃない。また滝沢さんが手がけたもの。
でも、イデオンのときと違って、かなり富野の意向を沿ったものなんじゃないかなと思う。
ただ、路線やらいろいろ制作の事情でこうなっただけで、
表現したいテーマはちゃんと伝えてた。
が、曲を含めて、嫌がらせをするのはおそらくあると思う。
第一「アニメじゃない」で日本から写すあたりは、興ざめしないほうがおかしい。

ここにちょっと富野の発言を。

「あの曲にガンダムの絵をあわせたオープニングを作ったんだけど、腹が立つくらい絵とあわないわけです。あたりまえですよ。アニメというジャンルをもう一度本気で考えなおしていきたい、そういったコールサインが欲しかったのです。」「ファンにとって永遠に嫌悪感として残ったとしても、ガンダムっていうのもアニメの作品なんだから、ああいう姿であるべきなんじゃないか。ガンダムのファンであの曲がきらいな人がいたとすれば、何故きらいなのかを自分の中ではっきりさせてほしいですね。 それがでるならばその人はクリエイターになれます。」

また、ZZ出た以後は一部差し替えのオープニングも存在しているが、ここでは無視する。


後期オープニング:斧谷稔・滝沢敏文
一般的は前期より圧倒的に評価がいいこのオープニングですが、
中身を見ても、やはりそのような評価は納得できる。
第一、意味ありげなシーンは前期より圧倒的に多く、
雰囲気もようやくふざけてない感じで作品に載るだけでなく、
作りもいままでの富野作品に似たようなもので、正道に沿ってる正統派とはいえる。
人が並んでる演出、合体バンク、敵の顔見せ、主人公が何かを見つめるなどと、
言わずもがな100%富野の演出がてんこ盛り。

それと、意外というか
一番最初に入ってる人物は主人公のジュドーじゃなくハマーンで、
プル→ハマーンの件もハマーンの弱さを表すというか方向付けをしたあたりから見て、
もしかしたら、富野はファンが想像するほどハマーンを無視してないかもしれません。

あと、ジュドーのヘルメットが写すものの改変も見逃せない。
前期はそのシーンを中盤に置いて、
地球、コロニー(+ニュータイプの光?)という前進の方向を示すのと比べて、
後期は終盤に置いて、むしろ戻るべき場所という意味が強くなってる。
このへんの違う意味性を与える演出はZガンダムの前期と後期OPでも見られるので、
興味がある人が一度探してみてください。

後期の絵コンテは富野以外、滝沢もクレジットされてるが、
滝沢が富野のコンテを修正するらしい部分が見かけず、
おそらく前半流用パートのためにクレジットされたからと思われる。

欠点といえば、このオープニングも微妙に曲とずれてるところかな。
個人的でいえば、プルがジュドー、ハマーンに次ぐ出番が多い人が嬉しい。
(こういういった点から言えば、かなり武断の推測かもしれませんが、
女性たちが並ぶシーンは、その位置が富野のキャラに対する興味を示してるものだと思う。
つまり、つまらない(興味がない、演出し甲斐がない)キャラであればあるほど前にいる。
あくまで個人の感想ですが、劇中から見ればかなり合うんではないのかと思ってます。
でも、そうなれば中盤でさっさと死んだプルのポジションがとても重要っていうことになるが、
プルの立ち位置は後になればなるほどフォウに近いというのは見逃さないでほしい。
じゃあ、プルとプルツーの関係はどうなるのかと言われたら困るのだが…
どうやら富野(もしかしたら遠藤かもしれません)のなかでは、
プルとプルツーはまったく同等なキャラとして見られるかもしれません。
そのへんはじっくり考えないといけませんので、また別のところで)


前期エンディング:斧谷稔
人が下に進んで、地球が上に進んでるだけのエンディング。かなり穏やかな感じ。
新世代の子供たちの可能性を謳うようなものでした。
地球―出発点―明るい、月―困難―光を遮断するもの、太陽―希望―微かな光
という演出は、いかにも富野らしい。


後期エンディング:斧谷稔・滝沢敏文
この絵コンテは滝沢があるかどうかはちょっと分からないだが、
富野が手がけたのは確かなので、富野が作ったものということで語ります。

とはいえ、あまり特別な技法も意味性もないものだと思いますが、
時代、あるいは人に対する成長してほしいという願いかけが映像だけでなく、
歌詞のなかでも表した。
(余談だが、この曲はZZのなか唯一の井荻麟作詞でもある)

そうそう、手を伸ばすのは何か求める象徴で、富野由悠季の原理原則なんですね。



機動戦士Vガンダム

前期オープニング:富野由悠季
まず個人の好みから言ってしまえば、一番好きなオープニングである。
明るい曲調にポジティブな歌詞なんだけれど、
軽い画面なんて実はほとんどありません。どれも戦うか、重い表情ばっかり。
こういう部分は逆に違和感を呼び、ウッソが何かを抗う感じをさせた。
作詞家は井荻麟だから、このへんをこうしたのはおそらく意図的なの間違いない。

マーベットとクロノクルの重々しいカットの後についてジャンプというのは、
ある意味、主張と主張の間に挟まられていながらも、
自ら持ってる生命力で突破するウッソを示すシーンといえるかもしれませんが、
特に目に入ってるのは、やはりウッソとシャクティの一連のシーン。
一番目(①)はシャクティが走ってるところに、ウッソのアップが入ってるシーン。
二番目(②)はシャクティの模様になった星を求めてウッソが両腕を開けて走るシーン。
三番目(③)はVガンダムの目が一瞬でシャクティの姿を映すシーン。
それぞれがちょっと違う意味を意味するが、共にウッソとシャクティの関係を示すもの。

まず一番目ですが、一見何の変哲もないこの分割画面こそ、
一番ウッソとシャクティの関係性をこの以上ないほど表してる部分なんです。
シャクティとフランダースとハロのフレームは、もちろんウッソの視線先を示すものだが、
前二つの渋い表情を出すシーンから続いて、苦難の中でもシャクティを見つめてるウッソ。
このシーンでは、このようにシャクティを見守るウッソを描いてる。

次は後半の二番目。このシーンの前では、
ほぼ20秒も続く、どの富野作品でも見られないメカだけの一連のシーン。
こういう明らかにMSの顔見せを超えるほどの長回し(注:映画のアレと違う)は、
もう明確に「戦闘」そのものを描いてるといえます。
いや、戦闘というのはちょっと語弊があるかもしれません。
ロボットアニメにおけるロボットというのは、実際戦っているかどうかは別にして、
一種のマスクであり、ヨロイでもある。つまり感情を殺す姿、武装する姿と意味する。
まあ、簡単に言っちゃえば、普通じゃない姿といえるだろう。
そういう普通じゃない部分が多くなると、人は疲れる。
だから、もしこういう長い戦うシーンの後ろに穏やかなシーンを入れると、
見る人に安らぎを与えられる。
つまり、溜まったフラストレーションを開放することによって、カタルシスを得る。
それが星みたいに輝くシャクティ(希望の象徴)を追い求めるウッソのシーン。
あと、ここでは前と違って、ウッソが見たものではなく、ウッソの心象風景を描いてる。
逆にいえば、シャクティが上位にいるようなにも見える。

三番目はその後すぐ出てるシーンなんですが、やはり戦うシーンの間に挟まってる。
使い方は二番目に似てるが、意味性は解放じゃなくて、
ウッソは戦いのなかでもいつもシャクティを心のなかに置いてることを描く。
これらのシーンは、単独見ても似たような感じがあるかもしれんが、
やはりこうも効果的にはなれません。

あと、ここでは注目してほしいのは、ウッソとシャクティの二人の表情。
シャクティが常に笑顔なのに対して、ウッソは最初は複雑な表情、
次は憧れみたいな表情、最後は戦いを備える表情(つかVガンダム)。
そこらへんの表情はどういう意味なのか、見てる方御自分の解釈に任せますが、
間違いなくウッソのシャクティに対する感情を示すものなんです。
逆にいうと、屈託の無い笑顔をしてるシャクティは、劇中ではほとんど存在していません。
このオープニングと数少ないシーン(たとえばウッソの夢のなか)だけ。
つまり、逆説的にシャクティがウッソを示した何かを示すものでもある。
こういう部分から見れば、
やはりオープニングはウッソとシャクティのかけがえのない関係性を表してるもの。
だから、ウッソが常にシャクティを求めて戦うのを一番分かるのはオープニング。

あと、一つ特徴があるのは、オープニングでの体感の演技は極めて豊富ということ。
落ちる、桜?の枝、逆風、全力いっぱいのジャンプ、両手を広げて走るとか、
安彦以来の体を使ってるオープニングとはいえます。
だから、いうわけでもないが、身体性というのは、別に白富野時代の特許じゃなく、
実は90年代前半、つまり欝寸前という時期がよく喋り始めた言葉。
(というのは僕の記憶でした。ソースは探さないとよく覚えませんが)
オープニング全体の文法として、
ちゃんと富野作品のセオリー(例の人並びと自分のメカと敵の顔見せ)を踏まえつつ、
これ以上のことをやってたわけだから、
富野作品オープニングのなかでも極めて優秀なものだと思います。

うーん。このへんの説明はなんだか『映像の原則』の解説になっちゃいそうですが、
別にそんなに小難しい言葉遊びになってないはずだよね?
最近は『映像の原則』ばっかり読んでいるから、影響は受けているかもしれません。


後期オープニング:富野由悠季
この後期の見所は、前期からどういうカットを残したことです。

前期と比べて、さらにはっきりしているのは、
もうウッソとシャクティだけのためのオープニングとなった。
まず、ウッソとシャクティ以外の人たちはほとんどリストラされ、
残ったのは合体シーンのオデロとマーベットだけ。
あと、ほかの秀逸なシーンを捨ててまでも、
シャクティとの絡みの3つのシーンだけはきちんと残るという(もちろんこれらも秀逸だが)。
つまり、どんなになっても、どんなに離れても、
シャクティを守る、シャクティを求めるのは所詮ウッソの第一要件。
あの二人の心は常に一緒。だって互いは互いの特別な人だから。
この51話のオープニングから通して、毎週毎週本編の前で示した関係性は、
常に『Vガンダム』という作品を支配している。
(勿論、それはフィルムのなかでもそうなんだから強化できる印象だが)

ちなみに、前期の並びは①―②―③のに対して、後期は③―②―①になってる。
この出してる順番によって、ウッソの着陸点を示す意味性も変わるが、
それは皆さんに任せてるほうがいいかもしれませんね。

あと、新作カットでは、V2関係のシーン以外を入れたのは、
何故かシャクティとシャクティのシーンの間に入ってる大自然のシーンということについて、
よく考えれば面白いかもしれませんね。


前期エンディング:富野由悠季
これは有名かもしれませんが、『Vガンダム』における唯一時間指定を無視するものである。
『それがVガンダム』の作者のササキバラ・ゴウ氏がこれを根拠に、
監督である富野当時の気持ちを深読みしてるが、ぼくはそう思いません。
とにかくひたすら画像を流したものなんですが、実はそんなに合ってないこともない。
秒数指定はしてないとはいえ、所詮この曲のために作ったエンディングだから、
一応歌詞との呼応、大まかの流れはともに出来ていますから、
もしかしたらこの曲は元々そういう細かいタイミング合わせが必要しないじゃないと思う。

一番素敵なのは最後のVガンダムの部分。
その下向きという姿勢と上に移動する方向の複合は、とてもすばらしいと思う。
これまでごく自然に上にのぼる白いヤツたちが、
突然移動する方向を反する方向性が出てきて、非常に強い「何か」が感じられる。

あと、劇中に概ね影なしでやるため、そういう不満を持ってる人たちのため、
ここではきちんと描きこみのメカを十分見せるのはさすがに考えすぎ?


後期エンディング:富野由悠季
大体ニュアンスは前期と同じなんですが、区別のためか、V2が左向きなのと、
カルルが宇宙浮遊をしてるのが一番違うところ。
赤ちゃんというのはどういう意味なのか、おそらく次世代への願いかけとしか言えないが、
まあ映像的は可愛いからいいじゃないの?


月刊モデルグラフィックス2007年9月号富野インタビュー部分

2008/11/17 18:58|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:7
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ついうっかり更新を忘れてしまったが、まあ書きたいネタは思ってるほど進まないので、
今日はそろそろ処分したい雑誌の資料から文字起し。

巻等特集ラストの(プチ)サプライズ&サービス企画、
富野由悠季総監督インタビュー リプライズ
「……監督、今回ちょっとぶっちゃけすぎですっ!」
富野監督へインタビューさせていただくのは今回で4度目。今回はよくも悪くも終始フランクな雰囲気での取材となりました。その「ぶっちゃけトーク」を中心としたリプライズインタビューで、ターンエー特集のラストを締め括ります!


●世界観とメカとのマッチング

――監督にターンエーのことで取材させていただくのはじつに約8年ぶりで。

富野 (本誌’00年3月号を眺めながら)そうかあ……もうそんなに経つのか。イヤだなあ。自分の頭のなかではね、ターンエーが終わってまだ3年ぐらいしか経っていない気分なんです、ずっと。
 つまりね、自分のなかでは「ターンエー以降何も作っていない」という印象が強いからです。ゼータの映画って、ある意味、ぼくにとっては仕事じゃないんですよ。もちろん、映画として劇場公開したんだから仕事といえば仕事なんだろうけれど、新作フィルムを作る仕事と(既存作を)整理する仕事っていうのは、全然違うから、だから「3年ぐらいしか経ってない」と一生懸命思ってるわけね。

――自分に言い聞かせているんですね。

富野 そう!だから、1年ぐらい前にこの企画(=MGターンエーガンダム)の話を聞かされたとき、「えっ、なんで!?」って。だって、ほら……。

――「つい3年ほど前の作品をもうリメイクしちゃうの!?」みたいなことですか?

富野 そうそう。だから「もう8年も経ってるじゃないですか」みたいな言い方をされれば、真っ青になったけど、でも、現実はそうなんだよね。それっていうのは、やっぱり(こうしてどんどん時間が流れて人間というのは皆)死んでいくんだ」と思わなくちゃいけないことで、それがくやしいなあというのがありますね。

――その約8年前のインタビューでは、監督はターンエーでのミードさんの仕事を大絶賛されていましたよね。

富野 はい。もちろん、ミードさんの仕事ぶりはいまでも当然ちゃんと評価しています。ただ、ぼくのなかでは38年ぐらい前に見たイラストの仕事と『ブレードランナー』での仕事が直結してミードさんのことを過大評価していたから、最初にミードさんからターンエーのデザインが上がってきたときには、非常に困りました。「……うわっ、シド・ミードってここまでしかできない人だったんだよね」っていう。

――でも、当時は大絶賛でしたよね。

富野 …あのね、それをいま売ろうと思ってるときには悪いことは言わないわけ。

――あっはっはっはっ!(爆笑) そんなぶっちゃけられても。
 でも、ぼくもミードファンのひとりではあるんですが、世間がブレードランナーの仕事でミードさんを過大評価していることは、以前から気になっていたんですね。あれってああいう映像だから生きたデザインなんであって、3DCGでつるんと描いたら『トロン』と大差ないですもん。

富野 まったくそのとおりです。だから。作品を作るときの造形の問題というのは、やはり世界観とマッチングしないとどうしようもないんです。
 その「世界観とマッチングしている」という意味では、宮崎(駿)アニメのなかの宮崎メカというのは、世界観とマッチングしているからあんなに魅力的に見えているんであって……でも、あれは単体で取り出してプラモデルになるのかといったら、なかなか難しかったでしょ?

――ええ。間が持たないんですよね。

富野 そうそうそう。だからそういう意味では、ブレードランナーでのミードさんのデザインというのは非常に恵まれた存在だったんだと思います。
 でも、ミードさんにターンエーのラフを見せられたとき「けっきょくインダストリアルデザイナーであって、キャラクターデザイナーではない」と思ったのは本当だけれど、いま言ったようなマイナー(ダウナー)な気分ではなかったんです。やっぱりね、まずラフ画の線のあり方が本当に上手いと思った。だから、まずそれで気に入る。ただし、「でもやっぱりキャラクターにはなっていないよね」って悪戦苦闘する。
 そして、インダストリアルデザイナーとして持っているよい部分、それをキャラクター化していくためへの悪戦苦闘がヒゲに見えるんです。どういうことかというと、キャラクター性という視点で考えたとき、「ヒゲを付けるならば付けるで、その場合の頭や肩の形がこれでよかったのか?」というような気配りが必要なんですよ。

――ああ、なるほど。

富野 それからコクピットの問題。「コクピットをこういう位置に持ってくるのは非常に危険だ」という意見が当時からあったけれど、でもじつを言うと、実際の戦闘機のコクピットの位置や人間の出入りを考えていったときに、この位置というのはすごく取りまわしがよい位置なんです。そしてこれ(=ターンエーのコクピット位置)はキャラクター性にもなる。
 でも問題なのは、キャラクター性はあるんだけれども、造形論的に「これではちょっとねえ……」というあたりが(苦笑)。

●メカとして機能しないターンエー

――確かにただの筒ですからね。ただこの「コクピットが股間にある」というのは、じつは監督からのオーダーですよね。

富野 ……そうだっけ?

――ええ。だって『ミード・ガンダム』を読むとそう書いてありますよ。

富野 へえ~……。

――「へえ~」って(苦笑)。

富野 でも、そう書いてあるなら、たぶんそうなんでしょうね(笑)。

――コクピットが位置だけでなく、上半身の中身ががらんどうでウェポンベイになっているとか、脚のうしろ側にスラスターがあるのも監督からのオーダーです。
 で、これは監督への質問であり、「おかしいじゃないですか富野さん!」というぼくからの抗議でもあるんですが……そういう明確な「メカとしての運用」をものすごくコンセプチュアルにミードさんへデザイン発注しているのに、劇中では……。

富野 うはははははっ!(爆笑)

――そのあたりのデザインを生かした使い方をほとんどしていませんよね?

富野 それは、演出家がバカだから! こういう作品だったら、メカの実態をきちんと知らせなくちゃいけないのに、あのときのターンエーを仕切っていた総監督は、お話作りのことしか考えていなかったから……ほんとにバカなのアイツ!(笑)

――あはは(苦笑)。でも、「もったいないなぁ」と思う反面、監督のなかではけっきょく、対シド・ミードとしてターンエーのデザインをフィックスしていく作業と、よいアニメ作品を作ってガンダムシーンを再生させようという作業がじつは完全に分離されていて、メカデザインを勝ち取った時点で監督のなかでは、何かがひとつ終わっちゃったんだろうな、と思いますけど。

富野 そうです!

――でも……地球では、まあ、あれでもよかったと思うんですよ。ただし、宇宙に出てから、たとえばマヒローやターンエックスと宇宙戦をするシーンとかで……。
 富野 いや、もう、言わないで!ホントにそう!ホントにそうだと思うし、ホントにそうだと思うからこそぼくは「宮崎さんってホントに上手いな」と思うんです。なぜならば、宮崎さんは『紅の豚』みたいなものをやっていても飛行機の事を忘れていないんだよね。

――ああ、わかります、それ!ああしたガジェット嗜好をきちんと随所に盛り込みながら、それでもちゃんと物語主体の映画のフィルムとしていますね。

富野 すいませんっ!もう、ホンっトにバカですっ!(爆笑)

――でもそれゆえに、当時の監督は物語の獲得とガンダムの再生に夢中になっていたんだろうと逆の意味で思います。

富野 うん。本当にその思いでやっていました。だからこそ、本来作中で、モザイク模様にしなくちゃいけなかったメカものとしての物語のバランスが、本当に悪かった。あともうひとつ、それに対しての原因があるのは、地球の物語背景の時代設定が本当に気に入っちゃってねえ(笑)。やっぱり、そういうバカさ加減?

――いや、でも、劇中でのメカは確かにちゃんと生かされてなかったけど、ああいう物語背景を作ってああいうパッケージングにしたから、いまこうして手元にMGターンエーガンダムがあるんですよ。

富野 そうそうそうそう! ……うん、そういうふうに思いたいけども、あんまり褒めてもらってないから、ターンエーに関しては。でも……絶対にそうだよね?

――絶対にそうです!そこに関しては、お世辞じゃなく、本音でそう思いますから。

富野 ホント、そう言ってもらえるとうれしい(笑)。そうそう……割と最近の話なんだけれど、駅でね、着メロで『月の繭』(ターンエーのエンディングテーマ曲)が流れてきて、オレ涙出ちゃった。

――監督、それ、なんか”いい人モード”のスイッチが入っちゃってますよ!

富野 それは、この歳になれば、誰でもそうなるんです!(笑)
 ただし真面目な話をすると、ターンエーの場合、「造形としてもっとよいものを手に入れる」というもうひとつ上乗せになるものが提示できればよかったんだけれど、ビジネス面も含め、それをかすめるだけで終わってしまった。つまり、あくまで「業務」として終わってしまったというのが、ちょっと残念だというのはあります。

●プレゼント・フォー・トミノ

富野 しかし今日このモデル(MGターンエーガンダム)を見て、ぼくはいま、このデザインをベースにした改善論というのが、本当に改めて山ほどあるなということがわかってきました。いままではターンエーを完成形として見ていたんだけれども、これはまだプロトタイプなんだと思って見た瞬間に、ここからいくらでも変えられる! で、変えられるんだけれども、”ヒゲガンダム"というコンセプトはもう絶対に変えなくてもよいということもわかる。
 それで言うと、じつはこの8年間のあいだに出てきた新しいガンダムが、ありがたいことに、どれもみんなヒゲに触っていない。だから「これはまた新規にできるぞ!」というのが見えてくるんで、「あ、すごいぞこれは!」って、いま……(苦笑)。

――監督、いま、目が少年のようにキラキラ輝いてますよ(笑)。

富野 だって、これだけのベースがあったら、オレ、(新しいターンエー系MSが)作れそうだもんね。ファーストガンダムのときにドムを描いたような気分で「また描けるかもしれない!」といま思っていて、すごく困ってる(笑)。

――ドムだけじゃなくて、ファーストガンダムの番組後半に登場するメカは、事実上すべて監督のデザインじゃないですか。エルメスに至っては三面図まで描かれて。

富野 うん。だから、いまちょっとショック。ショックだけどうれしい(笑)。いやあ……ぼくは"ネクストターンエー"というのを本気では考えていなかったんだけど、今日はそれがアリになっちゃったなあ。

――それがバンダイからのプレゼンテーションでそうなったという構造が、ちょっと素敵ですよね。だって、これまでずっとバンダイに対し否定的だった監督が、バンダイからそうしたプレゼントをいただいたっていう……だって、これってまさしく富野監督へのプレゼントですよ。

富野 うん、そうだね。

――「いままでどうもありがとうございました、これからもよろしく」っていう。

富野 いやしかし……(MGターンエーガンダムをガチャガチャ動かしながら)うわっ、正座できるぞ、これ! ミードさんはちゃんとここまで考えていたわけね。
 ……だけど、冷静に考えたら、やっぱりオレおかしいわ。65歳でこういうのを見てさ、正座させて「うわっ!」とか言ってる65歳なんてどこにもいないよね(苦笑)。

――ちなみに監督、今回MGターンエーガンダムのインストラクション内に寄稿されていますよね。かねてから「バンダイは自分のことを嫌っているので、ぼくのところに来やしない!」と言っていましたが、今回は少なくともその敷居をまたいでいる。その部分はどう思われました?

富野 はい。この原稿を書けたときには、非常にうれしかったです。

――こういうマイルストーン的なタイミングでの初オファーですものね。

富野 まったく初めてです!だからそこは素直にうれしかった。これについては飾りのない気分ですね。

正直この記事の雰囲気はあまり好きじゃないし、
富野監督もあさのまさひこともこの記事では自分に合っていない。
でも発言は発言なので仕方ないし、ある意味機能論と演出論を踏まえての発言ですから、
一応載っておく。というか、オレあんま資料がなかったよ…。


2008/11/15 22:03|未分類TRACKBACK:0COMMENT:4
このエントリーを含むはてなブックマーク はてなブックマーク - 変
このブログでは、ほぼ毎日のように、富野由悠季監督に関する記事を書いています。
たまにネタ切れやサボりもありますが、
基本的は時間さえあれば何か富野監督のことを書く。
でも、考えてみれば、それがすごく不思議だったんです。
いったいどこからそんなに書けることが湧くの?何故毎日のように書くの?
そこは、よく考えれば自分でもおかしいなと思います。

いくつかの記事の内容については、自分でも誇りを持ってます。
それらは一つの無駄もない記事の上、
今まで富野監督に対する間違った風説を覆うようなものなんですから、
もし読んでいただければ、絶対富野喜幸に対する考え方が変わります。
こんな自信は、持っています。
(もちろん、井の中の蛙の可能性は大きいですが)

とまあ、書いてて実は一番楽しいのは本人ですが、
富野限定記事のため、ブログの話題の幅もなんだか限られているような気がします。
リンクさせていただいてる方のサイトで例として挙げれば、
ひびのたわごとの子犬さんは富野資料以外には野球話とB級映画レビューがありますし、
玖足手帖のグダちんさんなら縦横無尽な語りがあります。
囚人022の避難所の囚人022さんは一杯な楽しいアニメ感想と評論がありますし、
富野小説搾り出し(仮題)の上原マリ男さんは超鋭い視点でバッサリ切るのに対して、
よく考えれば、富野の話だけで持たすのはやっぱりやや不足のような気がします。

やはり何か別のコンテンツを開拓すべきなのでしょうね。
でも富野記事しか書きたくない…。
変かな?変ですよね。


富野由悠季とレコード会社と作詞と芸能と作品と商売と理想と現実

2008/11/14 11:59|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:2
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関連記事
■ときめく1句(3)
■富野由悠季と歌
■富野由悠季と挿入歌(1)
■富野由悠季と挿入歌(2)

昨日の映像の原則についてブログ訪問者の皆さん方の感想を伺いたい記事ですが、
回答してくれた全ての方、本当にありがとうございます。
しばらくその記事を左のリンクに置いていますので、どうかこれからもご協力をお願いします。


さて、今日は『∀(ターンエー)の癒し』の引用から始めたいと思います。

 阿久悠さん。
 ピンクレディーから八代亜紀まで、はばひろく名曲を生み出し、カラオケの世界では超現役のプロの作詞家だ。歴史をきずいた方であられる。
 氏に直接、作詞のコツを教え願ったことがある。
「詩の世界をつくること」
 それだけである。
 それでは、ぼくの仕事と同じで、物語の設定をかためることにあたる。
 ぼくの場合と決定的にちがうことは、こちらは半年とか一年のオン・エアにたえる世界観を考えるのだが、作詞の場合は、三分か五分の歌のための世界と物語をつくる。しかも、それをその時代の気分にあわせた言葉で紡ぎだすのである。それは現在もおなじで、表現としてのフィーリングのありようがちがい、言葉遣いがちがうのだが、この言葉遣いのちがいについては教えていただけなかった。
 それは、企業秘密だからではなく、阿久悠さんにしても言葉で説明しようがないものらしい。それは、時代のなかで独自に発見するしかないテーマである。
 ここでははじめて感性の問題ということになる。
 話せるのは、結果論でしかない。
 ひとりのクリエーターにフォローできるのは、そのときだけなのだから、阿久悠さんでさえ80年代のひと、といわれるようなことになってしまうのだ。
 歳をとるということは、この流行、時代が変わるということを認めなければならないことなのだから、つくづく過酷だ。
 さて、右の事実を認識したうえで、別の観点もあって、ぼくは作詞をさせてもらっている。
 つもり、世間や時代は、ひとりの人間には過酷なのだが、どうじに、たいへん甘いというかいい加減な判定をする部分もある。
 それに抵抗したかったので、ぼくは作詞にこだわるようになった。
 アニメに関していえば、ファースト・ガンダムの時代まで、テーマ曲をさえもレコード会社は学芸部というところであつかっていた。
 学芸部。おわかりだろうか?
 教科書にのるような楽曲、まあ、乱暴にいえば、童謡あつかいというやつだ。歌謡曲、ポップス、といった流行歌をつくる部門とは隔絶した世界におしこめられていた。大手のレコード会社だったからという言い方もあるが、アニメ関係の曲づくりなどは、その手のスタッフということに相場はきまっていて、サラリーマンたちもそれを要求した。
 それをなんとかしたかったのだが、それができるようになり、井上大輔という大学時代の同期の男を呼んでもらえるようになるまで保守系との戦いだった。
 彼は、グループサウンズの時代、ブルー・コメッツというグループで、クラリネットを吹きヴォーカルを担当しながら作曲をやっていた。
 ぼくは、彼の楽曲は『ブルーシャトー』ぐらいしか知らなかったが、その後は、CMで稼いでいた。
 それでも、状況は時代にあっていくには、まだ時間が必要だったし、インディーズ系とのコラボレーションができても、別の問題がうまれたりして、いまだ理想的な経験はしていない。
 組織があってすすめなければならない仕事というのは、作品をつくっていく事情とはべつの価値観が作用して、テーマ曲であろうが、作品とは無関係にヒットするものをもちこむといったような風潮がある。それは、学芸レベルとはまたちがった作業は横行する。
 むしろ、金がつきまとうから、学芸から脱出する以上に難しい現実となっている。
 これにも対抗したくて、作詞権をはなしたくないと考えてしまうのだが、ぼくにヒット曲がかけなければ、と、プロにまかせた時期もあった。
 が、そのときも、他人にはこちらのつくる作品世界は洞察できない、という単純な発見をしただけである。他人はあくまで他人なので、こちらに同化してくれないのだ。
 商売をかんがえれば、ヒット曲先行でかんがえたいのだが、音楽関係者というのは、物語のフィーリングに肉薄してくれることはなく、日本人的なプロとしてできあがっているひとであればあるほど、プライドが邪魔をして、作品の世界にすりよろうという意識がはたらいてくれないのだ。
 一番つらいのは、アニメとか劇版という仕事を、一段も二段もひくくみているスタッフがいることで、そうでなければ、アニメとかマンガずっぽりのプロとなる。
 どちらも極端すぎて、ちょうどいい、というのは見えてこない。
 最近はじょうきょうがちがっているのだが、それでも、ミュージシャンを売るためにアニメ、映画、ゲームを利用するという意図が先行して、おなじように作品との協調性、まして、作品を補強することなどは考えてくれない。
 考えていますといってもレベルがちがい、サラリーマン・レベルの発想で創作にかんできたりするから、よけい面倒になる。
 そのようなレベルにかぎって、うまくいくと悦にいるから、直せといってもちゃんと直ったためしがない。つまるところ、才能の問題ということを、つきつめて感じているスタッフが存外すくないという事実に直面しておわる。
 トレンディ・ドラマやアニメ、最近では真面目なドキュメンタリーやレポート番組でも、作品内容に関係がないテーマ曲がながれる。オリンピックでもやるからしょうがないか、とおもうしかない。
 ま、そういうわけで、今回の『∀』では、かなりこだわって作詞をさせてもらえたのも、右のような事情を関係各位が理解してくれたからだ。
 けれど、あんな古い曲はヒットしないという状況に直面したし、それでもカラオケでは『ターンAターン』はけっこう唄われていたりというアンバランスな状況を体験している。
 ああ、タイトルがどうして『∀ターン』ではないのかという質問には、現行のカラオケ・システムのコンピュータでは、”∀”という文字入力が面倒だからである。

 今回、ぼくの作詞を菅野よう子が認めてくれてたことは、ほんとうに感謝している。
 そうでなければ、『宵越しの祭り』や『月の魂』といった劇中曲(挿入歌ではない)を手にいれることはできなかった。『月下美人』という曲については、小林亜星先生と西城秀樹氏にお礼を申し上げたい。
 それらの楽曲は、作品の表現そのものにかかわる機能をもっていて、成功したかどうかは別にして、芸能に接近したいというぼくのこだわりの表現でもある。
 こういう音楽の使い方もある、と、それを見せたかったということもある。
 しかし、そのおかげで、以後、音楽にはっぱられるように演出をすることもおぼえた。これは、過去の仕事でできなかった手法で、映画的な演出の自由度に挑戦したつもりだ。
 若い人たちは、自分なりに自由にやっているとしんじているのだろうけれど、この十年ていどのあいだで知った方法を流用しているようにしか見えないので、それだけではないのだというものを見せたかったのだ。

と、いう非常に見ごたえある内容なので、自分の記事を書くこともやめて、
内容について補足説明だけにします。




阿久悠さん。ピンクレディーから八代亜紀まで、はばひろく名曲を生み出し、カラオケの世界では超現役のプロの作詞家だ。歴史をきずいた方であられる。氏に直接、作詞のコツを教え願ったことがある。「詩の世界をつくること」それだけである。

まず、阿久悠氏と作詞と世界観作りについては、もう前のときめく1句(3) で語ってきたものだから、
ここでは割愛。


歳をとるということは、この流行、時代が変わるということを認めなければならないことなのだから、つくづく過酷だ。さて、右の事実を認識したうえで、別の観点もあって、ぼくは作詞をさせてもらっている。つもり、世間や時代は、ひとりの人間には過酷なのだが、どうじに、たいへん甘いというかいい加減な判定をする部分もある。それに抵抗したかったので、ぼくは作詞にこだわるようになった。アニメに関していえば、ファースト・ガンダムの時代まで、テーマ曲をさえもレコード会社は学芸部というところであつかっていた。

ここでいう世間と時代に対して対抗したかったのは、
世間やレコード会社にアニメの主題歌(作詞)の地位を認めて欲しいということ。
つまり、富野喜幸(由悠季)がオモチャ屋さんと世間と戦い続けていると同時に、
井荻麟もまたレコード会社と世間と戦っている。
それで、富野由悠季と挿入歌(1)で書いてきたように、
レコード会社は『ガンダム』劇場版以後、アニメビジネスの可能性を気付いて、
だんだんこの部分に手を入り込むようになりました。
だから、井上大輔とガンダム映画版の成功以後、
レコード会社も歌手を売るためのアクションを始めた。


それでも、状況は時代にあっていくには、まだ時間が必要だったし、インディーズ系とのコラボレーションができても、別の問題がうまれたりして、いまだ理想的な経験はしていない。組織があってすすめなければならない仕事というのは、作品をつくっていく事情とはべつの価値観が作用して、テーマ曲であろうが、作品とは無関係にヒットするものをもちこむといったような風潮がある。それは、学芸レベルとはまたちがった作業は横行する。むしろ、金がつきまとうから、学芸から脱出する以上に難しい現実となっている。これにも対抗したくて、作詞権をはなしたくないと考えてしまうのだが、ぼくにヒット曲がかけなければ、と、プロにまかせた時期もあった。

皮肉なのは、ここでも富野が自分が掟を破った後でできた秩序に縛られてるパターンが見られる。
では、井荻麟の負け戦の軌跡を見てみよう。

はじめは『イデオン』の劇場版。
『セーリングフライ』と『海に陽に』の水原明子がそう。
でも、このときレコードが強権発動する部分は、まだ主題歌の歌手だけだった。
作詞というのはちゃんと富野の手に押さえている。

次は『ザブングル』。
串田アキラとMIOも今はアニメ歌手みたいな扱いだが、当時は歴然した一般歌手のため、
レコードが売りたい歌手と見ていいだろう。
それと、主題歌の歌手だけじゃ足りない。今度は挿入歌というエキストラの曲も入れよう。
曲が多ければ多いほうが売るほうに都合良いだし。
こういう部分は富野みずから提案することは無いと思うから、
おそらくレコード会社の意向だと思われる。
で、出来上がったのは『HEY YOU』と『忘れ草(そう)』。やはり富野作詞だった。

次は『ダンバイン』。
主題歌は依然に富野にいるが、今度の挿入歌はついにレコード会社の手に落ちた。
歌手は売り出したい小出広美だけでなく、作詞もいわゆるプロの作詞家が手がけました。

次は『エルガイム』。
今までの歌はどの程度の売り上げは分からないけど、おそらくあまり良くなかったため、
主題歌はついにレコード会社に明け渡した。作詞権は奪われた。
そうなると、もう劇世界を作る作詞とはかけ離れていた。
このときの井荻作詞でいえば、エンディングと挿入歌まで引っ込んでいた。

ここまで挙げれば、
『Z』『ZZ』『逆襲のシャア』『F91』『V』の部分は説明しなくても分かるだろう。
出来とは別にして、だいたい作品作りの部分が譲歩することが多い。


最近はじょうきょうがちがっているのだが、それでも、ミュージシャンを売るためにアニメ、映画、ゲームを利用するという意図が先行して、おなじように作品との協調性、まして、作品を補強することなどは考えてくれない。

この部分はまさに最近の上辺だけのアニメの醜いところと富野作品の強みを表します。
富野作品は主題歌まで作品に組み込まれたから、その世界観がとても強い。
一歩、最初から消費を前提する主題歌は、いくら上手いこと言おうと、
所詮作品から遊離する存在に過ぎないから、結局作品の一部とはなれません。
もちろん、逆に言うと、そこはまさに富野作品商売上の弱みだが、
それでも「消費されてない」というのは言い換えると、
「長続きできる商売」にもなりうるから、結果的でいえばそういうやり方は正解と思いたい。


今回、ぼくの作詞を菅野よう子が認めてくれてたことは、ほんとうに感謝している。 そうでなければ、『宵越しの祭り』や『月の魂』といった劇中曲(挿入歌ではない)を手にいれることはできなかった。『月下美人』という曲については、小林亜星先生と西城秀樹氏にお礼を申し上げたい。それらの楽曲は、作品の表現そのものにかかわる機能をもっていて、成功したかどうかは別にして、芸能に接近したいというぼくのこだわりの表現でもある。

富野由悠季と歌という記事を書いてるとき忘れたが、
富野はここでははっきりと『∀』の劇中曲は芸能のためで作ったと明言した。
さらに、ここでいう芸能という目線の設定は、ときめく1句(3) で言ってた
宮崎駿作詞の決定的な違うところです。
つまり、芸能で劇世界を表したいにしても、その楽曲(歌)の立ち位置をちゃんと設定しないと、
その現実と劇世界の引き線が曖昧になるというわけ。
こういうのは論理的な作業であって、決して恣意的に書けるものじゃないと断っておく。


こういう音楽の使い方もある、と、それを見せたかったということもある。 しかし、そのおかげで、以後、音楽にはっぱられるように演出をすることもおぼえた。これは、過去の仕事でできなかった手法で、映画的な演出の自由度に挑戦したつもりだ。

これについて、はっきり感じられるのは、80年代の富野作品。
どういうことかというと、つまり音楽を絵の付属物みたいな使い方をすることが多かった。
一番特徴あるのは途切れる音楽。『イデオン』の「宇宙の逃亡者」などがそう。
こういう音楽にキャラクター性をつける手法はある意味日本特有なものだが、
はっきり言って、こういう使い方じゃ良いか悪いか別にして、
作曲家(菅野という人)に「音楽を信じてない人」といわれても仕方ないと思う。


なんだか纏まらない記事になってしまったようだが、
こういう富野のテキストを読み解く記事はたまにあってもいいのだろうかな?


映像の原則の読者の方々に問います

2008/11/13 00:01|未分類TRACKBACK:2COMMENT:2
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勝手な推測ですが、このブログを読んでくださってる方は、
おそらく富野由悠季監督のファン、もしくはアニメファンのほうが多いと思います。
そこで、唐突ですが、このブログを読んでくださってる方々には、
一つとても重要なことに尋ねたいです。

富野由悠季監督が書いた技術書『映像の原則』ですが、
皆さんはお持ちしているのでしょうか
それで、もし読んだことありましたら、
その内容についての感想を教えていただけないでしょうか
その原則について頷くとか、役に立ったとか、もしくはまったくのナンセンスとか、
富野の演出観が見れてよかったとか、アニメに対する目利きがよくなったとか何でもいい、
あの本を読んで、感じたことなら、何でも教えてください

勝手な推測ですが、このブログの訪問者の方々はおそらく大半は
アニメ業界や映像業界にいない普通の人でしょうけど、
そういう皆さんの意見も是非聞きたいです。
もちろん、映像関係の仕事を従事してる方がおれば、大歓迎です。

大変ワガママな頼みは承知ですが、
できるだけ多い人の声を聞きたいですから、どうか私に教えてくださいまし。
ありがとうございます。おねがいします。


アイキャッチと作品の関係

2008/11/12 22:43|未分類TRACKBACK:0COMMENT:2
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この前、ダラダラとオープニングとエンディングについていくつかの記事を書いてたが、
いつも応援して下さってるだから僕は...さんから、こんなコメントを頂きました。

そこで、次回は。
富野作品アイキャッチ解説をお願いします。



うーん、難しい。
しかも何故アイキャッチ?と思わず頭を抱えるところですが、
考えてみればそうだったよな。だってアニメって元々こういう構成ですから。

オープニング+Aパート+アイキャッチ+(CM)+アイキャッチ+Bパート+エンディング+予告

こういう構成ですから、アイキャッチというのは、
AパートとBパートの区別だけじゃなく、劇と現実の区別でもある。
劇から現実にフェードアウトした後、また現実から劇世界にフェードインする必要があるから、
確かに非常に重要なものといえる。
しかも、よほどの贅沢病をかかってるでもなければ、
一つのアイキャッチは何十話も渡って使われているものですから、
オープニングやエンディングほどの重要性はないにせよ、
決して無視するものではありません。


が、まだ何も考えてみませんでした(汗)。
もちろんアイキャッチが短すぎて意味性や功能が捉えにくいのは大きいですが、
何よりオープニングとエンディングの記事もまだ終ってないのに、
触手をアイキャッチまで伸ばすのはいかがなものかとも思ったりします。
ですから、先にそっちを完結したいと思います。すみません。


3度目の崖の上のポニョと富野由悠季の演出術

2008/11/11 21:33|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:0
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今日は出版社の方々とまた試写会を見に行ったが、
感想はやはり前と同じだった。あまり気持ち良くない映画だった。
でも、出版関係の人も絶賛してないのは、意外というか当然というか、
とにかく宮崎駿だから手放して褒めてないのは、ちょっと嬉しい気もする。

クオリティはともかく、あの贅沢すぎる物量、絢爛すぎる画面を見ると、
どうしても何てもったいないでしょうかと思わざるを得ません。
もし作品の実も伴ってるのなら間違いなく傑作だが、
残念ながら、このフィルムはパヤオのなかでもかなり出来が悪いものだと言える。


問題は大きく分けて3つがある(贅沢病はこの際置いといて)。
一はだらしない繋ぎ。二は音楽で引っ張りすぎる。三は貧しい内容
この三つは全部関連して分けて語られませんが、
まず一つはっきりしてるのは、その一の「だらしない繋ぎ」。

この物語は極めてシンプルである。
シンプルであるために、なお話の構成をしっかりしなければならないのに、
この第1条件ともいうべきものは、まずポニョではすでに見られません。
いくつかの段取りが見えるものの、全体のペース分配はきっちりしなかったため、
全体の構成は行き当たりにしか見えません。
つまり、箱書きはだらしない

ストーリーラインはもちろん明確に見えるが、
ポニョは物語の段階からすでに破綻していたため、
ストーリーと物語の核はいまいち繋がってるには見えません。
つまり、物語自身もだらしない

それだけでなく、パヤオの構成は元々非常に弱いものだが、
そのシーンの表現は上手いだが、今回はそれさえ失われつつである。
前のシーンの終わりと後のシーンの始まりがまるで繋がれない部分は、
今回では非常に多いと見られます。
言い換えると、シーンの物理的な繋ぎがだらしない

何より表現(=一番外にいるもの)はそのまま物語の主旨になる奇妙な意図から、
最表層なことしか伝えられない。意味ありげな話も全部フェイク。
躍動力はあくまで表現なのに、表現を極めれば、自動的にテーマの生命力を描けると錯覚し、
物語の深層を描くことをおろそかしている。
だから、全体の感情の線がぶれて、シーンの繋がらなさをより一層酷くする。
言い換えると、情念的のつながりもだらしない

加えて(子供以外)目線となる人がいないことも感情移入も拒む一因となるし、
その外部の環境と自分の立ち位置をきちんとするキャラはほとんどいなかったから、
全体は非常に貧しくてだらしないものにしか見えません。


こういうひどく薄い話をカバーするため、
ジブリおなじみの物量による表現と監督のイメージ以外、
今度は音楽をまるで主役みたいに使っていた。そこが一番いやらしいところだと思う。
どうしてかというと、今度の音楽が強すぎるからです。
強すぎて、シーンの上に滑った表現もかなりいます。
でも、監督はご存知かご存知ないか、それをお構いなく使っていた。
状況も観客の心情も楽しいという感覚に入ってもいないのに、
強引で楽しくてワクワクする音楽を使って、無理やり映画の雰囲気を引っ張る。
そこがいやらしいじゃなければ監督がアホという二つの言い方ができるが、
宮崎ハヤオはどう見てもアホなわけないので、
わざと自分のフィルムの弱点についての補強として、いやらしく使ってるしか考えません。
こんな一つの視点しか許さないところは、僕が宮崎駿のアニメを一番嫌いなところ。


結局、この人は自分の脳内イメージを再現することにしか興味がないんだ、と、
改めて再確認した一作です。もののけ姫以来ずっとこういう病気がかかってる宮崎は、
もし次はましな脚本か原作を探さないと、もうだめになるかもしれません。
というか、今回のポニョは何もかも(とはさすが言いすぎるのだが)繋がってない作品Dから、
なんだかツギハギ映画に見えなくも無いというのは、今回の感想です。


ついでに、富野のコンテ演出術を紹介しておく。

絵コンテを描きはじめる

――基本的な質問ですが、絵コンテはストーリーの順番に描いていくんでしょうか?

富野 僕の場合はそうです。まず、途中多少不都合があっても構うものかと思って、第一稿を描きます。『リーンの翼』はシナリオで既に「ここがヤマだろう」と的を絞り込んでいるところもあったけれど、そこをあまり気にせずに、まずは描く。ここで問題がひとつであって、第1話の時点では脚本はまだラストが見えていないんです。だから、ラストからの逆算で描くということが完成にできるわけではない。でも構成としては「ここへ落ちるだろう」という目算は立っているから、それで作業はできるわけです。これはひょう並行して作業していた『Zガンダム』の新訳のほうでも同じ感じですた。
 で、第一稿を描いた後に、シナリオという、文字ではわからなかったことが、絵にすることで見えてきます。たとえば、手前にいる人物の奥にいるキャラクターがどこまで見えているか。それがわかると組み替えを始めます。たとえば「ならば、奥の人物を手前にしてもいいのでは?」とか。
 どうしてそんなことをするかというと、ひとつはシナリオが文字で論理的に段取りを組んでいたものを省略できる場合があるからということと、もうひとつは、絵のツラの印象から、こいつのキャラをここで立たせなくてはいけないということがわかるからです。そういう場合は後ろから必要なセリフも持ってきて、芝居のほうも歌舞伎の見得ではないけれど印象的な”見せ芝居”をさせたりします。
 ただ、それだとそのシーンが”重く”なりすぎる。重くなりすぎると、そのまま後で印象がフェードアウトしてしまうことが多いので、その印象を受け継いで、次のシーン、次のエピソードへとつないでいくようにしなくてはいけない――と作業が続いていきます。

――キャラクターの見え方については、シナリオはあくまでもバックボーンで、絵コンテで演出していくということですか。

富野 そうです。そして今いったようなことを踏まえて、絵コンテの第二稿を描いていくわけですが、目標はあるんです。『リーンの翼』のように20分強のフィルムであれば、だいたい2~3分オーバーに收まるように尺を決めていくのです。
 シナリオで論理的に組まれていたものを絵コンテで崩して、自然に見えるようにしてはいるんですが、それでも「絵を描いて、ト書きやセリフを書く」という絵コンテの作業の持つ特性ゆえ、やっぱり場面場面が緻密に組まれてしまいます。この場合の”緻密”というのはいい意味ではなくって、むしろ、ダラダラとだらしばなく場面が流れてしまうことが多いと言ったほうがいいでしゅ。そこで余っている2分が必殺兵器として効いてくるわけです。ダラダラと流れているシーンをカットしていくんです。イメージでいうと、たるんでいる布の皺を寄せてきて、余っている部分をちょん切るみたいな感じですね。そうすつよ本編全部を通して見たとき、シュッと見られるようになる。「絵を描いて、、ト書きやセリフを書く」というスピード感に縛られたままだったら、本編がトロくなるのは当たり前でしょうね。

――そのやり方は昔からそうだったんですか?

富野 そうです。

富野のだらしない部分を無くす演出術については、また別の記事で書く。


2008年11月12日追記:
すき放題にボロクソ言われたようだが、
決してつまらない映画じゃないですよ、ポニョは。
ただいろいろ杜撰(←誤用)だけ。


富野由悠季はもうコンテ千本切りとなった

2008/11/10 22:42|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:2
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関連記事
■富野由悠季はもう千本切りになったのか

前は↑みたいな記事を書いたこともありましたが、
今日はもう一度徹底的に富野が切ったコンテ数をカウントしよう。

最初は「586」という数字ですが、これはデータ調査の名人原口正宏氏が
『富野由悠季全仕事』のなかで膨大な資料に基づいて算定したもので、
その数字はウィキペディアの富野項目でも載っている。
その中身は前の言ってた通り、確定した498本と推定の88本を足して得た数字なんです。
推定の部分はこれらです。

作品名/全話数/富野が記憶してる担当本数/原口氏がカウントした本数
少年シャダー/全156話/数本/5
巨人の星/全181話/7、8本/8
海底少年マリン・キッド/全78話/2、3本/3
夕やけ番長/全156話/十数本/15
男一匹ガキ大将/全156話/二クール/26
シートン動物記/不明/全話/13
アタック№1/全104話/十数本/15
男どアホウ甲子園/全156話/1本?/1
月光仮面/全39話/2本/2

ほかの詳しい本数はここに参照してください


前はこの調査結果による本数の計算についてちょっと疑いもしてたが、
今はとりあえずそのままを受け入れよう。
つまり、「586」という数字を全肯定する。
で、この586本というデータは『ターンエーガンダム』の第10話までのものなので、
その以後の数字を足してみよう。

∀:(5)+16
キンゲ:15
劇場∀:2
新訳Z:3
リーン:6

つまり、もう42本を足すべきから、「628」本になる。
ここの新しい調査

さらに、ここの新しい調査によると、富野は少なくもう9本以上の絵コンテをやってたから、
最後の数字は「637」本にもなる。


なるほど、確かに非常に多いけど、千本切りとは程遠いなんじゃないの?という人は、
ちょっと待て。こんな結論を下すのがまだ早い。
何故かというと、それは富野がコンテマン以外、監督をも務めているからです。
監督を勤めるという意味は、つもりコンテマンの絵コンテを書き直すのも権限のうち。
しかも衆知の通り、富野はコンテを直してもクレジットしないため、
そういう実質富野コンテなのに、他人のクレジットするものも山ほどあった。
だから、単にクレジットから切った本数で判断するには、
さすがにちょっと単純すぎるといわざるを得ません。

そこで、全部が富野が「描いた」じゃなく「切った」という基準、
つまり監督作の関わった話数からみれば、もうひとつの数字が得られます。
富野作品の全話数を足して、富野が自分の監督作で切ったコンテ数を減らすと、
「447」という数字が出てくる。つまりこれが富野のクレジット以外関わった本数。
で、この447を上の637に足してみると、
最後得た数字は「1084」。これが今のところ判明した富野が関わったフィルムの本数。


1084本(話)。
奥田誠治や出崎統などコンテの名人が持ってる数字と比べることもあったが、
やはりこの「1084」という数字を持った男・富野由悠季は今のところ、
間違いなく日本(そして、おそらく世界)のアニメ界のなか、
一番多くアニメフィルムを手がけた人である。
(ちなみに、作品数なら95タイトル。一番は奥田誠治氏の105タイトル)


失敗というか反省。日めくりタイムトラベル、または富野に対しての。

2008/11/09 22:32|未分類TRACKBACK:0COMMENT:0
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昨日、とってもとっても大事なことは忘れちゃいました。
それは、日めくりタイムトラベルのことだった。
もちろん、それも仕方ないこと。
2日間外であちこち出回ったあいだは、当然家や趣味のことなんて覚えてるわけがなかったし、
昨日家に帰った途端、2日徹夜の疲れで10分内爆睡に陥ったから、見れないのも当然。
てか、台湾じゃ普通にBS2が見れないだがね。

それでも悔しいです!御禿様が見れないなんて!
国家も大事けれど、富野も大事ですよ!
しかも再放送なしって、どんだけ罰ゲーなのよ。
見た、また録画した人うらやましいっす。
どっかでうpしてくれた神を待つしかないのかよ……僕は、いやだ。
プレミアムはこういう番組を放送してくれないし、
本当、海外でファンをやってる身はツライですぜ。

▽続きを読む▽

風邪と学生の関係

2008/11/09 13:20|未分類TRACKBACK:0COMMENT:0
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昨日は試してまったく同じ記事に釣りっぽいタイトルをつけてみましたが、
いまいちへんというか、手応えがないというか、とにかくあまりなれませんので、
今後はしばらくやらないと思う。アドバイスしてくださった方、ありがとうございます~。


さて、今日は風邪を引いたので、大した記事は描けません。
何故風邪をひいたというと、ほぼ一日中が大雨の中に立ちっぱなしをしてたからです。
じゃあ、何故一日中大雨の中に立ちっぱなしにしてたというアホなことをやったのかというと、
ズバリこれの応援に行ってきたです。

台湾社会の亀裂表面化 中台対話抗議、学生らけが人数百人に
(例によって、ウチはこういう話題を扱うサイトではないので、反転してください)

ほかにはこれとか(翻訳済み)。
自分も翻訳したいですが、体調は悪いので、それができません。
ここはユーチューブのリンクがありますが、
すべて台湾のニュースなので、もちろん日本語ではありません。
あと、これは台北部分の24時間生中継

皆さんが見てた通り、このサイトはこういう話題に対して非常に低調的なのです。
ここはあくまで僕が一富野由悠季監督のファンとして、
すべての富野ファンとほかのアニメファンの方々を楽しめたいサイトと維持したいからです。
しかし、なお書くのというわけは、それは書かずにいられないからです。
それほど理想や信念を持ってる人ではありません。
あくまで自分の周りの出来事として反応してるだけです。
二日彼らと付き合って夜も寝てなかったのも、記事を書くのも。




昔は文化とか環境が人に対する影響みたいな記事を書いたこともあるが、
今(別に今だけじゃないけれど)は確実にそう思います。
僕自身のことでいえば、不束者だけど曲がりにも一物書きなんですから、
そういう人の心理に影響を与える何かについて、一応承知してるつもりです。
前も言いましたが、戦争を扱うジャンルは、ウチにはほとんどいませんってのも、
そういう匂いというか予感というか、一種的ココロに残してる拒絶感が、
間違いなくここに住んでいる人たちの深層意識に存在してるからです。
(もちろん、僕がへタレってのも大きいですが…)

そういう意味では、
「日本のアニメ」というのは皆素晴らしい「ファンタジー」かもしれません。
「ファンタジー」であるこそ、人を楽しめるものですし、
そういうファンタジーが作れる人たちも尊敬しているのですが、
あくまで娯楽に留まるものは、あまり人の心に残すことはありません。
だから、僕は富野作品が好きかもしれません。
才能がないゆえ(もちろん、当人の謙虚だが)、現実を入れざるを得ません。
でも、現実の要素というか人のあり方を入れたからこそ、
(作り手としての)独自性と(万世としての)普遍性が達成した。
もちろん、現実の要素とは何かと、訊くと、答えられません。
ですが、確実に感じた、と、しか言いません。
これは僕の偽りのない気持ちだからです。

▽続きを読む▽

富野由悠季と世界名作劇場シリーズの関係(または世界名作劇場監督・富野喜幸という可能性)

2008/11/09 00:03|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:0
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■富野コンテについての小メモ(随時更新)
■富野由悠季全コンテ本数(上)
■富野由悠季全コンテ本数(中)
■富野由悠季全コンテ本数(下-1)


前回は日本アニメーション系(ズイヨー映像含む)の監督たちの
世界名作劇場シリーズ履歴について語ってたが、
今度は日本アニメーション系のほかの作品履歴も入れてみよう。
ここは彼らの日本アニメーション系入り時期と、その後の動向に注目したい。


遠藤政治
73年『山ねずみロッキーチャック』監督
75年『みつばちマーヤの冒険』監督(シリーズ初期)
75年『草原の少女ローラ』演出(監督。江崎実生と連名)、絵コンテ、作画監督
76年『ピコリーノの冒険』監督(斎藤博と連名)
77年『あらいぐまラスカル』監督(1-29話、遠藤政治と連名)
→80年『ヤマトよ永遠に』、82年『ヤマト3』作画など

遠藤政治は1973年『山ねずみロッキーチャック』の全話監督と、
1977年『あらいぐまラスカル』の1-29話の監督を務めてた。
彼は『アトム』からのアニメーターで、ズイヨー入りの前に東京ムービーにいたらしいが、
詳細な仕事歴は判明しない。『ヤマト』シリーズなどにも参加。
昔はマンガ描きをやったこともあったらしい。


高畑勲
74年『アルプスの少女ハイジ』演出(監督)、絵コンテ
75年『フランダースの犬』絵コンテ
76年『母をたずねて三千里』演出(監督)、絵コンテ
78年『ペリーヌ物語』絵コンテ
78年『未來少年コナン』絵コンテ
79年『赤毛のアン』演出(監督)
→81年テレコムへ。

高畑勲はズイヨー映像では74年の『アルプスの少女ハイジ』が初めてだが、
実際制作は71年からすでに始めたため、実質ズイヨー映像の第1作演出(監督)といえる。
あとはテレコム、ジブリに行ったのはいうまでもないことだろう。


黒田昌郎
74年『アルプスの少女ハイジ』絵コンテ
75年『フランダースの犬』演出(監督)、絵コンテ
76年『母をたずねて三千里』絵コンテ
78年『ペリーヌ物語』絵コンテ
→81年『ふしぎな島のフローネ』演出(監督)など。

黒田昌郎は東映のアニメーターで、高畑ゆかりで『ハイジ』に参加して、
そのまま翌年の『フランダースの犬』の監督に。
日本アニメーションの仕事が多い。
最近は『いぬのえいが』『雲の学校』などがある。

ちなみに、↓は黒田氏のアニメ紹介ブログ。とても面白いので、是非一度を見に。
MOTTAINAI Lab(もったいない ラボ):研究員ブログ黒田昌郎
↓は映画の黒田氏仕事履歴紹介。ウィキを対照して使いましょう。
IMDB:Yoshio Kuroda


斎藤博
73年『山ねずみロッキーチャック』演出、絵コンテ、脚本
74年『アルプスの少女ハイジ』絵コンテ
75年『小さなバイキングビッケ』チーフディレクター(27-52話)、絵コンテ
75年『みつばちマーヤの冒険』監督(シリーズ中盤より)、絵コンテ
76年『ピコリーノの冒険』監督(遠藤政治と連名)、絵コンテ
77年『あらいぐまラスカル』監督(1-29話、遠藤政治と連名)、絵コンテ
77年『シートン動物記くまの子ジャッキー』絵コンテ
78年『ペリーヌ物語』監督(腰繁男と連名)、絵コンテ
79年『赤毛のアン』絵コンテ
→引き続けて世界名作劇場に参加

斎藤博も遠藤政治氏と同じく虫プロ出身のアニメーター。
東京ムービーの仕事を経って、遠藤監督と『ロッキージャック』でズイヨー入り。
その後、『ビッケ』『マーヤの冒険』『ピコリーノの冒険』の監督を経って、
『ラスカル』でまた世界名作劇場シリーズに戻った。
その後も様々の日本アニメーション作品に参加。
また、よく遠藤政治氏監督組むのが、同じスタジオの人間だったため。

斎藤監督については、こちらから。
斎藤博★プロフィール
斎藤博作品リスト


腰繁男
75年『みつばちマーヤの冒険』アシスタントディレクター
76年『ピコリーノの冒険』アシスタントディレクター
77年『あらいぐまラスカル』監督(30-52話)
78年『ペリーヌ物語』監督(斎藤博と連名)
79年『赤毛のアン』 演出、絵コンテ、演出助手
→80年『トムソーヤー』など世界名作劇場ほか、『鉄人28号』など。

腰繁男もやはりアニメーター出身で、『ドラえもん』や『ヤマト』に経って、
齋藤博監督の『マーヤの冒険』で日本アニメーション入りを果たした。
その後、よく齋藤監督と組むようになった。
ほかの人と違って、日本アニメーション以外の作品にもよく参加している。

腰繁男氏の参加作品については、↓から。
腰繁男―フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

と、以上の5人である。

ここで注目して欲しいの5人の共通点は、
日本アニメーション入り(注:制作的な意味。在籍というわけではない)以後、
つまり日本アニメーションの作品を作ってる間、
ほとんどほかの会社の作品を手がけなくなったという部分。
腰繁男氏はやや例外としても、やはり日本アニメーションの仕事がメインだった様子。
それがどういうことかというと、つまり一旦日本アニメーション作品のレギュラーになると、
離れた高畑と遠藤氏以外、監督であれ演出家であれ、
日本アニメーション以外の作品をやらないのが普通であるということ。
で、そんなことは富野と関係あるのかというと、そりゃ大関係ありです。


覚えて欲しい。こんなこともあったということ。

 『勇者ライディーン』の総監督の話があったのは、その頃のことだ。
 ゼロテスターのコンテを創映社の制作部において、暖かく明るい陽ざしの西武新宿線、上井草駅の前を、僕は……
”日本アニメの佐藤さんから夕方電話があるっていってたな。住宅ローンも組むメドがついたし、ほかに仕事もないし、久しぶりで子供と遊べる”と思いながら駐車場にむかっていた。
「トミちゃん、トミちゃん」
 創映社の渋江靖夫プロデューサーが、角っこから現れて呼び止める。
「話があるんだ。喫茶店にはいろ」
 その渋江プロデューサーと茶店にはいった瞬間、僕の運命がきまった。僕の人生のなかでの重量感でいうと手塚治虫先生と銀座の茶店にはいったときとおなじ重量感のある茶店行きであった。
「ロボットのC・Dをやらないか?」
「……やる」
 日本アニメの佐藤さんの話は気になるものの、オリジナル・ストーリーがやれるという直感が、OKの返事をだしたのである。
 その日の夜、日本アニメの佐藤さんから電話があった。
「遅くなっちゃって……。頼みというのはね、『小さなバイキング・ビッケ』っていう企画があってね、その総監督をやってくれないかと思って……」
 現実というのは、こういうものである。

(『だから僕は…』より)

…なんだかタイムマシーンがあったら富野に「やめろ!」と言いたい場面ですが、
果たしてそれは本当に悪魔の選択なんでしょうか?


もう一度『ビッケ』の資料を見よう。

小さなバイキングビッケ
1974年4月3日~1975年9月24日 全78話
監督(1-26話):勝井千賀雄
チーフディレクター(27-52話):斎藤博
チーフディレクター(53-78話):楠葉宏三(表記は「斎藤博」のまま)
富野担当コンテ本数:9本

26話までは虫プロ制作のため、超が付くベテラン勝井千賀雄氏が監督を担当だが、
虫プロは後で倒産したため、引き続き73年ですでにズイヨー入りを果たした斎藤博が後任。
しかし上記の『ライディーン』のエピソードを見て分かる通り、
その『ビッケ』監督の後任の位は、元々富野に継がれてもらいたかったものでした

で、何故富野に継がれてほしかったというと、
おそらく虫プロとのパイプになれるっていうのも一因だが、
一番大きかったのは、やはり富野自身の能力なんではないでしょうか。
ほかのスタジオの仕事はともかく、ズイヨー(日本アニメ)だけでもすでに
73年の『ロッキーチャック』と74年前半年の『ハイジ』の実績があったからこそ、
監督を探すときにスカウトされたのではないでしょうか。
(ちなみに、日本アニメーションで制作した『ムーミン』27話は1974年9月25日放映)
しかも、世界名作劇場の大半の監督はアニメーター出身と違って、
歴然の制作進行(悪くいうと絵が描けない人)出身の演出家だから、
まさにその純然な演出力が認められる証明ではないでしょうか。
(73年『ロッキーチャック』から83年の『アンネット』まで11年間の世界名作劇場監督のなか、
唯一アニメーター出身じゃない監督は高畑だけ)
だから、当時の富野喜幸という演出家は、本人が何を言おうと、
決して速さだけが取り柄のコンテマン、便利屋だけではないし、
高畑勲レベルまで行かなくても、少なく後20年間の間、
世界名作劇場を支えていた斎藤博と同等なレベルの人材と見なされてるから、
もう十分に評価されてるはず



で、その決断は富野に何の影響を与えたというと、斎藤博氏の履歴を見てた通り
世界名作劇場のレギュラースタッフで毎年参加した上、ほぼ2年ペースで監督をやってた。
言い換えると、世界名作劇場のポジションが約束されたようなものであったはず。
つまり、もしも富野が本当に『ビッケ』の監督を受けたら、
おそらく斎藤博氏を始めた日本アニメーションの演出家たちと同じように、
日本アニメーション専属の演出家(と監督)になる可能性が高い。
「世界名作劇場監督・富野喜幸」は今となってまったく想像つかなかったものだが、
当時はまさに運命の悪戯がなければ、とっくに実現したものなのかもしれません。


もちろん、富野の今のロボットアニメ専属監督になっちゃった現状を見ると、
ファンならきっと嘆くのだが、もしあの時は『ライディーン』じゃなくて、『ビッケ』を選んで、
そのまま日本アニメーション専属になったら、果たして幸せになれるでしょうか?
…おそらくなれないと思う。

そのわけは、日本アニメーションは90年代に入ってだんだん衰退していくし、
前にも言ったが、富野って実はあまり掛け持ちができない人間だったので、
別のジャンルをやるチャンスもなくなってるので、世界名作劇場をやってる間に、
ほのぼのモノしかやれない人のイメージがどんどん出来上がって、
結局ほかの作品にタッチする縁も無くなってるってのが目に見える。
(というか、世界名作劇場の大半の監督のケースはそうだった)
さらに致命的なのは、所詮(←失礼)原作ものなので、
いくら演出力が認められても、絶対に作家と認められず、
最後はおそらく「富野?ああ、昔の世界名作の人ですね」という
現在と比べて非常に微妙な評価しか得れなかったと思う。
だから、ロボットモノだけどオリジナル(というか、自分が原作者)のほうが、
考えれみればやはりそれはそれでよかったかもしれません。
まあ、人生なんて正解なんて無いですからね。

▽続きを読む▽

富野由悠季全コンテ本数(下-2)

2008/11/06 23:54|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:0
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関連記事
■富野コンテについての小メモ(随時更新)
■富野由悠季全コンテ本数(上)
■富野由悠季全コンテ本数(中)
■富野由悠季全コンテ本数(下-1)


前回は日本アニメーション系(ズイヨー映像含む)の監督たちの
世界名作劇場シリーズ履歴について語ってたが、
今度は日本アニメーション系のほかの作品履歴も入れてみよう。
ここは彼らの日本アニメーション系入り時期と、その後の動向に注目したい。


遠藤政治
73年『山ねずみロッキーチャック』監督
75年『みつばちマーヤの冒険』監督(シリーズ初期)
75年『草原の少女ローラ』演出(監督。江崎実生と連名)、絵コンテ、作画監督
76年『ピコリーノの冒険』監督(斎藤博と連名)
77年『あらいぐまラスカル』監督(1-29話、遠藤政治と連名)
→80年『ヤマトよ永遠に』、82年『ヤマト3』作画など

遠藤政治は1973年『山ねずみロッキーチャック』の全話監督と、
1977年『あらいぐまラスカル』の1-29話の監督を務めてた。
彼は『アトム』からのアニメーターで、ズイヨー入りの前に東京ムービーにいたらしいが、
詳細な仕事歴は判明しない。『ヤマト』シリーズなどにも参加。
昔はマンガ描きをやったこともあったらしい。


高畑勲
74年『アルプスの少女ハイジ』演出(監督)、絵コンテ
75年『フランダースの犬』絵コンテ
76年『母をたずねて三千里』演出(監督)、絵コンテ
78年『ペリーヌ物語』絵コンテ
78年『未來少年コナン』絵コンテ
79年『赤毛のアン』演出(監督)
→81年テレコムへ。

高畑勲はズイヨー映像では74年の『アルプスの少女ハイジ』が初めてだが、
実際制作は71年からすでに始めたため、実質ズイヨー映像の第1作演出(監督)といえる。
あとはテレコム、ジブリに行ったのはいうまでもないことだろう。


黒田昌郎
74年『アルプスの少女ハイジ』絵コンテ
75年『フランダースの犬』演出(監督)、絵コンテ
76年『母をたずねて三千里』絵コンテ
78年『ペリーヌ物語』絵コンテ
→81年『ふしぎな島のフローネ』演出(監督)など。

黒田昌郎は東映のアニメーターで、高畑ゆかりで『ハイジ』に参加して、
そのまま翌年の『フランダースの犬』の監督に。
日本アニメーションの仕事が多い。
最近は『いぬのえいが』『雲の学校』などがある。

ちなみに、↓は黒田氏のアニメ紹介ブログ。とても面白いので、是非一度を見に。
MOTTAINAI Lab(もったいない ラボ):研究員ブログ黒田昌郎
↓は映画の黒田氏仕事履歴紹介。ウィキを対照して使いましょう。
IMDB:Yoshio Kuroda


斎藤博
73年『山ねずみロッキーチャック』演出、絵コンテ、脚本
74年『アルプスの少女ハイジ』絵コンテ
75年『小さなバイキングビッケ』チーフディレクター(27-52話)、絵コンテ
75年『みつばちマーヤの冒険』監督(シリーズ中盤より)、絵コンテ
76年『ピコリーノの冒険』監督(遠藤政治と連名)、絵コンテ
77年『あらいぐまラスカル』監督(1-29話、遠藤政治と連名)、絵コンテ
77年『シートン動物記くまの子ジャッキー』絵コンテ
78年『ペリーヌ物語』監督(腰繁男と連名)、絵コンテ
79年『赤毛のアン』絵コンテ
→引き続けて世界名作劇場に参加

斎藤博も遠藤政治氏と同じく虫プロ出身のアニメーター。
東京ムービーの仕事を経って、遠藤監督と『ロッキージャック』でズイヨー入り。
その後、『ビッケ』『マーヤの冒険』『ピコリーノの冒険』の監督を経って、
『ラスカル』でまた世界名作劇場シリーズに戻った。
その後も様々の日本アニメーション作品に参加。
また、よく遠藤政治氏監督組むのが、同じスタジオの人間だったため。

斎藤監督については、こちらから。
斎藤博★プロフィール
斎藤博作品リスト


腰繁男
75年『みつばちマーヤの冒険』アシスタントディレクター
76年『ピコリーノの冒険』アシスタントディレクター
77年『あらいぐまラスカル』監督(30-52話)
78年『ペリーヌ物語』監督(斎藤博と連名)
79年『赤毛のアン』 演出、絵コンテ、演出助手
→80年『トムソーヤー』など世界名作劇場ほか、『鉄人28号』など。

腰繁男もやはりアニメーター出身で、『ドラえもん』や『ヤマト』に経って、
齋藤博監督の『マーヤの冒険』で日本アニメーション入りを果たした。
その後、よく齋藤監督と組むようになった。
ほかの人と違って、日本アニメーション以外の作品にもよく参加している。

腰繁男氏の参加作品については、↓から。
腰繁男―フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

と、以上の5人である。

ここで注目して欲しいの5人の共通点は、
日本アニメーション入り(注:制作的な意味。在籍というわけではない)以後、
つまり日本アニメーションの作品を作ってる間、
ほとんどほかの会社の作品を手がけなくなったという部分。
腰繁男氏はやや例外としても、やはり日本アニメーションの仕事がメインだった様子。
それがどういうことかというと、つまり一旦日本アニメーション作品のレギュラーになると、
離れた高畑と遠藤氏以外、監督であれ演出家であれ、
日本アニメーション以外の作品をやらないのが普通であるということ。
で、そんなことは富野と関係あるのかというと、そりゃ大関係ありです。


覚えて欲しい。こんなこともあったということ。

 『勇者ライディーン』の総監督の話があったのは、その頃のことだ。
 ゼロテスターのコンテを創映社の制作部において、暖かく明るい陽ざしの西武新宿線、上井草駅の前を、僕は……
”日本アニメの佐藤さんから夕方電話があるっていってたな。住宅ローンも組むメドがついたし、ほかに仕事もないし、久しぶりで子供と遊べる”と思いながら駐車場にむかっていた。
「トミちゃん、トミちゃん」
 創映社の渋江靖夫プロデューサーが、角っこから現れて呼び止める。
「話があるんだ。喫茶店にはいろ」
 その渋江プロデューサーと茶店にはいった瞬間、僕の運命がきまった。僕の人生のなかでの重量感でいうと手塚治虫先生と銀座の茶店にはいったときとおなじ重量感のある茶店行きであった。
「ロボットのC・Dをやらないか?」
「……やる」
 日本アニメの佐藤さんの話は気になるものの、オリジナル・ストーリーがやれるという直感が、OKの返事をだしたのである。
 その日の夜、日本アニメの佐藤さんから電話があった。
「遅くなっちゃって……。頼みというのはね、『小さなバイキング・ビッケ』っていう企画があってね、その総監督をやってくれないかと思って……」
 現実というのは、こういうものである。

(『だから僕は…』より)

…なんだかタイムマシーンがあったら富野に「やめろ!」と言いたい場面ですが、
果たしてそれは本当に悪魔の選択なんでしょうか?


もう一度『ビッケ』の資料を見よう。

小さなバイキングビッケ
1974年4月3日~1975年9月24日 全78話
監督(1-26話):勝井千賀雄
チーフディレクター(27-52話):斎藤博
チーフディレクター(53-78話):楠葉宏三(表記は「斎藤博」のまま)
富野担当コンテ本数:9本

26話までは虫プロ制作のため、超が付くベテラン勝井千賀雄氏が監督を担当だが、
虫プロは後で倒産したため、引き続き73年ですでにズイヨー入りを果たした斎藤博が後任。
しかし上記の『ライディーン』のエピソードを見て分かる通り、
その『ビッケ』監督の後任の位は、元々富野に継がれてもらいたかったものでした

で、何故富野に継がれてほしかったというと、
おそらく虫プロとのパイプになれるっていうのも一因だが、
一番大きかったのは、やはり富野自身の能力なんではないでしょうか。
ほかのスタジオの仕事はともかく、ズイヨー(日本アニメ)だけでもすでに
73年の『ロッキーチャック』と74年前半年の『ハイジ』の実績があったからこそ、
監督を探すときにスカウトされたのではないでしょうか。
(ちなみに、日本アニメーションで制作した『ムーミン』27話は1974年9月25日放映)
しかも、世界名作劇場の大半の監督はアニメーター出身と違って、
歴然の制作進行(悪くいうと絵が描けない人)出身の演出家だから、
まさにその純然な演出力が認められる証明ではないでしょうか。
(73年『ロッキーチャック』から83年の『アンネット』まで11年間の世界名作劇場監督のなか、
唯一アニメーター出身じゃない監督は高畑だけ)
だから、当時の富野喜幸という演出家は、本人が何を言おうと、
決して速さだけが取り柄のコンテマン、便利屋だけではないし、
高畑勲レベルまで行かなくても、少なく後20年間の間、
世界名作劇場を支えていた斎藤博と同等なレベルの人材と見なされてるから、
もう十分に評価されてるはず



で、その決断は富野に何の影響を与えたというと、斎藤博氏の履歴を見てた通り
世界名作劇場のレギュラースタッフで毎年参加した上、ほぼ2年ペースで監督をやってた。
言い換えると、世界名作劇場のポジションが約束されたようなものであったはず。
つまり、もしも富野が本当に『ビッケ』の監督を受けたら、
おそらく斎藤博氏を始めた日本アニメーションの演出家たちと同じように、
日本アニメーション専属の演出家(と監督)になる可能性が高い。
「世界名作劇場監督・富野喜幸」は今となってまったく想像つかなかったものだが、
当時はまさに運命の悪戯がなければ、とっくに実現したものなのかもしれません。


もちろん、富野の今のロボットアニメ専属監督になっちゃった現状を見ると、
ファンならきっと嘆くのだが、もしあの時は『ライディーン』じゃなくて、『ビッケ』を選んで、
そのまま日本アニメーション専属になったら、果たして幸せになれるでしょうか?
…おそらくなれないと思う。

そのわけは、日本アニメーションは90年代に入ってだんだん衰退していくし、
前にも言ったが、富野って実はあまり掛け持ちができない人間だったので、
別のジャンルをやるチャンスもなくなってるので、世界名作劇場をやってる間に、
ほのぼのモノしかやれない人のイメージがどんどん出来上がって、
結局ほかの作品にタッチする縁も無くなってるってのが目に見える。
(というか、世界名作劇場の大半の監督のケースはそうだった)
さらに致命的なのは、所詮(←失礼)原作ものなので、
いくら演出力が認められても、絶対に作家と認められず、
最後はおそらく「富野?ああ、昔の世界名作の人ですね」という
現在と比べて非常に微妙な評価しか得れなかったと思う。
だから、ロボットモノだけどオリジナル(というか、自分が原作者)のほうが、
考えれみればやはりそれはそれでよかったかもしれません。
まあ、人生なんて正解なんて無いですからね。


おまけに、『マーヤの冒険』の監督をやるため『ビッケ』の監督に降板した
斎藤博氏に代って後任を務めた楠葉宏三の履歴を入れてみた。
この方もアニメーター出身じゃない人らしく、83年の『アンネット』から監督を勤めて、
結果的に一番世界名作劇場をやった人となった。
また、新ドラえもんの総監督としても有名。

楠葉宏三
1974年『小さなバイキングビッケ』演出、(53-78話実質的なチーフディレクター)
1975年『アラビアンナイト シンドバットの冒険』アシスタントディレクター
1977年『あしたへアタック!』演出
1978年『ペリーヌ物語』演出
1979年『赤毛のアン』演出
1979年『アニメーション紀行 マルコポーロの冒険』構成
1981年『フーセンのドラ太郎』監督

1983年『アルプス物語 わたしのアンネット』監督
1986年『愛少女ポリアンナ物語』監督
1988年『小公子セディ』監督
1990年『ちびまる子ちゃん』(第1期)絵コンテ、演出
1991年『トラップ一家物語』監督
1993年『若草物語 ナンとジョー先生』監督
1994年『七つの海のティコ』絵コンテ、演出
1995年『ロミオの青い空』監督
1995年『ちびまる子ちゃん』(第2期)絵コンテ、演出
1996年『家なき子レミ』監督、シリーズ構成
1999年『MARCO 母をたずねて三千里』監督
2003年『onちゃん夢パワー大冒険!』監督
2004年『それいけ!ズッコケ三人組』絵コンテ、演出
2005年『ドラえもん 新シリーズ』総監督
2006年『ドラえもん のび太の恐竜2006』総監督・脚本
2007年『ドラえもん のび太の新魔界大冒険 〜7人の魔法使い〜』総監督
2008年『ドラえもん のび太と緑の巨人伝』総監督

赤字は日本アニメーション制作以外作品


お誕生日おめでとうございます

2008/11/05 00:12|未分類TRACKBACK:1COMMENT:1
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今日は富野由悠季監督の誕生日ですよ。
みんなで誕生日の祝いを唄いましょう。

ハッピー バースデー トゥー ユー
ハッピー バースデー トゥー ユー
ハッピー バースデー ディア お禿
ハッピー バースデー トゥー ユー

いや~、最近毎日憂鬱な僕ですが、せめて富野監督の誕生日を借りて、
元気な一日を過ごせましょう。


富野由悠季全コンテ本数(下-1)

2008/11/04 21:00|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:0
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富野が参加した日本アニメーション系(ズイヨー映像を含む)を調べてみました。
結果は以下である。

山ねずみロッキーチャック
1973年1月7日~12月30日 全52話
監督:遠藤政治
富野担当コンテ本数:5本

アルプスの少女ハイジ
1974年1月6日~12月29日 全52話
演出:高畑勲
富野担当コンテ本数:18本(もっとも多い)

小さなバイキングビッケ
1974年4月3日~1975年9月24日 全78話
監督(1-26話):勝井千賀雄
チーフディレクター(27-52話):斎藤博
チーフディレクター(53-78話):楠葉宏三(表記は「斎藤博」のまま)
富野担当コンテ本数:9本

フランダースの犬
1975年1月5日~12月28日 全52話
演出:黒田昌郎
富野担当コンテ本数:3本

母をたずねて三千里
1976年1月4日~12月26日 全52話
監督:高畑勲
富野担当コンテ本数:22本(もっとも多い)

あらいぐま ラスカル
1977年1月2日~12月25日 全52話
監督(1-29話):遠藤政治、斎藤博
監督(30-52話)腰繁男
富野担当コンテ本数:19本(もっとも多い)

シートン動物記 くまの子 ジャッキー
1977年6月7日~12月6日 全26話
監督:黒田昌郎
富野担当コンテ本数:1本

ペリーヌ物語
1978年1月1日~12月31日 全53話
監督:斎藤博、腰繁男
富野担当コンテ本数:10本

未來少年コナン
1978年4月4日~10月31日 全26話
監督:宮崎駿
富野担当コンテ本数:2本

赤毛のアン
1979年1月7日~12月30日 全50話
演出:高畑勲
 横田和善(22、25、29、33、36、40、44、48)
 楠葉宏三(41、45、49)
 馬場健一(42、46、50)
 腰繁男(43、47)
富野担当コンテ本数:5本

世界名作劇場じゃない『ビッケ』『くまの子ジャッキー』と『コナン』を除くと、
73年の『ロッキーチャック』、74年の『ハイジ』、75年の『フランダースの犬』、
76年の『母をたずねて三千里』、77年の『ラスカル』、78年の『ペリーヌ』、
79年の『アン』まで7年連続参加、合計7作品、82本コンテ。
その一つ一つを見てみましょう。


まずは『ロッキーチャック』。
これはズイヨー映像入りの初めての作品で、参加するのは20話から。
担当回は20、31、41、45、49話。
また、『だから僕は…』では監督の遠藤政治について言及あり。

ハイジ』。
演出は高畑。富野がアニメにおけるもっとも尊敬してる一人。
ズイヨー映像での2作目。
自分のコンテはかなり直されたと言いながらも、結局的に一番コンテを描いた人となった。
担当回は4、7、10、13、14、18、21、23、27、29、33、37、40、42、44、46、49、51話の18本。
まあ、ベースとなるコンテは高畑みたいな作家にとって必要なものなんだからこそ、
手が早い富野は重宝されるんでしょうね。

フランダースの犬』。
演出は黒田昌郎。
この時期自作の『ライディーン』とぶつかったため、コンテはわずか3本しかいなかった。
担当回は6、8、11話と、いずれも初期の話である。
(ちなみに、富野が担当する『ライディーン』の前半は1975年4月4日~9月30日)

母をたずねて三千里』。
また高畑作品。
この時期は別の監督作品とぶつからなかったため、また22本に急アップ。
担当回は3、6、8、10、12、14、17、20、23、26、29、31、33、36、39、40、42、44、
46、48、50、そして最終話の52話。
コンテ数は一番多かった。ほぼ月二回という恐ろしいスピードでコンテを仕上げた。

ラスカル』。
監督は遠藤政治、斎藤博、腰繁男の三人。なんだかややこしいな。
担当回は8、10、11、13、15、17、18、19、21、24、26、28、30、33、37、39、40、44、47話。
やはり一番描いたコンテマン。19本がある。
後半は『ザンボット』とぶつかったため、また月一回という速度に戻ってた。
ここでは富野は高畑だけでなく、ほかの監督にも適用することが証明された。
(ちなみに、『ザンボット』は1977年10月7日~1978年3月25日)

ペリーヌ』。
監督は前回に続いて斎藤博と腰繁男。
後半の半分近くは『ダイターン』とぶつかったため、コンテは10本しかありません。
担当回は2、5、9、11、19、30、38、41、45、48話。
(ちなみに、『ダイターン』は1978年6月3日~1979年3月31日)

最後は『アン』。
監督はおなじみの高畑。
残念ながら、『ガンダム』を始まってるため、世界名作劇場コンテもここで区切り。
担当回は8、9、12、15、17話の5本。
『ガンダム』の放映とダブった話数もあるが、いずれも前半の話数なので、
コンテ自体は『ガンダム』の前で切ったものと思われる。

纏めると、
富野が参加した日本アニメーション系の世界名作劇場作品の監督は以下の5人。
ついでに彼らがこの時期の世界名作劇場を参加したほかの履歴も入れてみた。

遠藤政治:
73年『ロッキーチャック』監督
77年『ラスカル』監督

高畑勲:
74年『ハイジ』演出(監督)、絵コンテ
76年『母をたずねて三千里』演出(監督)、絵コンテ
79年『アン』演出(監督)

黒田昌郎:
75年『フランダースの犬』演出(監督)、絵コンテ
76年『母をたずねて三千里』絵コンテ
78年『ペリーヌ』絵コンテ

斎藤博:
73年『ロッキーチャック』演出、絵コンテ、脚本
74年『ハイジ』絵コンテ
77年『ラスカル』監督(遠藤政治と連名)、絵コンテ
78年『ペリーヌ』監督(腰繁男と連名)、絵コンテ

腰繁男:
77年『ラスカル』監督(斎藤博と連名)
78年『ペリーヌ』監督(斎藤博と連名)
79年『アン』 演出、絵コンテ、演出助手


一見何の偏屈も無いリストだが、別の「何か」を一緒に入れて見れば、
富野と世界名作劇場に関するとても意外なことが見られます。
長く書いてしまったので、続きは明日で。


富野が監督をやる時の掛け持ち

2008/11/03 19:27|富野由悠季関連TRACKBACK:0COMMENT:0
このエントリーを含むはてなブックマーク はてなブックマーク - 富野が監督をやる時の掛け持ち
今はある記事を書いてるが、今日は終りそうもないので、
途中の副産物を簡単に書く。

コンテ千本切りといわれる富野だが、監督をやるときの掛け持ちコンテは以外と少ない。
もちろん、正確な制作時期を知るわけないですから、以下は放送時期を示す。

トリトン:1972年4月1日~9月30日
 Q太郎35話
 ミュンヘンへの道6、7話
 モンシェリCOCO3、4話
ライディーン(前半):1975年4月4日~9月30日
 なし
ザンボット:1977年10月7日~1978年3月25日
 ラスカル44、47話
 ペリーヌ2、5、9、11話
 ボルテス19話
ダイターン:1978年6月3日~1979年3月31日
 ペリーヌ30、38、41、45、48話
 ダイモス14話
 コナン14、21話
 アン8、9、12話
ガンダム:1979年4月7日~1980年1月26日
 アン15、17話
 ガッチャマンⅡ32話

こうしてみると、富野はいかに集中的なタイプが分かる。
ちなみに、『ボルテス』のコンテは『コンバトラー』と比べて半分しかないのは、
『ボルテス』の後半は『ザンボット』とぶつかったため。
『フランダースの犬』のコンテも『ライディーン』とダブったため、非常に少ない。
なお、『ライディーン』の時の掛け持ちはなんと一つなかった。
当時の意気揚々が伺えますね。何せ初めてのオリジナルですからね。

また、逆説的でいえば、もしかしたら掛け持ち数の多さからは
富野の真剣度が伺えるのかもしれません!?


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